国殤(こくしょう)

松井暁彦

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五章 陥穽

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「損害は?」
 項燕は大幕舎に戻ると、先に控えていた熊烈に尋ねた。

「五千を失いました」
 言った熊啓の声は沈んでいる。

「惜しいな」
 項燕は嘆息交じりに漏らす。

「敵が築き上げた塁壁の高さはたいしたことのないものの、塁壁の上から放たれる矢の数は尋常ではありません。近づくことすら容易ではないのです」

「加えて兵の多さか。四方に隙はなく、床土弩が配置され装填の間隔を巧く、弓兵が補っている」
 
 五千を無駄に死させてしまったという想いが強い。何か策を弄するべきなのであろう。しかし、今は秦軍の矢が尽きるまで、愚直に攻め立て続けるという、とても策とは呼べない、業の深い答えしか導き出せない。秦軍が有する強大な軍事力が骨身に沁みる。

「地を抉り、地下から侵入するか」
 口に出してはみたものの、(それはない)と自身で却下した。
 
 熊烈も渋い顔をしている。

 此方の考えることなど、王翦は想定済みであろう。地を抉った所で、煙で燻し出される。

(駄目だ)

 知略では遥かに、己は王翦に劣るのだ。すでに王翦が得意とする、領域に引き摺り込まれている。この窮状を打破できるのは、智の力ではない。恐らく、己が生来から持ち合わせている、野性的な本能による閃きである。しかし、今はその閃きもあてにはならない。老いさらばえ、一度、戦場を離れてしまったことで、その力は消え失せてしまった。そして、取り戻すことも叶わない。放擲したものは、もう二度と戻ってはこないのだ。

「愚策と承知の上で申し上げます。敵が斉の掩護を匂わせている以上、勢いで押し切るしかないかと」
 兵を何万と死なせることになる。という言葉を、項燕は嚥下した。
 
 熊烈が苦虫を嚙み潰したよう表情を浮かべている。

「うむ。分かった。明日からはわしも前線に出る。策を弄した所で、王翦に潰される。力で押し切るしかあるまい」

「朱方殿には斉の動向を探る、別動隊の指揮も委ねています。斉の掩護がないと断定できれば、我々にも勝機はあるかと」

「そうじゃな。そうなれば、敵が立ち枯れるのを待つだけでいい」
 
 斉の掩護が、王翦の欺瞞などであれば、今、秦の兵站線を断たせる為に派遣している、朱方の働きが無駄ではなくなる。

「わしらは、今やれるべきことを成す。それしかあるまい」
 
 活路を見出す光輝はある。そう思い定めるが、胸の暗渠が拡がるばかりであった。
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