上 下
103 / 129
籠の鳥

2

しおりを挟む
 サランシェス国第一王子クライヴは、部屋に入るなり自分の目を疑った。

 二十年生きていた中で、一番驚いたかもしれない。

 部屋に入って目に飛び込んできたのは、床の上にぐったりと横たわる女だ。

 赤みがかった金髪の、ほっそりとした体つきの女。刺客の類か、それとも何かの罠かと警戒して、剣を片手に近寄って――さらに愕然とする。

「……えれ、の、あ……?」

 確信が持てなかったのは無理もないかもしれない。

 赤みがかった金髪は変わらない。いや、以前よりも艶やかだが、それでも記憶の中にある色だ。瞳は固く閉ざされていて、水色の瞳を探すことはできなかったが、生まれたころから二十年婚約関係にあった女の顔だ、忘れるはずはない。

 だが――、エレノアは、こんなにも美しかっただろうか。

 食事を取っているのかと疑いたくなるほど、まるで貧民街の路地裏で物乞いをしている孤児のようにガリガリだった彼女は、依然細いとはいえ、クライヴが記憶しているエレノアよりもふっくらとしている。

 床に体を丸めて眠っている彼女の肢体は女性らしい曲線を描いていて、思わず触れてみたくなるようなきめ細かな頬と、薔薇の花びらのようにみずみずしい唇をしていた。

 この女は誰だ――、とクライヴは自問する。

 エレノアだ。エレノアだが――、本当に、エレノアだろうか。

 クライヴはその場に剣をおき、そっとエレノアを助け起こし――、はじめてその呼吸が荒いことに気がつく。青い顔をしていて、額には玉のような汗が浮かんでいた。

「く、苦しいのか?」

 捨てたはずの婚約者が苦しんでいるだけで、どうしてこんなにも狼狽えてしまうのか、クライヴにはわからない。

 だが、クライヴは慌てて自分のベッドにエレノアを寝かせると、水差しからコップへ水を移して、エレノアの背中を支え、ゆっくりと口に近づけてみた。

 唇を湿らせるように少しだけコップを傾けると、エレノアが小さく口を開く。

 クライヴはこぼさないように気をつけながらエレノアの口に水を注ぎ入れた。こくん、と細い喉が嚥下するのを見て、安堵する自分にまた驚く。

 何口か水を飲ませて、エレノアを横にすると、さてどうしたものかと悩んだ。

 エレノアは――、彼女の親である公爵を吐かせたところ、山奥へ捨てられたらしい。

 半年以上も前に山奥へ捨てられたのだ、とっくに息絶えているだろう――、誰もがそう言った。

 だが、祝福の儀式でクライヴを断罪した月の神は、エレノアの名前を口にした。

 もしかしたら、生きているかもしれない――

 そう思って探させて一月以上たったが、彼女の消息らしいものはつかめないまま。それでもあきらめきれず――、彼女を見つければ、今度こそ大切にすれば、月の神からの祝福が得られるかもしれないと打算的なことを考えて、探し続けてきた。その彼女が、まさか自分の部屋にいるなんて。

「どうしてここに……」

 ベッドの淵に浅く腰かけてエレノアの顔を覗き込む。苦しそうに呻いていたので、手を伸ばして額に張り付いて前髪を払ってやる。

 侍医に見せた方がいいだろう。こんなに苦しんでいるのだから、どこか悪いのかもしれない。どうしてこの部屋にいたのかという問いは、彼女が目を覚まして問いただせばすむことだ。そう思うのに――、クライヴは動けない。

 少しでも目を離すと、消えていなくなりそうな気がした。

「じ、侍医に診せたら、騒ぎになるよな。なぜならエレノアがここにいるはずないのだから。そうだ、侍医に診せるべきじゃない。そう、だよな……」

 まるで言い聞かせるように言って、クライヴはベッドのサイドテーブルの引き出しを開けた。

 第一王子であるクライヴは、いつ命を狙われてもおかしくない。そんなときのために、引き出しの中には解毒薬が入っている。エレノアが何に苦しんでいるのはわからないが、これを飲ませて様子を見よう。

 クライヴは薬紙に包まれた解毒薬を一つ取り出し、ちらりとエレノアを見る。

 そのつらそうな顔を見ると、やはり侍医を呼びに行った方が――と思ってしまうが、クライヴは小さく首を振った。

「と、とにかく、様子見て治らなかったら、そうしたら――」

 自分がどうしたいのかがわからない。

 苦しんでいるから助けてやりたいと思う反面、誰にも知らせたくないとも思っている。

 わけがわからない――

 クライヴはもう一度を横に振ると、粉状の薬に視線を落として、エレノアを見た。

(飲めるか――?)

 クライヴは彼女の唇に触れて、また考える。

 口移し――、ふと脳裏によぎったその言葉に、ぎくりとした。

 二十年間婚約者と言う関係だったが、エレノアと口づけを重ねたことは一度もない。それはそうだ。クライヴはエレノアに興味がなかったし、どうしてこんな貧相な女――と、忌々しく思っていたのだから、当然だ。

 ふに、と唇を軽く押してみる。

 薄いが弾力があって、みずみずしいきれいな唇。

「エレノア――」

 あれほど拒絶していたのに、この唇に口づけたい衝動に駆られて、クライヴは動揺した。

 くらくらする。まるで酩酊したかのようだ。

 吸い寄せられるように唇を近づけて、エレノアの口からこぼれた小さなうめき声にハッとした。

「何をしているんだ俺は――」

 クライヴはコップに水を半分ほど注ぐと、その中に解毒薬を溶かすと、エレノアの上体を起こして、安定させるために後ろに回り込んだ。

 後ろから抱えるようにして、仰向かせたエレノアの唇に親指を入れて、できるだけ優しく開かせる。

「薬だ、飲め」

 聞こえているのか、いないのか。

 薬を溶かした水をエレノアの口に慎重に注いでいくと、エレノアがこくんと喉を鳴らす。

 コップの中身をすべて飲ませると、クライヴはサイドテーブルにコップをおいて、後ろから抱えたままのエレノアを見下ろした。

 エレノアはぐったりしていて、目を覚ます気配はない。

 このまま少し眠らせてやるべきだろう。

 薬が効かなかったら、さすがに侍医を呼びにいかなくてはならない。

 とにかく少し安静に――、わかっているのに、クライヴは背後からエレノアの腹に回した腕をなかなかほどくことができない。

 月の神とか祝福とか、なんだかもうどうでもよくて――、ただこのまま、彼女を抱きしめていたいと、思ってしまうのは、どうして――
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】騎士団長の旦那様は小さくて年下な私がお好みではないようです

大森 樹
恋愛
貧乏令嬢のヴィヴィアンヌと公爵家の嫡男で騎士団長のランドルフは、お互いの親の思惑によって結婚が決まった。 「俺は子どもみたいな女は好きではない」 ヴィヴィアンヌは十八歳で、ランドルフは三十歳。 ヴィヴィアンヌは背が低く、ランドルフは背が高い。 ヴィヴィアンヌは貧乏で、ランドルフは金持ち。 何もかもが違う二人。彼の好みの女性とは真逆のヴィヴィアンヌだったが、お金の恩があるためなんとか彼の妻になろうと奮闘する。そんな中ランドルフはぶっきらぼうで冷たいが、とろこどころに優しさを見せてきて……!? 貧乏令嬢×不器用な騎士の年の差ラブストーリーです。必ずハッピーエンドにします。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

大嫌いな次期騎士団長に嫁いだら、激しすぎる初夜が待っていました

扇 レンナ
恋愛
旧題:宿敵だと思っていた男に溺愛されて、毎日のように求められているんですが!? *こちらは【明石 唯加】名義のアカウントで掲載していたものです。書籍化にあたり、こちらに転載しております。また、こちらのアカウントに転載することに関しては担当編集さまから許可をいただいておりますので、問題ありません。 ―― ウィテカー王国の西の辺境を守る二つの伯爵家、コナハン家とフォレスター家は長年に渡りいがみ合ってきた。 そんな現状に焦りを抱いた王家は、二つの伯爵家に和解を求め、王命での結婚を命じる。 その結果、フォレスター伯爵家の長女メアリーはコナハン伯爵家に嫁入りすることが決まった。 結婚相手はコナハン家の長男シリル。クールに見える外見と辺境騎士団の次期団長という肩書きから女性人気がとても高い男性。 が、メアリーはそんなシリルが実は大嫌い。 彼はクールなのではなく、大層傲慢なだけ。それを知っているからだ。 しかし、王命には逆らえない。そのため、メアリーは渋々シリルの元に嫁ぐことに。 どうせ愛し愛されるような素敵な関係にはなれるわけがない。 そう考えるメアリーを他所に、シリルは初夜からメアリーを強く求めてくる。 ――もしかして、これは嫌がらせ? メアリーはシリルの態度をそう受け取り、頑なに彼を拒絶しようとするが――……。 「誰がお前に嫌がらせなんかするかよ」 どうやら、彼には全く別の思惑があるらしく……? *WEB版表紙イラストはみどりのバクさまに有償にて描いていただいたものです。転載等は禁止です。

記憶喪失になったら、義兄に溺愛されました。

せいめ
恋愛
 婚約者の不貞現場を見た私は、ショックを受けて前世の記憶を思い出す。  そうだ!私は日本のアラサー社畜だった。  前世の記憶が戻って思うのは、こんな婚約者要らないよね!浮気症は治らないだろうし、家族ともそこまで仲良くないから、こんな家にいる必要もないよね。  そうだ!家を出よう。  しかし、二階から逃げようとした私は失敗し、バルコニーから落ちてしまう。  目覚めた私は、今世の記憶がない!あれ?何を悩んでいたんだっけ?何かしようとしていた?  豪華な部屋に沢山のメイド達。そして、カッコいいお兄様。    金持ちの家に生まれて、美少女だなんてラッキー!ふふっ!今世では楽しい人生を送るぞー!  しかし。…婚約者がいたの?しかも、全く愛されてなくて、相手にもされてなかったの?  えっ?私が記憶喪失になった理由?お兄様教えてー!  ご都合主義です。内容も緩いです。  誤字脱字お許しください。  義兄の話が多いです。  閑話も多いです。

王命なんて・・・・くそくらえですわ

朝山みどり
恋愛
ティーナは王宮薬師の下っ端だ。地下にある自室でポーションを作っている。自分ではそれなりの腕だと思っているが、助手もつけてもらえず一人で働いていた。 そんなティーナが王命で公爵と結婚することになった。驚くティーナに王太子は公爵がひとめぼれからだと言った。 ティーナだって女の子。その言葉が嬉しいし、婚姻届にサインするとき会った公爵はとても素敵だった。 だが、それからすぐに公爵は仕事だとかで一度も会いに来ない。 そのうえ、ティーナの給料の大半が公爵家に渡される事になった。ティーナにはいるのは端数の部分だ。 お貴族様っていうのはほんとに民から金とるしか考えてないねとティーナは諦めて休みの日も働いて食いつないだ。 だが、ある日ティーナがプッツンとなる出来事が起きた。 働いたって取り上げられるなら、働くもんかと仕事をやめて国一番の歓楽街のある町に向かう事にした。 「わたしは都会が似合う女だからね」 やがて愛しいティーナに会えると戻ってきたジルフォードは愕然とする。 そしてすぐに追いかけたいけどそれも出来ずに・・・・

【完結】わたしはお飾りの妻らしい。  〜16歳で継母になりました〜

たろ
恋愛
結婚して半年。 わたしはこの家には必要がない。 政略結婚。 愛は何処にもない。 要らないわたしを家から追い出したくて無理矢理結婚させたお義母様。 お義母様のご機嫌を悪くさせたくなくて、わたしを嫁に出したお父様。 とりあえず「嫁」という立場が欲しかった旦那様。 そうしてわたしは旦那様の「嫁」になった。 旦那様には愛する人がいる。 わたしはお飾りの妻。 せっかくのんびり暮らすのだから、好きなことだけさせてもらいますね。

【完結】悪役令嬢は折られたフラグに気が付かない【全23話+おまけ2話】

早奈恵
恋愛
エドウィン王子から婚約破棄されて、修道院でいじめ抜かれて死んでしまう予知夢を見た公爵令嬢アデリアーナは、男爵令嬢のパナピーアに誘惑されてしまうはずの攻略対象者との出会いを邪魔して、予知夢を回避できるのか試そうとする。 婚約破棄への道を自分で潰すつもりなのに、現実は何だか予知夢の内容とどんどんかけ離れて、知らないうちに話が進んでいき……。 宰相インテリ子息、騎士団長の脳筋子息、実家を継ぐために養子になったわんこ系義弟、そして婚約者の王太子エドウィンが頑張る話。 *リハビリに短編を書く予定が中編くらいになってしまいましたが、すでにラストまで書き終えている完結確約作品です。全23話+おまけ2話、よろしくお願いします。 *短い期間ですがHOTランキング1位に到達した作品です。

ゲームには参加しません! ―悪役を回避して無事逃れたと思ったのに―

冬野月子
恋愛
侯爵令嬢クリスティナは、ここが前世で遊んだ学園ゲームの世界だと気づいた。そして自分がヒロインのライバルで悪役となる立場だと。 のんびり暮らしたいクリスティナはゲームとは関わらないことに決めた。設定通りに王太子の婚約者にはなってしまったけれど、ゲームを回避して婚約も解消。平穏な生活を手に入れたと思っていた。 けれど何故か義弟から求婚され、元婚約者もアプローチしてきて、さらに……。 ※小説家になろう・カクヨムにも投稿しています。

処理中です...