国殤(こくしょう)

松井暁彦

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五章 陥穽

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 ちんを越えた王翦おうせん率いる六十万の大軍勢は、楚の都である寿春じゅしゅんに向け移動を開始した。

 東へ距離を稼ぐことに二百里の地で行軍を停止し、野営の準備を進めさせた。夜の帳が降りる頃には、ほうぼうに放っている斥候の一部が帰還した。

「南東約百里の地に敵影を捉えました」
 斥候の長が麾下から次々に上がってくる報告を整理し、総大将の王翦に告げる。

「数は?」
 王翦は大幕舎の中で、息子の王賁と共に、斥候の長の報告を聞いていた。

「約二十万です」

「二十万とは」
 王賁おうほんは楚の凋落を嘲笑っている。

「埋伏の可能性は?」
 対して、問うた王翦の表情は引き締まっている。

「父上。この先一帯は、永延と平野が続きます。埋伏の可能性など低いのでは?」

「お前は黙っておれ」
 喝破すると、王賁は唇を尖らせて口を噤んだ。

「徹頭徹尾、埋伏が可能と推測される地形を探らせてはいますが、現状、敵兵が潜んでいる可能性は低いかと」

「そうか。だが、警戒は怠るな。項燕こうえんは本能で戦をする男ではあるが、春申君しゅんしんくんの元で兵法を学んでいる。短気ではあるが、莫迦ではない」

「はっ。明朝、再び斥候を四方に放ちます」
 行け。と手で命じると斥候の長は、大幕舎を後にした。

「賁よ。恐らく楚が動員できる数は二十万が限界であろう。しかし、侮るな。勝利の要因として数の利は大きい。だが、稀に兵法の定石というものを、個の力で覆す男がいるのだ。わしもお前も天賦の才がある訳ではない。だからこそ、気を弛めず、常に戦場の生の声に耳を傾けよ。戦はとうに始まっておるのだ」

「御意」
 王賁の返事には覇気がない。

息子にはまだ父に諫められてむくれるだけの青さがある。親馬鹿なのかもしれないが、そういう息子の青さも可愛く思える。

「さぁもうお前も休んで来るといい。明日は黎明と共に進軍する」

「はい」
 背を丸めた、王賁は静かに父の前から退出した。

「さて、李信りしん
 影のように控えていた、李信に眼を向けた。

 彼は将校ではなく、従者としての役割に徹している。才を衒い、王翦を老い耄れと侮っていた、以前の小生意気な小僧の姿はない。

「項燕は二十万をどのように動かしてくるかな」

「項燕は野戦を好むでしょう。要塞を築いての籠城戦を選ぶとは思えません。籠城は救援の見込みある時に有効な策です。楚が動員した二十万は徴兵可能な全兵力であり、これ以上の増員は見込めない。加えて山東の斉は、秦と水面下で通じ、救援を請うことは叶わない。孤軍奮闘を強いられる、項燕には野戦を選ぶ他に道はありません」

「うむ。明察だな」
 王翦は満足気に唸った。李信は項燕に敗れた事によって、余分な血気が削げ落ちた。

 生来、地頭の悪い男ではないのだと、共に行軍する中で悟った。直ぐに熱くなる、直情さが、彼の頭の働きを鈍くさせていただけなのだ。

「楚の令尹れいいんの座におさまった昌平君しょうへいくんが、纏まりに欠いていた宮中を掌握してみせた。昌平君は全力で項燕を支援するだろう。宮中からのくびきが消えた今、項燕は縦横無尽に野天を駆け回ることができる」
 
 彫像のように直立を保つ、李信の具足が擦れている。

「怖いのか?」

「正直、怖いですよ。俺は老いた竜に利き腕も心も砕かれたのですから。老いた竜が昌平君の扶翼を得て、壮年期の力を取り戻すのだと思うとぞっとしますね。今なら将軍が、項燕に執着される理由も分かる気がします」
 李信が苦笑を浮かべた。

 行軍中、李信は一切表情を変えることはなかった。従者として従軍の許可を得て以来、見せた表情の変化であった。
 
 王翦はおもむろに手を打ち、麾下を呼びつけると、酒を運ばせるように命じた。
 麾下が酒を運んでくると、甕に満たされた酒を柄杓で掬い、二つの椀に注ぎ、片方を李信に差し出した。


「良いのですか?」

「お前と虚心坦懐きょしんたんかいに話し合える日が来るとは。わしは以前のお前より今のお前の方が好きだな」
 
 李信は軽く頭を下げた、椀を受け取ると、一気に酒を喉に流し込んだ。

「驕っていたことは認めますよ。でも、失った誇りは取り戻したい」
 ずっと昏いままであった、李信の眼に雷霆が走る。

「項燕を討てば取り戻せるか」

「はい」
 柄杓を取り、もう一度、空になった李信の椀に酒を注いだ。

「ならば、お前が項燕を討て」

「えっ?」
 意外な言葉に、李信は眼を丸くした。

「わしが望んでいるものは、奴との一騎討ちでの勝利ではない。軍略による勝利だ。それに、個の力では、わしは奴の足元にも及ばん」

「しかし、俺は王翦将軍にすら容易く捻られたのですよ」

「あんなもの所詮は、小細工の一種に過ぎん。もし、項燕と肉薄するような場面になれば、わしの技など通用せん。奴は戦理を越えた力を、死の淵で絞り出してくる」

「俺が項燕をー」

 椀を持つ左手は、震えていた。怯懦なのかー。それとも昂奮によるものなのか。それは李信だけにしか分からない。

「お前はわしの隠し剣よ。その時が来るまで、ひたすらに息を潜めておれ」
 李信は雄健に頷くと、口から溢れるほどの勢いで酒を飲み干した。

「御意」
 固く拱手する、彼の眼差しは紅蓮に燃え上がっていた。
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