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籠の鳥

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 サランシェス国第一王子クライヴは、部屋に入るなり自分の目を疑った。

 二十年生きていた中で、一番驚いたかもしれない。

 部屋に入って目に飛び込んできたのは、床の上にぐったりと横たわる女だ。

 赤みがかった金髪の、ほっそりとした体つきの女。刺客の類か、それとも何かの罠かと警戒して、剣を片手に近寄って――さらに愕然とする。

「……えれ、の、あ……?」

 確信が持てなかったのは無理もないかもしれない。

 赤みがかった金髪は変わらない。いや、以前よりも艶やかだが、それでも記憶の中にある色だ。瞳は固く閉ざされていて、水色の瞳を探すことはできなかったが、生まれたころから二十年婚約関係にあった女の顔だ、忘れるはずはない。

 だが――、エレノアは、こんなにも美しかっただろうか。

 食事を取っているのかと疑いたくなるほど、まるで貧民街の路地裏で物乞いをしている孤児のようにガリガリだった彼女は、依然細いとはいえ、クライヴが記憶しているエレノアよりもふっくらとしている。

 床に体を丸めて眠っている彼女の肢体は女性らしい曲線を描いていて、思わず触れてみたくなるようなきめ細かな頬と、薔薇の花びらのようにみずみずしい唇をしていた。

 この女は誰だ――、とクライヴは自問する。

 エレノアだ。エレノアだが――、本当に、エレノアだろうか。

 クライヴはその場に剣をおき、そっとエレノアを助け起こし――、はじめてその呼吸が荒いことに気がつく。青い顔をしていて、額には玉のような汗が浮かんでいた。

「く、苦しいのか?」

 捨てたはずの婚約者が苦しんでいるだけで、どうしてこんなにも狼狽えてしまうのか、クライヴにはわからない。

 だが、クライヴは慌てて自分のベッドにエレノアを寝かせると、水差しからコップへ水を移して、エレノアの背中を支え、ゆっくりと口に近づけてみた。

 唇を湿らせるように少しだけコップを傾けると、エレノアが小さく口を開く。

 クライヴはこぼさないように気をつけながらエレノアの口に水を注ぎ入れた。こくん、と細い喉が嚥下するのを見て、安堵する自分にまた驚く。

 何口か水を飲ませて、エレノアを横にすると、さてどうしたものかと悩んだ。

 エレノアは――、彼女の親である公爵を吐かせたところ、山奥へ捨てられたらしい。

 半年以上も前に山奥へ捨てられたのだ、とっくに息絶えているだろう――、誰もがそう言った。

 だが、祝福の儀式でクライヴを断罪した月の神は、エレノアの名前を口にした。

 もしかしたら、生きているかもしれない――

 そう思って探させて一月以上たったが、彼女の消息らしいものはつかめないまま。それでもあきらめきれず――、彼女を見つければ、今度こそ大切にすれば、月の神からの祝福が得られるかもしれないと打算的なことを考えて、探し続けてきた。その彼女が、まさか自分の部屋にいるなんて。

「どうしてここに……」

 ベッドの淵に浅く腰かけてエレノアの顔を覗き込む。苦しそうに呻いていたので、手を伸ばして額に張り付いて前髪を払ってやる。

 侍医に見せた方がいいだろう。こんなに苦しんでいるのだから、どこか悪いのかもしれない。どうしてこの部屋にいたのかという問いは、彼女が目を覚まして問いただせばすむことだ。そう思うのに――、クライヴは動けない。

 少しでも目を離すと、消えていなくなりそうな気がした。

「じ、侍医に診せたら、騒ぎになるよな。なぜならエレノアがここにいるはずないのだから。そうだ、侍医に診せるべきじゃない。そう、だよな……」

 まるで言い聞かせるように言って、クライヴはベッドのサイドテーブルの引き出しを開けた。

 第一王子であるクライヴは、いつ命を狙われてもおかしくない。そんなときのために、引き出しの中には解毒薬が入っている。エレノアが何に苦しんでいるのはわからないが、これを飲ませて様子を見よう。

 クライヴは薬紙に包まれた解毒薬を一つ取り出し、ちらりとエレノアを見る。

 そのつらそうな顔を見ると、やはり侍医を呼びに行った方が――と思ってしまうが、クライヴは小さく首を振った。

「と、とにかく、様子見て治らなかったら、そうしたら――」

 自分がどうしたいのかがわからない。

 苦しんでいるから助けてやりたいと思う反面、誰にも知らせたくないとも思っている。

 わけがわからない――

 クライヴはもう一度を横に振ると、粉状の薬に視線を落として、エレノアを見た。

(飲めるか――?)

 クライヴは彼女の唇に触れて、また考える。

 口移し――、ふと脳裏によぎったその言葉に、ぎくりとした。

 二十年間婚約者と言う関係だったが、エレノアと口づけを重ねたことは一度もない。それはそうだ。クライヴはエレノアに興味がなかったし、どうしてこんな貧相な女――と、忌々しく思っていたのだから、当然だ。

 ふに、と唇を軽く押してみる。

 薄いが弾力があって、みずみずしいきれいな唇。

「エレノア――」

 あれほど拒絶していたのに、この唇に口づけたい衝動に駆られて、クライヴは動揺した。

 くらくらする。まるで酩酊したかのようだ。

 吸い寄せられるように唇を近づけて、エレノアの口からこぼれた小さなうめき声にハッとした。

「何をしているんだ俺は――」

 クライヴはコップに水を半分ほど注ぐと、その中に解毒薬を溶かすと、エレノアの上体を起こして、安定させるために後ろに回り込んだ。

 後ろから抱えるようにして、仰向かせたエレノアの唇に親指を入れて、できるだけ優しく開かせる。

「薬だ、飲め」

 聞こえているのか、いないのか。

 薬を溶かした水をエレノアの口に慎重に注いでいくと、エレノアがこくんと喉を鳴らす。

 コップの中身をすべて飲ませると、クライヴはサイドテーブルにコップをおいて、後ろから抱えたままのエレノアを見下ろした。

 エレノアはぐったりしていて、目を覚ます気配はない。

 このまま少し眠らせてやるべきだろう。

 薬が効かなかったら、さすがに侍医を呼びにいかなくてはならない。

 とにかく少し安静に――、わかっているのに、クライヴは背後からエレノアの腹に回した腕をなかなかほどくことができない。

 月の神とか祝福とか、なんだかもうどうでもよくて――、ただこのまま、彼女を抱きしめていたいと、思ってしまうのは、どうして――
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