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櫂朔④
しおりを挟む「俺、引退する」
その言葉に、時が止まったと思った。
息をするのも、忘れているかのように、身体中が痺れる感覚に襲われた。
「なん……で?」
恐らく無意識に絞り出した声は、震えていて、それが自分の声だと気付いたのは、櫂と目が合った時だった。
「朔……ごめんな……」
「ごめんなじゃなくてさ。なんでだよ……」
「櫂朔、これからって時に……」
凌空も朔良の隣で、小さく呟いた。
「やりたいことが……あって。ずっと考えてて、それが実現しそうなんだ」
「それは……今しかないの? 両立はできないの?」
「頑張りたいんだよ……」
「応援したいけどさ……でも、辞めなきゃダメなのかよ。できる時だけでいいよ、今さ、みんな待ってんじゃん、櫂朔って、楽しみにしてんだよ」
「……ごめん」
何も言わずに俯く櫂に、なにも、言えなかった。
その後の話した内容は、ほとんど記憶に残っていない。
遠くで、弦の怒りが櫂に向けられて、SUUが止めに入り、櫂はただ、多くを語らず謝り続けた。
朔良の脳内にはただ、「なんで?」という思いだけが、ぐるぐると巡っていた。
なんで引退なんだよ
なんで辞めなきゃいけないんだよ
なんで今なんだよ
なんでなんでなんで
なんで、ひとことも話してくれなかったんだよ
・
櫂の引退は、翌週のライブで伝えられた。
そのライブには、出られるモデル全員が、参加した。
もちろん朔良も参加して、そこに考えたのは、櫂朔を楽しみに待っていてくれたファンの存在だけだった。
櫂に対する気持ちは、怒り、寂しさ、疑念など入り混じり、それ以上に1番大きかったのは、櫂の迷いや決断になにも気づかず、そしてそんな時に頼りにもされなかった自分への、不甲斐なさだった。
今、自分にできること。
今、自分がすべきこと。
それに集中することで精一杯で、そうすることでしか、自分を保っていられなかった。
「櫂がやりたいことなら応援する。突然のことで、応援してくれた皆さんには申し訳ない」
そんなようなことしか、言葉にならなかった。
凌空や弦が、後半盛り上げてくれて、それに乗っかるように笑って、SUUが、「櫂を応援してやってほしい」と、ただ、それをファンにお願いした。
・
「朔、一緒に……帰らへん?」
「うん……」
ライブの後、櫂が言った。
周囲が、自分たちのやりとりに聞き耳を立てているのは、あからさまにわかった。
櫂は、事務所に置いていた荷物をまとめ、挨拶を終え事務所を後にした。
これが、最後になる。
もう、ここには来ない。
朔良は櫂が出て行った後に「じゃ、お疲れっす」と、いつものようにパタンと、扉を閉めた。
・
「朔良、大丈夫か?」
朔良が出て行った事務所では、凌空がボソッと呟いた。
「大丈夫じゃないやろな……」
その小さな声に、さらなる小さな声で、KANが返す。
たまたま同じ時期に見つけた逸材だった。
「ふたり同時デビューってどうかな?」とSUUが行った時KANは当初、反対した。ファンが付きにくいと思った。
それでもふたりは、良いコンビとなった。
同じ時期に、同じように悩んで。
励まし合って、支え合って、そして、櫂朔として認められて、これから、もっともっと愛されるふたりになっていけると、思っていた。
「なんでこんなことんなったんやろか……」
「知らん……櫂はなんでなんも言わないんだよ」
「SUUはなんか知っとるみたいやけど……」
「別に櫂が悪いわけじゃねぇよな。仕方ねぇことだよ。斗真だってそうだった」
「でもさ……なんでこんなにモヤモヤするんだよ」
斗真の時も、なんでだよって、思った。
こんなにも、人気と実力があって、なんで辞めるんだよと、誰もが思った。
それでも、今の櫂への感情はなんなのか。
きっと、今まさにこれからだと、誰もが思っていたから。これからどんなふたりを見せてくれるのか。ふたりが、どんな関係を築いていくのか、誰もが、それを見たいと思い、見られると思い、期待していた。
それはファンだけではなく、モデル、スタッフ、そして朔良本人ですらも思っていたに違いない。
だからこそ、なぜという思いだけが、大きな黒い塊となって心にズシンと重りのようにのしかかっているのだ。
「朔ちゃん……大丈夫やろか……」
小さく息を吐いたKANは、窓の外を眺めた。
真っ暗な路地裏。
遠くに小さく見える色鮮やかな光が、くすんで見えた。
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