瓦礫の国の王~破燕~

松井暁彦

文字の大きさ
上 下
14 / 47
災禍の音

しおりを挟む
 土埃を被った胡服姿のまま、姫平は弟の房を訪ねた。近習の者がせめて装いを正すように窘めてくるが、お構いなしに房に入る。

「戻ったぞ」

「兄上!」
 病臥にある姫職は、黄塵こうじんに塗れた兄の顔を認めると、花が咲いたように笑った。立ち上がり出迎えようとした、姫職を手で制する。

「兄上、無事で良かった」
 姫職は蒼白い手を重ね、拱手する。杏仁型の眼からは、今にも涙が溢れ出しそうだ。

「そう簡単に俺がくたばると思うか」
 と屈託のない笑顔で尋ねる。

「兄上ならば、たとえ竜が相手でも、首を奪って帰ってくるでしょう」
 呵々と笑う兄につられて、鈴を転がしたような音の笑い声を姫職はあげる。

「私は兄上が心底羨ましい。誰よりも不羈であり、強靭で、人の目など気にしない心の強さがある」
 姫職は咳き込み、長い睫毛を伏せた。

「国が危急の時であると云うのに、私は病に臥せ、人の手を煩わせている。私にも頑健な躰があれば、兄上と共に戦場へ赴くことができたのでしょうが」
 握りしめた拳が徐々に赤くなっていく。
 
 姫平は傍で控えている、秦殃を見た。彼には弟の傍に控えているように命じてあった。秦殃は苦々しい面持ちで此方を見る。姫職は床に臥せている間、相当に思い詰めていたようだ。

「人にはそれぞれ役割というものがある。俺は、生まれつき躰だけは頑丈だから、剣を執り戦える。だが、俺にはお前ほどの利口さはない。俺が知る限り、お前は誰よりも聡明な男だよ」
 姫職が苦笑を浮かべる。

「幾ら勉学が出来ようとも、臣下達は誰も私の意見などに耳を傾けません。歳も若く、この病弱な躰です。皆が私を侮っているのです。だから、私は己が出来ることを成します」
 伏せていた面を上げた、姫職の顔は、何処か吹っ切れたような明るさがあった。

「どういう意味だ?」

「私が質子ちしとなり、斉へ行きます」
 言葉に窮する。見遣った秦殃は、頭を振っている。
 
 蘇代と蘇厲は、斉の侵攻を止める手立てとして、質子と土地の割譲を条件に、講和に踏み切ろうとしている。庶子、公子は幾らでもいる。中には安逸を貪るだけのろくでなしもいる。ならば、そのような連中をせめて質子として活用すべきである。確かに世継ぎである姫職が質子として、交渉の材料の一つとなれば、講和は有利に進めることができる。

「駄目だ」
 姫平は断ち斬るように言った。

「何故です」

「順序で言えば、正室の子である、お前が次の太子だ。妾の子である、俺達とは立場の重みが違う」

「お忘れですか。御爺様は私ではなく、兄上に護国の剣を託されました。それだけではない。遺言で父上に時宜を見極め、兄上を太子に冊立するように言い残されている」
 姫職の真っ直ぐな眼には、嫉みのようなものはない。ただ一心に、この国の未来を按じ、己が成せる務めを果たそうとしている。

「だが」
 逡巡する兄の手に、冷えた弟の手が重ねられる。

「兄上、覚悟を決めて下さい。貴方は古より燕国を護り続けてきた護国の剣―。そして、祖霊に選ばれたのです。私はこの躰ゆえ、傍観者に徹してきました。だから、よく視えるのです。この国の腐敗がー。嘆かわしいことですが、父上に腐敗を止めることはできない。むしろ、父上の代で腐敗は、更に瀰漫びまんすることでしょう。ですが、兄上。貴方なら毒に侵された、この国を浄化することができる」
 姫職の言葉の節々に力が籠る。

「私は兄上を心から尊敬しているのです。他の庶子、公子と違い、権勢を誇ることはない。自らの名を貶めてまで、貧しき者達に寄り添い、常に味方であろうとする。私には断言できます。兄上が王となれば、この国はー。いや、千々に乱れた天下はただされると」

(天下だと)
 この俺が、莫迦な。負郭の子供達が、餓えで死んでいく様が脳裏を過る。ごつごつとした掌を見遣る。これまでどれほど、この掌から命が零れ落ちてきたことか。

「よしてくれ。俺はー」

「兄上。私の大好きなこの国を、貴方が護って下さい」
 姫職が莞爾かんじとして笑った。
 
 もう彼の覚悟は決まっている。この躰では、斉に行くまでの道中も苦しいものになる。更に、向こうでは自由を制約された暮らしが待っている。悪ければ虜囚りょしゅうに近い扱いを受けるだろう。恐らく長くは耐えられない。姫職は己の命を犠牲にして、講和を実現させようとしている。この無力な兄に未来を託す為にー。

 何方が王になろうと、兄弟二人で、この国を支えることが出来たなら、二人で一つの真面まほの王となれただろう。まるで翼が捥がれたかのように苦しい。だが、弟の不退転の覚悟は充分に伝わった。

「約束する。俺がこの国をー。民を護り抜くと」
 姫職の眼が彩へと変わり、涙が頬を伝う。
 
 きっと今生の別れになる。だが、志は一つ。胸の志が宿り続ける限り、最愛の弟はいつも傍にいる。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】勝るともなお及ばず ――有馬法印則頼伝

糸冬
歴史・時代
有馬法印則頼。 播磨国別所氏に従属する身でありながら、羽柴秀吉の播磨侵攻を機にいちはやく別所を見限って秀吉の元に走り、入魂の仲となる。 しかしながら、秀吉の死後はためらうことなく徳川家康に取り入り、関ヶ原では東軍につき、摂津国三田二万石を得る。 人に誇れる武功なし。武器は茶の湯と機知、そして度胸。 だが、いかに立身出世を果たそうと、則頼の脳裏には常に、真逆の生き様を示して散った一人の「宿敵」の存在があったことを知る者は少ない。 時に幇間(太鼓持ち)と陰口を叩かれながら、身を寄せる相手を見誤らず巧みに戦国乱世を泳ぎ切り、遂には筑後国久留米藩二十一万石の礎を築いた男の一代記。

腐れ外道の城

詠野ごりら
歴史・時代
戦国時代初期、険しい山脈に囲まれた国。樋野(ひの)でも狭い土地をめぐって争いがはじまっていた。 黒田三郎兵衛は反乱者、井藤十兵衛の鎮圧に向かっていた。

白狼 白起伝

松井暁彦
歴史・時代
時は戦国時代。 秦・魏・韓・趙・斉・楚・燕の七国が幾星霜の戦乱を乗り越え、大国と化し、互いに喰らう混沌の世。 一条の光も地上に降り注がない戦乱の世に、一人の勇者が生まれ落ちる。 彼の名は白起《はくき》。後に趙との大戦ー。長平の戦いで二十四万もの人間を生き埋めにし、中国史上、非道の限りを尽くした称される男である。 しかし、天下の極悪人、白起には知られざる一面が隠されている。彼は秦の将として、誰よりも泰平の世を渇望した。史実では語られなかった、魔将白起の物語が紡がれる。   イラスト提供 mist様      

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

不屈の葵

ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む! これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。 幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。 本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。 家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。 今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。 家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。 笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。 戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。 愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目! 歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』 ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

朱元璋

片山洋一
歴史・時代
明を建国した太祖洪武帝・朱元璋と、その妻・馬皇后の物語。 紅巾の乱から始まる動乱の中、朱元璋と馬皇后・鈴陶の波乱に満ちた物語。全二十話。

処理中です...