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五章 陥穽
四
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轅門を抜け、項燕は手で庇を作り、二里先にある秦の陣営を見遣る。秦軍から迸るような気炎を感じない。秦軍の大分は歩兵になるが、本陣を守るように堵列する三十万余りの歩兵は、横に長く展開しているだけで、仕掛けてくる様子はない。
「匂うのう」
項燕は向こう傷が走る、鼻梁を歪めた。
大楯を前に突き出しながら横陣を布く、歩兵達は彫像のように動かないでいる。本陣の向こう側からは、響めきのようなものが絶えず風に運ばれて聞こえてくる。兵士達が単純に戦備を整える為に起こる、喧噪とはまた違う騒がしさがある。両軍の狭間に胡乱な気配が漂ってくる。
「ぶつかりますか?」
敵方に鈹の茎を向けた、熊烈は臨戦態勢に入っている。
「いや。少し様子を見ることにする。何か嫌なものを感じるのでな」
熊烈は鈹を下げる。常に平静を保っている、熊烈の猛りがひしひしと伝わる。それでも、即座に猛りを抑えたのは、彼もまた王翦陣営が放つ嫌なものを感じ取ったからであろう。
二人は馬首を巡らし、悪寒を覚えながら、陣営へと戻って行った。
翌日。項燕は我が眼を疑った。それは熊烈も同様で、鋭い眼を真円の形に見開いている。
「これは」
一夜にして、彼我の光景は変わってしまっていた。
整然と横陣を布いていた、三十万の歩兵の姿はない。その代わりに包囲三里に及ぶ、秦陣営をすっぽりと囲んでしまうほどの塁璧が出来上がっているではないか。高さは馬の体躯ほどであり、積み上げられた塁壁も、泥をこね乾かしたものに過ぎないが、砦の様相はしっかりと成している。
「くそ」
項燕は臍を噛んだ。
(野戦を封じられたか)
項燕は攻城戦を不得意とし、野戦で卓越した力を発揮できる男である。その気質を、王翦は項燕以上に理解している。
「やはり、意地の悪い男じゃな。王翦という男は」
「腰を据えた戦をするつもりなのでしょうか?」
熊烈は白昼夢を見ているように、何度も瞬いている。
「たとえ、秦の糧道が太く確かなものであっても、王翦は六十万もの兵を抱えている。数か月も六十万の兵の腹を満たし続けることができるとは、到底思わんが」
確かに野戦を得意とする、項燕の動きは封じることができる。だが、此方を攻城戦に引きづり込めたとして、長期間の戦となれば、秦の方が明らかに不利である。
秦から続く兵站線は長いもので千里を超えている。一方で淮水から南は、秦の支配が及んでおらず、備蓄も充分にある。此方も腰を据えた戦に、本気で臨めば、優に十年は対峙することが可能だ。
長大な塁壁を一日にして完成させたが、以前より準備は着々と進めていたのだろう。泥を乾かし、成型するのは、一日ではとても無理な話だ。
当初より準備を進め、勝利を確信したからこそ、重地に布陣して尚、腰を据えた戦いを選んだのではないか。
重地とは孫子の兵法に言う所の、敵国深くに侵入した土地のことを言う。重地では、兵士の心理的負担が大きくなり、兵法の常では、重地において長期間の戦は得策ではない。
だがー。それは王翦も承知の上なはず。王翦は己以上に、兵法を極めている。秦を大国に押し上げた、最強の軍人白起が、その才を認め、軍略を授けた唯一の男である。
(何を考えている、王翦。まさか、わしとの野戦を避ける為だけに、砦を築いた訳ではあるまい)
「将軍」
熊烈に声を掛けられ、堂々と巡る思惟が途切れる。
「敵が立ち枯れるのを待つというのも手だとは思いますが」
項燕は頭を振った。
「斉の動きが気になる」
「斉ですか」
熊烈が峻厳な眼で北を睨んだ。
「確かに。今や斉と秦は裏で密接に繋がっている。王翦が斉の掩護を待っているのだとしたら」
「敵が立ち枯れるのを待つなど、悠長なことは言っておられんな」
熊烈と言葉を交わしている内に、規則性をもたず散らばっていた、点と点が星座のように繋がっていく。
「斉の掩護はこけおどしかもしれん。しかし、わしらは否が応でも、あの砦を攻め立てなくてはならん。奴が暗に斉の掩護をちらつかせている以上、わしらはそれを無視することはできん。仮に斉が軍を寄越したのなら、六十万の兵は更に膨れ上がる」
尾羽打ち枯らした斉であるが、秦の掩護に十万から二十万の兵力を寄越せるだけの国力は残している。
「熊烈。朱方に二万を預け、秦の兵站線を断たせよ」
朱方は左右司馬の一人であり、右翼の指揮を任せている。しかし、王翦が綽々と長期戦の構えを見せているのなら、兵站線を断つことは急務であった。
当初は数の利に任せての速戦を予想されていたので、兵站線に関してはおざなりになっていた。此方の備蓄は膨大で、時を急ぐのは敵方の方である。同時に秦の兵站線に回せるだけの人手もなかった。だが、情況は変わった。備蓄は膨大であっても、時がないのは此方の方である。たった一手で、王翦は此方を翻弄してみせた。
「朱方殿は承諾するでしょうか?」
恐らく朱方は搦め手に回されることに憤慨するだろう。しかし、蜘蛛の巣のように複雑に張り巡らされた、秦の兵站線を断てるだけの判断力と実行力を持った、将校は今の楚にはいない。
朱方は父の遺言に憑りつかれているが、それを抜きにすれば、眼を瞠るだけの器量を有した男なのだ。左右司馬の一人を搦め手に回さなければならないほどに、人材は逼迫している。
「有無は言わせぬ」
喚き立てる、朱方の姿が眼裏に浮かぶ。
しかし、熊烈は前線を外せない。彼は秦の将校としての経験値があり、誰よりも秦の軍容に通暁している。
「それにー」
熊烈は気鬱を深めた。
咄嗟に口を噤む。
「いや。気にせんでくれ」
項燕は今の朱方を前線に置いておくのは危険だ、という言葉を吞み込んだ。感情のまま、暴走しかねない。
「御意に」
熊烈が駆け去って行く。
項燕は黒き戎衣を鳴らし、破鐘のような声で叫んだ。
「野郎共、戦支度だ‼」
鼓鐸が陣中に鳴り響く。
項燕は従者が曳いてくる、馬へと颯と飛び乗った。騰がる愛馬の腿を手で叩き宥める。項の旗がほうぼうで掲げられる。
「のってやるぞ、王翦。だが、全てが思う通りに進むと思うな」
項燕は佩剣を抜き放ち、彼我の王翦に剣尖を向けた。
「匂うのう」
項燕は向こう傷が走る、鼻梁を歪めた。
大楯を前に突き出しながら横陣を布く、歩兵達は彫像のように動かないでいる。本陣の向こう側からは、響めきのようなものが絶えず風に運ばれて聞こえてくる。兵士達が単純に戦備を整える為に起こる、喧噪とはまた違う騒がしさがある。両軍の狭間に胡乱な気配が漂ってくる。
「ぶつかりますか?」
敵方に鈹の茎を向けた、熊烈は臨戦態勢に入っている。
「いや。少し様子を見ることにする。何か嫌なものを感じるのでな」
熊烈は鈹を下げる。常に平静を保っている、熊烈の猛りがひしひしと伝わる。それでも、即座に猛りを抑えたのは、彼もまた王翦陣営が放つ嫌なものを感じ取ったからであろう。
二人は馬首を巡らし、悪寒を覚えながら、陣営へと戻って行った。
翌日。項燕は我が眼を疑った。それは熊烈も同様で、鋭い眼を真円の形に見開いている。
「これは」
一夜にして、彼我の光景は変わってしまっていた。
整然と横陣を布いていた、三十万の歩兵の姿はない。その代わりに包囲三里に及ぶ、秦陣営をすっぽりと囲んでしまうほどの塁璧が出来上がっているではないか。高さは馬の体躯ほどであり、積み上げられた塁壁も、泥をこね乾かしたものに過ぎないが、砦の様相はしっかりと成している。
「くそ」
項燕は臍を噛んだ。
(野戦を封じられたか)
項燕は攻城戦を不得意とし、野戦で卓越した力を発揮できる男である。その気質を、王翦は項燕以上に理解している。
「やはり、意地の悪い男じゃな。王翦という男は」
「腰を据えた戦をするつもりなのでしょうか?」
熊烈は白昼夢を見ているように、何度も瞬いている。
「たとえ、秦の糧道が太く確かなものであっても、王翦は六十万もの兵を抱えている。数か月も六十万の兵の腹を満たし続けることができるとは、到底思わんが」
確かに野戦を得意とする、項燕の動きは封じることができる。だが、此方を攻城戦に引きづり込めたとして、長期間の戦となれば、秦の方が明らかに不利である。
秦から続く兵站線は長いもので千里を超えている。一方で淮水から南は、秦の支配が及んでおらず、備蓄も充分にある。此方も腰を据えた戦に、本気で臨めば、優に十年は対峙することが可能だ。
長大な塁壁を一日にして完成させたが、以前より準備は着々と進めていたのだろう。泥を乾かし、成型するのは、一日ではとても無理な話だ。
当初より準備を進め、勝利を確信したからこそ、重地に布陣して尚、腰を据えた戦いを選んだのではないか。
重地とは孫子の兵法に言う所の、敵国深くに侵入した土地のことを言う。重地では、兵士の心理的負担が大きくなり、兵法の常では、重地において長期間の戦は得策ではない。
だがー。それは王翦も承知の上なはず。王翦は己以上に、兵法を極めている。秦を大国に押し上げた、最強の軍人白起が、その才を認め、軍略を授けた唯一の男である。
(何を考えている、王翦。まさか、わしとの野戦を避ける為だけに、砦を築いた訳ではあるまい)
「将軍」
熊烈に声を掛けられ、堂々と巡る思惟が途切れる。
「敵が立ち枯れるのを待つというのも手だとは思いますが」
項燕は頭を振った。
「斉の動きが気になる」
「斉ですか」
熊烈が峻厳な眼で北を睨んだ。
「確かに。今や斉と秦は裏で密接に繋がっている。王翦が斉の掩護を待っているのだとしたら」
「敵が立ち枯れるのを待つなど、悠長なことは言っておられんな」
熊烈と言葉を交わしている内に、規則性をもたず散らばっていた、点と点が星座のように繋がっていく。
「斉の掩護はこけおどしかもしれん。しかし、わしらは否が応でも、あの砦を攻め立てなくてはならん。奴が暗に斉の掩護をちらつかせている以上、わしらはそれを無視することはできん。仮に斉が軍を寄越したのなら、六十万の兵は更に膨れ上がる」
尾羽打ち枯らした斉であるが、秦の掩護に十万から二十万の兵力を寄越せるだけの国力は残している。
「熊烈。朱方に二万を預け、秦の兵站線を断たせよ」
朱方は左右司馬の一人であり、右翼の指揮を任せている。しかし、王翦が綽々と長期戦の構えを見せているのなら、兵站線を断つことは急務であった。
当初は数の利に任せての速戦を予想されていたので、兵站線に関してはおざなりになっていた。此方の備蓄は膨大で、時を急ぐのは敵方の方である。同時に秦の兵站線に回せるだけの人手もなかった。だが、情況は変わった。備蓄は膨大であっても、時がないのは此方の方である。たった一手で、王翦は此方を翻弄してみせた。
「朱方殿は承諾するでしょうか?」
恐らく朱方は搦め手に回されることに憤慨するだろう。しかし、蜘蛛の巣のように複雑に張り巡らされた、秦の兵站線を断てるだけの判断力と実行力を持った、将校は今の楚にはいない。
朱方は父の遺言に憑りつかれているが、それを抜きにすれば、眼を瞠るだけの器量を有した男なのだ。左右司馬の一人を搦め手に回さなければならないほどに、人材は逼迫している。
「有無は言わせぬ」
喚き立てる、朱方の姿が眼裏に浮かぶ。
しかし、熊烈は前線を外せない。彼は秦の将校としての経験値があり、誰よりも秦の軍容に通暁している。
「それにー」
熊烈は気鬱を深めた。
咄嗟に口を噤む。
「いや。気にせんでくれ」
項燕は今の朱方を前線に置いておくのは危険だ、という言葉を吞み込んだ。感情のまま、暴走しかねない。
「御意に」
熊烈が駆け去って行く。
項燕は黒き戎衣を鳴らし、破鐘のような声で叫んだ。
「野郎共、戦支度だ‼」
鼓鐸が陣中に鳴り響く。
項燕は従者が曳いてくる、馬へと颯と飛び乗った。騰がる愛馬の腿を手で叩き宥める。項の旗がほうぼうで掲げられる。
「のってやるぞ、王翦。だが、全てが思う通りに進むと思うな」
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