国殤(こくしょう)

松井暁彦

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五章 陥穽

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 一ヶ月が経過した。秦軍が籠る、砦は日に日に堅牢さを増して行った。砦の前には四方を巡る壕が掘られ、塁壁は三重にもなっている。今や俄作りの砦は、金城鉄壁の付城と化している。

 六十万もの兵を抱えていながら、備蓄も底を尽きる様子もない。朱方率いる別動隊が、淮水以北を駆け回り、兵站部隊を各個撃破しているが、手は足りていないのが現状であった。
 
 楚兵は倦み始めていた。猛攻を仕掛けても、秦軍は矢を放つばかりで、砦に亀のように籠って出てこない。犠牲としては少ないが、それでも一日に数十人は矢に射貫かれて死んでいく。
 
 霞を掴むように、王翦の考えが、項燕には読めない。朱方の麾下に、東の斉の動向を探らせてはいるが、斉が出師したという報せもない。

(斉の掩護は、王翦の欺瞞なのか。だとすれば、何故、こうも腰を据えることができる)
 
 たとえ、朱方が潰しきれないほどの兵站線を確保しても、兵糧は無限に湧いてくる訳ではない。単純な長期戦ならば、長大な領土から、兵糧を確保できる、楚の方が明らかに有利なのだ。

「気味が悪いのう」
 項燕は闇の沈んだ地平線で浩々と照る、無数の炬火の光を睨みながら独語する。

「将軍」
 熊烈が項燕の脇に立つ。

「どうだ?」

「巧く潜り込んだ間者の報によると、王翦は毎日、兵士達に沐浴させ、飲食は充分と言えるほどに配給し、自身は主だった将校達と毎夜、宴に興じているようです」

「宴だと」
 項燕は呻き声と共に、伸びた髭に触れる。

「王翦は何を考えているのでしょうか?」

「秦の底力を誇示している。そんな単純な理由ではあるまい」
 闇に浮かび、炬火の光が揺らめいた。今も尚、王翦は宴に興じているのかもしれない。

「こちらを煽っているのでは。此方の焦燥を駆り立て、決死の猛攻を仕掛けさせ、鋭気を充分に養わせた兵達に迎撃させる。我等の兵は、先の見えない小康状態に倦み始めている。鋭気が散漫になった兵士と充分に養われた兵士の働きでは、雲泥の差がありますから。王翦は少ない犠牲で、我が二十万の軍を覆滅させることができる」
 
 熊烈の読みは正鵠せいこくを射ている。しかし、項燕や熊烈が想定できる程度の策謀を、意地の悪い王翦が実行に移すだろうか。項燕の知る王翦は、熊烈が描く王翦像より、遥かに怜悧狡猾だ。

「将軍。此処は静観する方が賢明かと。斉に動きがない今、此処は王翦の煽りに乗らず、敵が立ち枯れるのを待つべきです」
 
 項燕は何も答えない。熊烈が提示した策以上のものが、己の中にはない。
 何の兆候もなく、ぽつぽつと小雨が降り始める。

「また雨ですね」

 掌を熊烈は前に出し、雨の感触を肌で確かめる。頬を撫ぜる風が、ぬるく嫌な湿気を孕んでいる。

「当分の間、雨が続きそうだ」
 
 沛然と驟雨が来る。大きな雨粒が地を穿つ音が、平野に虚しく鳴り響く。

「幕舎に戻りましょう」

「ああ」

 踵を返す前に、ぼんやりと浮かぶ炬火の光を睨む。光は浩々と凝る闇の中で、地平線に揺らめき続けている。
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