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涙の夜
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遥香は嫌な音を立てる心臓の上をおさえて、ニヤニヤと笑みを浮かべている元彼を見上げた。
三木裕也という名前の元彼は、遥香が藤倉商事に入社前に三年務めた広告代理店で同期だった男だ。
スラリとした長身に、少しだけ垂れ目のはっきりとした二重の双眸。甘い顔立ちの彼の顔に、入社してすぐに一目ぼれしてしまったことを思い出す。
つき合う前――ただの同期だったころの裕也はとても親切で優しかった。そんな彼のことを、遥香はずっと好きで、「つき合おうか」と言われたときはとても嬉しかったのを覚えている。だが――
――お前なんかが、俺の本命になれると思ってたの?
裕也に浴びせられた嘲笑が、今でも耳に残っている。
裕也には遥香のほかに『本命』のとても美人な彼女がいた。小さな顔の、モデルのように整った女性だ。それは勤めていた広告代理店の取引先の会社の受付嬢をしていた人で、遥香も何度か仕事で会ったことがあるから知っていた。
浮気されたのだと思って、泣きながら責めたら、そう言われた。
――そもそもお前の方が遊びなの。そんなこともわかんない? というかお前、怒れたんだね。何を言っても逆らわないから、本当にお人形なんじゃないかって思ってたよ。
裕也の彼女だと思っていたのに、ただの暇つぶしの遊び相手だったのだとはっきり言われて、遥香は何も言い返せなかった。
ただ悲しくて悔しくて、泣いていたら、裕也に言われた。
――お前は余計なことを考えずにおとなしくしていればいいの。そうすれば今までどおり、ちゃんと可愛がってあげるからさ。
そう言われたとき、遥香の中で何かが壊れて――、会社に辞表を出し、裕也から逃げるように退職した。
(なんで……、忘れてたのに)
どうして、裕也がここにいるのだろう。
過去を思い出して軋む心臓を、できることなら握りしめてしまいたい。
遥香は裕也から視線をそらしたが、足が鉛のように重くて、動くことができなかった。
「お前どうしてここにいるの? 俺はさ、彼女と旅行中なんだけど。あ、なに、一人旅ってやつ? お前でもそんな行動力あるんだねぇ。つか、元気にしてた?」
どうして裕也は、何事もなかったように話しかけることができるのだろうか。
立ち尽くしていると、何も言わない遥香に苛立ったのか、裕也が距離を詰めてくる。
「ねえ、何で黙っていなくなったの? これでも一応心配したんだよ? お前、この半年の間なにしてたの?」
「……ちゃんと就職活動して、仕事しているわ」
「そういうことを訊いてるんじゃないから」
裕也は遥香の肩にぽんと手をおいた。
「俺がいなくて淋しかっただろう? お前、俺に惚れてたもんな。俺はお前のことなんて今まで忘れてたけど、ここで会ったのも何かの縁かもしれないし。またつき合ってやってもいいよ」
遥香は大きく目を見開いた。
(何を言ってるの、この人……)
あきれすぎて、ものも言えずに黙っていると、裕也がにっこりと微笑む。
「なんだ、嬉しすぎて声も出ない?」
この、底なしの自信はどこから来るのだろうか。
遥香は肩におかれた裕也の手を振り払った。
今度は、驚くのは裕也の番だった。
「わたし、ちゃんとおつき合いしている人がいるから!」
「へえ、でもどうせお前のことだから、遊ばれてるだけだろ?」
「ちが―――」
「ちゃんと真面目につき合っているよ」
裕也の言葉を否定しようと口を開いた遥香は、それにかぶせて聞こえてきた声にハッとした。
声をする方を見れば、浴衣を着た弘貴が立っていた。
「遅いと思って迎えに来てみたら、これはどういうことなのかな?」
弘貴は泰然と歩いてくると、遥香をかばうように抱きしめて裕也を睨む。
裕也は弘貴の顔を見て、唖然とした表情を浮かべた。それはそうだろう。弘貴は、人を見下す癖のある裕也が、見下せないだけのものを持っている人だ。容姿も、性格も、なにもかも、裕也なんて足元にも及ばない素敵な人なのだ。
遥香は弘貴の腕の中でほっと息を吐きだした。弘貴のぬくもりに安心して、強張っていた体から力が抜けていく。
「ところで、君は誰かな? 気安く俺の彼女に声をかけないでほしいんだが」
弘貴の、眼鏡の奥の瞳が怒っている。
あからさまな敵意を向けられて、裕也は少したじろいだようだが、すぐに持ち直すと、弘貴の腕の中の遥香を見下ろして笑った。
「これはまた、想定外のイケメンを捕まえたもんだ。だけどさぁ、遥香。お前わかってる? 全然釣り合ってないよ」
裕也の棘のような言葉に、遥香はビクッと肩を揺らした。
顔をあげると、裕也が憐れむような表情を浮かべている。
「そこのカッコいい彼氏さんに、お前は全然似合わない。分相応って言うだろう? 高望みしすぎだね。そのうち、捨てられるよ。簡単にさ」
「勝手なことを言うな」
弘貴は遥香を抱く腕に力を籠めると、そのまま遥香を半ば抱えるようにして歩き出す。
「行くよ、遥香」
弘貴の声はとても怒っていた。
遥香は肩越しに一度だけ裕也を振り返ると、弘貴に連れられて部屋まで戻ったのだった。
三木裕也という名前の元彼は、遥香が藤倉商事に入社前に三年務めた広告代理店で同期だった男だ。
スラリとした長身に、少しだけ垂れ目のはっきりとした二重の双眸。甘い顔立ちの彼の顔に、入社してすぐに一目ぼれしてしまったことを思い出す。
つき合う前――ただの同期だったころの裕也はとても親切で優しかった。そんな彼のことを、遥香はずっと好きで、「つき合おうか」と言われたときはとても嬉しかったのを覚えている。だが――
――お前なんかが、俺の本命になれると思ってたの?
裕也に浴びせられた嘲笑が、今でも耳に残っている。
裕也には遥香のほかに『本命』のとても美人な彼女がいた。小さな顔の、モデルのように整った女性だ。それは勤めていた広告代理店の取引先の会社の受付嬢をしていた人で、遥香も何度か仕事で会ったことがあるから知っていた。
浮気されたのだと思って、泣きながら責めたら、そう言われた。
――そもそもお前の方が遊びなの。そんなこともわかんない? というかお前、怒れたんだね。何を言っても逆らわないから、本当にお人形なんじゃないかって思ってたよ。
裕也の彼女だと思っていたのに、ただの暇つぶしの遊び相手だったのだとはっきり言われて、遥香は何も言い返せなかった。
ただ悲しくて悔しくて、泣いていたら、裕也に言われた。
――お前は余計なことを考えずにおとなしくしていればいいの。そうすれば今までどおり、ちゃんと可愛がってあげるからさ。
そう言われたとき、遥香の中で何かが壊れて――、会社に辞表を出し、裕也から逃げるように退職した。
(なんで……、忘れてたのに)
どうして、裕也がここにいるのだろう。
過去を思い出して軋む心臓を、できることなら握りしめてしまいたい。
遥香は裕也から視線をそらしたが、足が鉛のように重くて、動くことができなかった。
「お前どうしてここにいるの? 俺はさ、彼女と旅行中なんだけど。あ、なに、一人旅ってやつ? お前でもそんな行動力あるんだねぇ。つか、元気にしてた?」
どうして裕也は、何事もなかったように話しかけることができるのだろうか。
立ち尽くしていると、何も言わない遥香に苛立ったのか、裕也が距離を詰めてくる。
「ねえ、何で黙っていなくなったの? これでも一応心配したんだよ? お前、この半年の間なにしてたの?」
「……ちゃんと就職活動して、仕事しているわ」
「そういうことを訊いてるんじゃないから」
裕也は遥香の肩にぽんと手をおいた。
「俺がいなくて淋しかっただろう? お前、俺に惚れてたもんな。俺はお前のことなんて今まで忘れてたけど、ここで会ったのも何かの縁かもしれないし。またつき合ってやってもいいよ」
遥香は大きく目を見開いた。
(何を言ってるの、この人……)
あきれすぎて、ものも言えずに黙っていると、裕也がにっこりと微笑む。
「なんだ、嬉しすぎて声も出ない?」
この、底なしの自信はどこから来るのだろうか。
遥香は肩におかれた裕也の手を振り払った。
今度は、驚くのは裕也の番だった。
「わたし、ちゃんとおつき合いしている人がいるから!」
「へえ、でもどうせお前のことだから、遊ばれてるだけだろ?」
「ちが―――」
「ちゃんと真面目につき合っているよ」
裕也の言葉を否定しようと口を開いた遥香は、それにかぶせて聞こえてきた声にハッとした。
声をする方を見れば、浴衣を着た弘貴が立っていた。
「遅いと思って迎えに来てみたら、これはどういうことなのかな?」
弘貴は泰然と歩いてくると、遥香をかばうように抱きしめて裕也を睨む。
裕也は弘貴の顔を見て、唖然とした表情を浮かべた。それはそうだろう。弘貴は、人を見下す癖のある裕也が、見下せないだけのものを持っている人だ。容姿も、性格も、なにもかも、裕也なんて足元にも及ばない素敵な人なのだ。
遥香は弘貴の腕の中でほっと息を吐きだした。弘貴のぬくもりに安心して、強張っていた体から力が抜けていく。
「ところで、君は誰かな? 気安く俺の彼女に声をかけないでほしいんだが」
弘貴の、眼鏡の奥の瞳が怒っている。
あからさまな敵意を向けられて、裕也は少したじろいだようだが、すぐに持ち直すと、弘貴の腕の中の遥香を見下ろして笑った。
「これはまた、想定外のイケメンを捕まえたもんだ。だけどさぁ、遥香。お前わかってる? 全然釣り合ってないよ」
裕也の棘のような言葉に、遥香はビクッと肩を揺らした。
顔をあげると、裕也が憐れむような表情を浮かべている。
「そこのカッコいい彼氏さんに、お前は全然似合わない。分相応って言うだろう? 高望みしすぎだね。そのうち、捨てられるよ。簡単にさ」
「勝手なことを言うな」
弘貴は遥香を抱く腕に力を籠めると、そのまま遥香を半ば抱えるようにして歩き出す。
「行くよ、遥香」
弘貴の声はとても怒っていた。
遥香は肩越しに一度だけ裕也を振り返ると、弘貴に連れられて部屋まで戻ったのだった。
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