国殤(こくしょう)

松井暁彦

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終章

項燕

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「ここでいい」
 乾いた声で告げると、副官の祥允しょういんは、項燕こうえんを地に仰向けに寝かせた。
 
 戦の喧噪は遠く、無窮に続く沃野よくやが続いている。

「殿」

 祥允を始め、生き残った百名の麾下が膝をつく。至る所で啜り泣く声がする。

「感謝するぞ。このような老い耄れによく仕えてくれた」

「私達も殿と共に」
 項燕の唇が震えた。血に塗れる手を、空へと伸ばす。

「光はまだある」

 朦朧とする視界に、巨大な黒い影が映る。それは空を旋回し、別れを告げるように短く咆哮すると、東へと両翼を羽搏かせ飛び去った。 己の中に宿り続けていた竜の行先が、項燕には不思議と分かった。

「最期の頼みだ。どうか息子達、孫のせきを守ってやって欲しい」

「命を懸けて、御守り致します」
 祥允は滂沱の涙を流し、項燕の手を握った。

「行け、お前達。わしは最期に己と向き合うことにする」
 項燕は呻吟しんぎんの末、上体を起こし、祥允の佩剣を掴み取った。

「殿。お別れを」

 総勢百名の麾下が立ち上がり、強く拱手した。
 全員の頬が涙で濡れている。

「ああ。達者でな」
 
 麾下達が騎乗し、地平線の彼方へ向かって駆けてゆく。
 彼等の背を見送りながら、項燕は剣を抜いた。
 膝を立て、刃を首元へ誘う。

春申君しゅんしんくん。わしはあなたに与えてもらった力を無駄にしてしまった」
 
 頬に熱いものが流れる。
 瞬間。創痍を光の粒子が覆った。光は天に向かって解けていく。 

「無駄ではない。意志の力は見えぬが、国を想い、逝った男達の意志は、確かに次の世代へと継承されている」
 春申君の声が耳元で響く。
 
 光の中に春申君がいて、項燕を抱きしめていた。

「後のことは按ずるな。安心して戦人らしく、誇り高く逝くがいい」

 光が弾けた。そこには、もう春申君の姿はなく、沃野に静謐だけが拡がっている。

 見遣った沃野の彼方に、竜のぬいとりの黒き旌旗が見える。旗には項の文字。戦の喧噪が天地を襲い、何十万という兵の影が揺らめく。

 先頭を駆ける、黒馬に跨る威風堂々とした若い男。項燕には、その男が誰なのか遠目でも理解できた。

「籍―」

 確かに意志は託されたのだ。そして、未来は項籍が切り拓く。

「託したぞ」

 項燕は迷うことなく、首に添わした刃を引いた。

 暗転する視界。だが、絶命の間際、彼の心に悔恨なく、波のない湖面のように凪いでいた。
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