白狼 白起伝

松井暁彦

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王の誕生

 四

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 父王の寝所には、医者と高官数名の姿があった。

「外せ」
 皆がそろそろと退出する。絹の天蓋に覆われた、しんだいが寝所の中央にある。己の呼吸と対となる、いやに速い呼吸音が幕の内側から漏れ聞こえてくる。垂れた幕を払い、病臥の父を見た。

「無様だな。父上―。いや、親父」
 秦を尚武の国へと導き、智勇兼備を誇った父王の面影はなかった。臥するは肉が削げ落ち、骨と皮だけになった死を目前とした老人。半眼に開いた眼は、白濁していて虚ろである。罅割れた唇から、隙間風のような音が絶えず鳴っている。病み衰えた父の姿を無感動な眼で見下ろす。

「俺にとって、あんたはただの血の繋がった男。その程度のものだ。思い返しても、まともな父子らしい記憶はない。当然といえば当然か。女体に溺れて、胤を植えまくってれば、そうなるわな。正直に話す。俺はあんたを父親とも思っていないし大嫌いだ。でもなー。一つだけ、あんたと俺で共有していることがある。一つだけ覚えてるんだ。あんたが俺に語ってくれた夢を」
 瞼を閉じ懐古する。幼き頃、父が己に語った夢を。

「あんたは天下統一の夢に語った。あんたは言ったよな。一つの国が天下を統べれば、地上から争いは消えると。秦の旌旗の元に、万代に亘る永久不変の泰平が訪れるって。今でも鮮明に覚えているよ。夢を語ってくれた時のあんたの顔を。まるで子供みたいだった。年甲斐もなく屈託なく笑ってさ」
 父の目線は、未だ天井を見上げている。

「苛つくけどな、思い知らされたよ。俺達はやっぱり親子なんだと。何時しか、あんたの夢が俺の夢になっていた。まぁ、夢に託す思いには多少の差異があるだろうが。だが、俺は夢に妥協はしない。あんたは、晩年に己の夢に妥協したんだ。そうさ。半壁はんぺきの天下で満足しちまった。だからこそ、張儀みたいな胡散臭い縦横家を重用する羽目になった。無様だよ。本当に。あんたの最期にはお似合いだ」
 白濁した眸が微動した。そして、眸は時を掛けて嬴蕩を捉える。

「餓鬼を拾った。全身の体毛が白い奇妙な餓鬼だ。そいつさ、自分の命に頓着しねぇんだ。十二歳そこらの餓鬼がだぜ。哀しいよな。多分、この世界には白のような不幸な餓鬼がわんさかいる。俺はな、こんな糞みたい世界を早く終わりにしたい。俺が餓鬼に弱いのは、あんたのせいだよ。胤を撒くだけ撒いて、俺はずっと独りだった。きっと、餓鬼を見ると孤独だった餓鬼の頃と重ねるんだろうな」
 父の呼吸音が強くなる。何かを訴えかけているようだ。

「よせよ。あんたの口から謝罪の言葉なんて聞きたくねぇ。撚り合わせたようなか細い絆でも、俺達は親子だ。あんたに宣言するよ。俺は全てを滅ぼし、新たな世界を作り上げる。万斛ばんこくの血が流れるだろう。それでも、百年―。千年―。万年―と血が流れ続けるよりはいい」
 不意に頬へ温かいものが流れた。

「蕩・・・・」
 父がやっとの思いで絞り出した声だった。だが、嬴蕩は払うように踵を返した。天蓋の内側から苦悶の声が漏れる。

「あばよ、親父。次は冥界で会おうぜ」
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