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五章 陥穽
七
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河水(黄河)と揚子江に、南北を挟まれる形で流れる淮水は東西を約二千里という長さで流れている。淮水の流れは複雑で、北岸と南岸で無数の分水嶺がある。面倒なことに秦は淮水の分水嶺に兵糧を積んだ、輸送船を着岸させている。
次々に輜重隊は、淮北に布陣する秦軍へと兵糧を運び込んでいる。秦には三千里の運航を可能とする大船が千を超え、一艘で五百人の腹を十日は満たせるだけの荷を積むことができる。加えて陸路からも兵糧を積んだ、何百という輜重隊が、南下を進めている。陸路にあるものは、秦の支配下にある城邑から集められたもので、かつては楚の管轄下にあった、黔中や上庸から徴発されたものも少なくはない。
河川と陸の兵站線を併せると、ざっくばらんに数えたとしても、五百は超える。王翦は、巧妙に兵站線をばらけさせているのだ。故に朱方率いる二万の別動隊は、東西二千里の距離を少数で休む間もなく、駆け回ることを強いられている。
搦め手に回されてから、半月が経過する頃には、朱方の相貌は疲労で様変わりしていいた。双眼は落ち窪み、眼許には黒い隈。頬は削げ、兜を脱ぐと、綺麗に結い上げていた髪は蓬髪となっている。
五刻ほど前に、分水嶺に着岸したばかりの輸送船を叩いたばかりで、今は兵馬に休息を与えていた。朱方は平地に突き出した岩の上に座り、地を這う働き蟻の様子を眺めていた。その様はまるで魂が抜け落ちた、幽鬼のようである。
朱方だけではない。兵士達もたったの半月で疲労の極みに達していた。泥のように眠る者。呆けたように仰ぐ者。様々であるが、灰心喪気が蔓延している。
土台無理な話であった。たったの二万で、何千里を駆け回り、蜘蛛の巣のように巡る、秦の兵站線を潰すなど。
ましてや、この兵数から五百を割き、斉の動向を探らせる為の斥候部隊を放っている。何故、己がこのような役目をー。という想いは強い。父の無念を晴らす為に、出奔先であった斉から、滅亡の危機にある楚に奔った。
だが、己が求めた役割は、このようなものではない。亡き父は己に危殆に瀕する、楚を助けよと言い遺した。父は悔恨の渦にのまれ、逝った。その様は憐れであったと言っていい。今のままでは、父の魂は救われることなく、地上を彷徨い続けるだろうと思った。
忠義に叛いた、父は死して尚、不忠という汚名に縛り続けられている。父の魂を救済するには、子である己が、父の悲願を成就させるしかない。だが、楚に奔り、楚の勇将項燕の幕僚に加えられたものの、その先に待っていたのは望んだものではなかった。先鋒ではなく、搦め手に回され、父の悲願を成就させる機会を失った。
朱方は奥歯を噛み締める。
(このままでは、父上の魂は永遠に救われることはない)
搦め手に回ることを命じた、老骨の顔が脳裏に浮かび上がる。
憤怒は新鮮なものとして、肚の底から突き上がってくる。当初は項燕に対して、憧憬の念を抱いていた。父は食客としてー。項燕は子飼いの将校として、同じく春申君に仕えていた。
病に臥せる、父は懐かしむように、項燕のことを幾度も語っていた。勇猛果敢で忠義に篤い、楚一の名将であると。斉から楚に奔り、初めて項燕を眼の前にした時は、心が感動で震えた。朱方にとって、項燕の存在は生きる伝説と化していた。
だが、今はどうか。不満と憤懣が、胸に抱いていた憧憬を押しつぶしている。
(将軍は、王翦を相手に臆しているのではないか)
(何故、この私が搦め手に回らなくてはならないのか。搦め手など、若い熊烈にやらせておけばいいものを)
(私の力量は、将軍に示した。熊烈より遥かに私の方が優れていたはずだ)
無数の黒い感情が、泡のように次々と胸に拡がる。
「将軍!」
麾下の一人が、覚束ない足取りで駆けてくるのが見えた。
「何の用だ?」
朱方は重い腰を上げ、空疎な眼で麾下を見た。
「西に放っていた斥候部隊が、北へ脱けようとする、数名の怪しい男達を捕縛しました」
「怪しい男達?」
地を這うように沈んでいた心が、僅かにもちあがる。
「その者達を此処へ」
一刻後。縄を打たれた三名の男達が、朱方の前に引っ立てられた。
「その具足は」
膝を折った男達が、纏う具足は、楚のものであった。
「間者か?」
朱方は窪んだ眼を眇めた。
「いや。違うな」
男達は楚人特有の浅黒い肌で彫りの深い顔をしており、短躯であった。
地方軍の兵士が、北へ脱走を図ったという可能性が高いが、三名の男達から、それ以上に胡乱なものを感じる。
「北へと向かうつもりだったのか。確かに斉に逃げ込めば、戦禍からは免れることはできよう」
男達は斜を向き、閉口している。
「何処の所属か知らんが、軍から脱走したものは厳しく罰せられる。軍に所属していたのなら、軍規を知らん訳ではあるまい。今は国の存亡を懸けた戦時にある。脱走の罪は更に重くなる。場合によっては首が飛ぶ」
朱方は冷たい眼差しを向けたまま、剣を静かに抜き放った。
男達が初めて怯懦の色を見せた。
「本来ならば、違反者は総帥であられる項燕将軍の元へ送還し、裁可を仰ぐことになっているが、今は将軍もなにかと立て込んでおられる。今、私がお前達の首を刎ねたとしても、私が将軍から咎めを受けることはあるまい」
「お、お許しを!俺達は項燕将軍の直々の命で、秦へ向かっていたのです」
真中の男が、愧汗を流し懸命に訴えた。
「項燕将軍の命だと?」
朱方は眉を顰めた。
「全てお話します。だから、命だけは」
三人が一斉に、啜り泣きを始めた。
顎で二人の麾下に指示を送り、男達の躰を検めさせる。
「これは」
麾下の声が漏れる。
麾下の懐には、封泥が成された木簡があった。
「貸せ」
朱方は麾下の手から、木簡を乱暴に奪い取る。
三人の男達は、尚も啜り泣いている。
「ちっ。耳障りだ」
弧を描いた、二筋の斬光が走る。
真ん中の男を残して、両脇の男達の躰がくの字に曲がる。鈍い音を立てて、地に突っ伏すような形で倒れた、二人の男達は首から鮮やかな血の華を咲かせていた。二歩先の距離に、胴から切り離された頭が転がっている。
一人残された男は絶叫する。
「黙らせろ」
麾下に命じると、男は剣の柄頭で鳩尾を打たれた。苦悶の声が漏れる。だが、泣き喚かれるよりはいい。
朱方は封泥を解き、木簡を拡げた。
「何だと」
総身に衝撃が走る。そして、奈落の底から、漆黒の瞋恚が這い上がってくる。
「おい!」
痛みに悶える男の髪を掴む。
「もう一度、訊く。お前達は、この書簡を項燕将軍の命で、秦へ届けるように命じられたのだな」
「は、はい。その通りです」
「直接、命じたのは項燕将軍か?」
男の髪を鷲掴む手に、力が入る。みしみしと髪が皮膚から剥がれていく。
男は涙を流したまま、低い声で呻いた。
「答えろ!」
「項燕将軍が認められた書簡を、秦に届けるように命じたのは、熊烈将軍です!」
「熊烈だと」
嚇怒で唇がわなわなと震える。
「お前はこの書簡の内容を知っているのか」
「見当もつきません!俺達は書簡を、秦に届けろとしかー。知っていることは全てお話しました。どうか命だー」
最後まで言わせなかった。刹那の速さで振るわれた刃は、男の頭蓋を叩き割った。
頭が潰れた男の死体が横たわる。
朱方は怒息を漏らし、陰火を灯らせた眼で、男の死体を睨みつける。暴れ狂う激情に任せ、既に息絶えた男を膾に切り刻んだ。
「将軍―」
あまりの凄惨さに、周りを囲っていた麾下達は、蒼白い顔で立ち尽している。
「裏切り者だ」
朱方は独りごちるように呟いた。
「将軍。今、なんと?」
聞き取ることのできなかった、麾下の一人が恐る恐る尋ねる。
「兵を叩き起こせ!今すぐ本陣へ引き返す!」
雷鳴の如き、声量で朱方は叫んだ。
麾下は誰も、何故とは訊かなかった。 曳かれた馬に飛び乗り、肚を蹴る。
末端の兵士達の支度は整っていなかったが、構わなかった。
凱風を受ける、朱方は形相は鬼と化していた。
(決して許さぬ。己の保身の為、祖国を売り、父の魂を救済する機会を奪った、あの男を。英雄面をした老い耄れの眉間を、我が剣で貫いてくれる)
朱方は憤怒の化身となり、今や見据える敵は王翦ではなく、項燕であった。
次々に輜重隊は、淮北に布陣する秦軍へと兵糧を運び込んでいる。秦には三千里の運航を可能とする大船が千を超え、一艘で五百人の腹を十日は満たせるだけの荷を積むことができる。加えて陸路からも兵糧を積んだ、何百という輜重隊が、南下を進めている。陸路にあるものは、秦の支配下にある城邑から集められたもので、かつては楚の管轄下にあった、黔中や上庸から徴発されたものも少なくはない。
河川と陸の兵站線を併せると、ざっくばらんに数えたとしても、五百は超える。王翦は、巧妙に兵站線をばらけさせているのだ。故に朱方率いる二万の別動隊は、東西二千里の距離を少数で休む間もなく、駆け回ることを強いられている。
搦め手に回されてから、半月が経過する頃には、朱方の相貌は疲労で様変わりしていいた。双眼は落ち窪み、眼許には黒い隈。頬は削げ、兜を脱ぐと、綺麗に結い上げていた髪は蓬髪となっている。
五刻ほど前に、分水嶺に着岸したばかりの輸送船を叩いたばかりで、今は兵馬に休息を与えていた。朱方は平地に突き出した岩の上に座り、地を這う働き蟻の様子を眺めていた。その様はまるで魂が抜け落ちた、幽鬼のようである。
朱方だけではない。兵士達もたったの半月で疲労の極みに達していた。泥のように眠る者。呆けたように仰ぐ者。様々であるが、灰心喪気が蔓延している。
土台無理な話であった。たったの二万で、何千里を駆け回り、蜘蛛の巣のように巡る、秦の兵站線を潰すなど。
ましてや、この兵数から五百を割き、斉の動向を探らせる為の斥候部隊を放っている。何故、己がこのような役目をー。という想いは強い。父の無念を晴らす為に、出奔先であった斉から、滅亡の危機にある楚に奔った。
だが、己が求めた役割は、このようなものではない。亡き父は己に危殆に瀕する、楚を助けよと言い遺した。父は悔恨の渦にのまれ、逝った。その様は憐れであったと言っていい。今のままでは、父の魂は救われることなく、地上を彷徨い続けるだろうと思った。
忠義に叛いた、父は死して尚、不忠という汚名に縛り続けられている。父の魂を救済するには、子である己が、父の悲願を成就させるしかない。だが、楚に奔り、楚の勇将項燕の幕僚に加えられたものの、その先に待っていたのは望んだものではなかった。先鋒ではなく、搦め手に回され、父の悲願を成就させる機会を失った。
朱方は奥歯を噛み締める。
(このままでは、父上の魂は永遠に救われることはない)
搦め手に回ることを命じた、老骨の顔が脳裏に浮かび上がる。
憤怒は新鮮なものとして、肚の底から突き上がってくる。当初は項燕に対して、憧憬の念を抱いていた。父は食客としてー。項燕は子飼いの将校として、同じく春申君に仕えていた。
病に臥せる、父は懐かしむように、項燕のことを幾度も語っていた。勇猛果敢で忠義に篤い、楚一の名将であると。斉から楚に奔り、初めて項燕を眼の前にした時は、心が感動で震えた。朱方にとって、項燕の存在は生きる伝説と化していた。
だが、今はどうか。不満と憤懣が、胸に抱いていた憧憬を押しつぶしている。
(将軍は、王翦を相手に臆しているのではないか)
(何故、この私が搦め手に回らなくてはならないのか。搦め手など、若い熊烈にやらせておけばいいものを)
(私の力量は、将軍に示した。熊烈より遥かに私の方が優れていたはずだ)
無数の黒い感情が、泡のように次々と胸に拡がる。
「将軍!」
麾下の一人が、覚束ない足取りで駆けてくるのが見えた。
「何の用だ?」
朱方は重い腰を上げ、空疎な眼で麾下を見た。
「西に放っていた斥候部隊が、北へ脱けようとする、数名の怪しい男達を捕縛しました」
「怪しい男達?」
地を這うように沈んでいた心が、僅かにもちあがる。
「その者達を此処へ」
一刻後。縄を打たれた三名の男達が、朱方の前に引っ立てられた。
「その具足は」
膝を折った男達が、纏う具足は、楚のものであった。
「間者か?」
朱方は窪んだ眼を眇めた。
「いや。違うな」
男達は楚人特有の浅黒い肌で彫りの深い顔をしており、短躯であった。
地方軍の兵士が、北へ脱走を図ったという可能性が高いが、三名の男達から、それ以上に胡乱なものを感じる。
「北へと向かうつもりだったのか。確かに斉に逃げ込めば、戦禍からは免れることはできよう」
男達は斜を向き、閉口している。
「何処の所属か知らんが、軍から脱走したものは厳しく罰せられる。軍に所属していたのなら、軍規を知らん訳ではあるまい。今は国の存亡を懸けた戦時にある。脱走の罪は更に重くなる。場合によっては首が飛ぶ」
朱方は冷たい眼差しを向けたまま、剣を静かに抜き放った。
男達が初めて怯懦の色を見せた。
「本来ならば、違反者は総帥であられる項燕将軍の元へ送還し、裁可を仰ぐことになっているが、今は将軍もなにかと立て込んでおられる。今、私がお前達の首を刎ねたとしても、私が将軍から咎めを受けることはあるまい」
「お、お許しを!俺達は項燕将軍の直々の命で、秦へ向かっていたのです」
真中の男が、愧汗を流し懸命に訴えた。
「項燕将軍の命だと?」
朱方は眉を顰めた。
「全てお話します。だから、命だけは」
三人が一斉に、啜り泣きを始めた。
顎で二人の麾下に指示を送り、男達の躰を検めさせる。
「これは」
麾下の声が漏れる。
麾下の懐には、封泥が成された木簡があった。
「貸せ」
朱方は麾下の手から、木簡を乱暴に奪い取る。
三人の男達は、尚も啜り泣いている。
「ちっ。耳障りだ」
弧を描いた、二筋の斬光が走る。
真ん中の男を残して、両脇の男達の躰がくの字に曲がる。鈍い音を立てて、地に突っ伏すような形で倒れた、二人の男達は首から鮮やかな血の華を咲かせていた。二歩先の距離に、胴から切り離された頭が転がっている。
一人残された男は絶叫する。
「黙らせろ」
麾下に命じると、男は剣の柄頭で鳩尾を打たれた。苦悶の声が漏れる。だが、泣き喚かれるよりはいい。
朱方は封泥を解き、木簡を拡げた。
「何だと」
総身に衝撃が走る。そして、奈落の底から、漆黒の瞋恚が這い上がってくる。
「おい!」
痛みに悶える男の髪を掴む。
「もう一度、訊く。お前達は、この書簡を項燕将軍の命で、秦へ届けるように命じられたのだな」
「は、はい。その通りです」
「直接、命じたのは項燕将軍か?」
男の髪を鷲掴む手に、力が入る。みしみしと髪が皮膚から剥がれていく。
男は涙を流したまま、低い声で呻いた。
「答えろ!」
「項燕将軍が認められた書簡を、秦に届けるように命じたのは、熊烈将軍です!」
「熊烈だと」
嚇怒で唇がわなわなと震える。
「お前はこの書簡の内容を知っているのか」
「見当もつきません!俺達は書簡を、秦に届けろとしかー。知っていることは全てお話しました。どうか命だー」
最後まで言わせなかった。刹那の速さで振るわれた刃は、男の頭蓋を叩き割った。
頭が潰れた男の死体が横たわる。
朱方は怒息を漏らし、陰火を灯らせた眼で、男の死体を睨みつける。暴れ狂う激情に任せ、既に息絶えた男を膾に切り刻んだ。
「将軍―」
あまりの凄惨さに、周りを囲っていた麾下達は、蒼白い顔で立ち尽している。
「裏切り者だ」
朱方は独りごちるように呟いた。
「将軍。今、なんと?」
聞き取ることのできなかった、麾下の一人が恐る恐る尋ねる。
「兵を叩き起こせ!今すぐ本陣へ引き返す!」
雷鳴の如き、声量で朱方は叫んだ。
麾下は誰も、何故とは訊かなかった。 曳かれた馬に飛び乗り、肚を蹴る。
末端の兵士達の支度は整っていなかったが、構わなかった。
凱風を受ける、朱方は形相は鬼と化していた。
(決して許さぬ。己の保身の為、祖国を売り、父の魂を救済する機会を奪った、あの男を。英雄面をした老い耄れの眉間を、我が剣で貫いてくれる)
朱方は憤怒の化身となり、今や見据える敵は王翦ではなく、項燕であった。
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