22 / 39
五章 陥穽
五
しおりを挟む
久方ぶりの戦場の響めきが、王翦の血を滾らせる。宿敵が去ったことで、もう二度と戦場に戻ることはないのだと思っていた。ただ悶々と過去の戦を回顧し、記憶の中に蘇る、宿敵を何万通りとある軍略で斃す。だが、心が晴れたことなど一度もない。己の無聊を慰めているに過ぎず、記憶の中の項燕を斃した後、胸に拡がるのは虚無である。あの虚しさは、恋が成就することのなかった女子を思い描いての自慰行為の後のような虚しさがあった。
しかし、今は隠居中の悶々とした日々が嘘のように、澄明な心持ちである。空は絶えず鉛色で、うんざりするほどに雨は降り続いてはいる。しかし、王翦の眼には、蒼穹の空が無限に続いているように映っている。
王翦は俄作りの高楼から、陣営を囲む累璧に、攻撃を仕掛けてくる楚軍を睥睨していた。
指呼の間に熊の旗が翻っている。前衛で指揮を執っているのは、昌平君の長子である、熊烈と推測される。その後ろには、十五万ほどが控えていて、中央には楚と項の旗が林立している。
城攻めは苛烈であるが、秦兵は塁璧を盾に巧く凌いでみせている。本来、攻城戦では攻め手は二倍以上の兵力が必要となる。しかし、楚軍には兵力もなく、攻城兵器の類も多くはない。時折、衝車などを持ち出して、塁壁を破ろうと試みてはいるが、塁壁に設置された床土弩と強弓を携えて万を越える弓兵が放つ、驟雨の如く降る矢に阻まれて、立ち往生している。
当時の矢の鏃は合金のもので、民間で大量生産することは難しい。だが、王翦は秦全土の鏃を搔き集め、五百万本を越える矢を既に用意させている為、矢を吝しむことなく、敵に浴びせ続けることができる。
「やはり、楚は速戦を選びましたか」
息子の王賁が隣に並ぶ。
「砦を築き、連中に長期戦の構えを見せつけたことで、疑念を植え付けることができた」
「斉の掩護ですか」
王翦は目笑した。
斉の掩護などない。だが、疑念は絶えず、項燕の胸中に一抹の不安となって蟠り続ける。たとえ、確証のない疑念であったとしても、楚は速戦を強いられる。仮に斉の掩護が欺瞞ではなく、現実のものであったとならば、楚は八十万を越える大軍勢に蹂躙される運命を辿る。
「項燕は朱方に二万を与え、兵站線の分断に派遣したようです。同じく淮水以北に斥候を放ち、斉の動向を探らせているようです」
くつくつという嗤い声を、王翦は漏らした。
全ては王翦の欺瞞であった。斉の掩護もなければ、数年間に亘る長期戦を敢行できるだけの兵糧もない。兵站線は複雑に張り巡らし、絶えず秦の支配下にある地域から届く手筈にはなっている。しかし、六十万もの兵の腹を充分に満たせるだけの備蓄は、せいぜいもって一年という所だろう。
報告を終えた王賁と入れ替わりで、李信が背後に控えた。
「間断なく攻め立てさせることで、敵に疲労を募らせるのですね。此方は砦に籠り、兵に鋭気を養わさせる」
「伕を以て労を待つ」と言葉少なく、王翦は返した。
「孫子の兵法ですか」
呉王闔閭に仕えた、兵法家孫子の言葉である。
味方には充分な休息を与えてうえで、敵の疲労をまち、敵の疲弊が極限に達した時、溜めに溜めた兵士達の戦意と活力を爆発させ勝利を得る。 単純明快な計略であるが、孤立した立場にある、項燕には効果覿面であると云っていい。
「それだけではないという気がする。もっと別の何かを待っておられるのでは?」
「鋭いな、李信。息子にはない、気の聡さがお前にはある」
褒詞を告げたつもりであるが、李信は表情をぴくりとも動かさない。
「機を待っている」
「機ですか?」
李信は神妙な顔で訊いた。
「その時は必ず来る。既に亀裂は生じている。そして、機を掴めば、兵の損失少なくして、敵の二十万を剿滅することができる」
突如、壁外の喧噪が熄んだ。楚軍が退いていく。気が付けば、陽が沈みかけている。
「雨がやんだか」
鉛色の空の一部が裂け、紅色の光線が地上に降り注いでいる。まるで、天上から振り下ろされた巨大な刃が、楚の大地に走る血脈を吸い上げているように見える。項燕にとっては不吉な景色であろう。だが、王翦には、神性を感じさせる、厳かな景色に見えた。
しかし、今は隠居中の悶々とした日々が嘘のように、澄明な心持ちである。空は絶えず鉛色で、うんざりするほどに雨は降り続いてはいる。しかし、王翦の眼には、蒼穹の空が無限に続いているように映っている。
王翦は俄作りの高楼から、陣営を囲む累璧に、攻撃を仕掛けてくる楚軍を睥睨していた。
指呼の間に熊の旗が翻っている。前衛で指揮を執っているのは、昌平君の長子である、熊烈と推測される。その後ろには、十五万ほどが控えていて、中央には楚と項の旗が林立している。
城攻めは苛烈であるが、秦兵は塁璧を盾に巧く凌いでみせている。本来、攻城戦では攻め手は二倍以上の兵力が必要となる。しかし、楚軍には兵力もなく、攻城兵器の類も多くはない。時折、衝車などを持ち出して、塁壁を破ろうと試みてはいるが、塁壁に設置された床土弩と強弓を携えて万を越える弓兵が放つ、驟雨の如く降る矢に阻まれて、立ち往生している。
当時の矢の鏃は合金のもので、民間で大量生産することは難しい。だが、王翦は秦全土の鏃を搔き集め、五百万本を越える矢を既に用意させている為、矢を吝しむことなく、敵に浴びせ続けることができる。
「やはり、楚は速戦を選びましたか」
息子の王賁が隣に並ぶ。
「砦を築き、連中に長期戦の構えを見せつけたことで、疑念を植え付けることができた」
「斉の掩護ですか」
王翦は目笑した。
斉の掩護などない。だが、疑念は絶えず、項燕の胸中に一抹の不安となって蟠り続ける。たとえ、確証のない疑念であったとしても、楚は速戦を強いられる。仮に斉の掩護が欺瞞ではなく、現実のものであったとならば、楚は八十万を越える大軍勢に蹂躙される運命を辿る。
「項燕は朱方に二万を与え、兵站線の分断に派遣したようです。同じく淮水以北に斥候を放ち、斉の動向を探らせているようです」
くつくつという嗤い声を、王翦は漏らした。
全ては王翦の欺瞞であった。斉の掩護もなければ、数年間に亘る長期戦を敢行できるだけの兵糧もない。兵站線は複雑に張り巡らし、絶えず秦の支配下にある地域から届く手筈にはなっている。しかし、六十万もの兵の腹を充分に満たせるだけの備蓄は、せいぜいもって一年という所だろう。
報告を終えた王賁と入れ替わりで、李信が背後に控えた。
「間断なく攻め立てさせることで、敵に疲労を募らせるのですね。此方は砦に籠り、兵に鋭気を養わさせる」
「伕を以て労を待つ」と言葉少なく、王翦は返した。
「孫子の兵法ですか」
呉王闔閭に仕えた、兵法家孫子の言葉である。
味方には充分な休息を与えてうえで、敵の疲労をまち、敵の疲弊が極限に達した時、溜めに溜めた兵士達の戦意と活力を爆発させ勝利を得る。 単純明快な計略であるが、孤立した立場にある、項燕には効果覿面であると云っていい。
「それだけではないという気がする。もっと別の何かを待っておられるのでは?」
「鋭いな、李信。息子にはない、気の聡さがお前にはある」
褒詞を告げたつもりであるが、李信は表情をぴくりとも動かさない。
「機を待っている」
「機ですか?」
李信は神妙な顔で訊いた。
「その時は必ず来る。既に亀裂は生じている。そして、機を掴めば、兵の損失少なくして、敵の二十万を剿滅することができる」
突如、壁外の喧噪が熄んだ。楚軍が退いていく。気が付けば、陽が沈みかけている。
「雨がやんだか」
鉛色の空の一部が裂け、紅色の光線が地上に降り注いでいる。まるで、天上から振り下ろされた巨大な刃が、楚の大地に走る血脈を吸い上げているように見える。項燕にとっては不吉な景色であろう。だが、王翦には、神性を感じさせる、厳かな景色に見えた。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
不屈の葵
ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む!
これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。
幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。
本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。
家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。
今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。
家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。
笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。
戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。
愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目!
歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』
ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!
令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました
フルーツパフェ
大衆娯楽
とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。
曰く、全校生徒はパンツを履くこと。
生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?
史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
校長先生の話が長い、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
学校によっては、毎週聞かされることになる校長先生の挨拶。
学校で一番多忙なはずのトップの話はなぜこんなにも長いのか。
とあるテレビ番組で関連書籍が取り上げられたが、実はそれが理由ではなかった。
寒々とした体育館で長時間体育座りをさせられるのはなぜ?
なぜ女子だけが前列に集められるのか?
そこには生徒が知りえることのない深い闇があった。
新年を迎え各地で始業式が始まるこの季節。
あなたの学校でも、実際に起きていることかもしれない。
13歳女子は男友達のためヌードモデルになる
矢木羽研
青春
写真が趣味の男の子への「プレゼント」として、自らを被写体にする女の子の決意。「脱ぐ」までの過程の描写に力を入れました。裸体描写を含むのでR15にしましたが、性的な接触はありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる