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 翌朝は、昨日の雪が嘘のように晴れ渡っていた。

 もちろん気温は低いので積もった雪が解けだす気配はないが、夜が明けたばかりの柔らかい日差しが庭の雪に反射して、光の粒をまき散らしたかのように輝いている。

 結局、昨夜は一睡もできないまま、恬子やすこは朝を迎えた。

 中将ちゅうじょうに会うのが少しだけ怖い。昨日のことで、目があった途端に顔を背けられてしまうのではないかと心配になる。

 恬子は眠れなかったせいでぼーっとする意識を覚醒させるため、両手で軽く頬を叩いた。

 中将に会ったら、何もなかったかのように微笑もう。それが恬子にできる精いっぱいのことだった。だがその前に、朝餉あさげの支度をしなくては。

 恬子は寒さに身を縮こませながらくりやへ急ぐ。朝餉を準備して、中将と兄が起き出す前に火桶ひおけに火を入れて、室内を温めておかなくてはいけない。

 はあっと吐く息が白い氷の粒になって霧散する。

 晴れていてもすごく寒い。

 昨夜、体調の悪そうだった中将の顔が思い出された。小野は都よりも寒いから、体調が悪そうだったことだし、できるだけ暖かくしてあげたかった。

(汁物はいつもより熱いくらいで用意しましょう。それから……)

 てきぱきと朝餉の準備を進めていく。温かいものを飲んで体を温めてほしいから汁物はあとから出すとして、そのほかを部屋に準備し終えると、恬子は兄を起こしに行くことにした。

 いつもは恬子よりも朝が早いくらいなのに、酒を飲んだ翌日だけはなかなか起きてこないのだ。

(中将殿も起きていないみたいだし……、あとで声をかけに行きましょう)

 そう思い、先に惟喬これたかの部屋に向かった恬子は、話し声が聞こえて足を止める。

 兄と中将の声だった。どうやら二人は起きていたらしく、兄の部屋で話をしているらしかった。

(邪魔をしてはいけないわね)

 恬子はまたあとで来ようと踵を返しかけたが、漏れ聞こえてきた兄の言葉に足を止める。

「恬子と……」

 どうやら、兄と中将は恬子のことを話しているらしかった。

 いけないと思いつつもどうしても気になって、恬子は聞き耳を立ててしまう。

「恬子は、都に帰ると言ったか?」

 恬子はぎくりと肩を強張らせた。その一言で、中将がなぜ恬子に都に帰ろうと言ったのかわかってしまう。

(お兄様が言わせたのね……)

 おかげで昨夜は中将と気まずくなってしまったではないか。恨めしく思っていると、嘆息交じりの中将の声が聞こえる。

「いいえ、断られてしまいました」

「そうか。あれも強情だからな……、すまんな」

「いえ、なんとなく断られるだろうとは思っていましたから。頷いてほしかったですが、無理やりお連れするわけにも参りませんから、仕方がありません……」

「あきらめるな。私が口添えするから連れて帰れ」

「口添えって……、嫌な予感がするのですが、惟喬様、何を言うつもりですか……?」

「もうここへはおいてやらんから出て行けと言えば、出て行くよりほかはあるまい?」

「洒落になっていませんからね……」

 中将の苦笑交じりの声が聞こえる。

 容赦ないことを言う兄に、恬子はひやりとした。追い出されては、本当に都に帰るしかなくなってしまう。

「惟喬様、お願いですから無茶なことは言わないであげてください。宮様を傷つけてまで連れて帰ろうとは思ってはいないのです」

「だが―――」

 何か言いかけた兄は不意に言葉を切った。

 その直後、ごほごほと激しく咳き込む声が聞こえた。中将のものだった。

(やはり、昨日体を冷やしてしまったのだわ)

 心配する恬子の耳に、次の瞬間、耳を疑うような言葉が突き刺さる。

「お前、あとどのくらい生きられるんだ?」

 咳の合間に、兄の緊張したような声がした。

(……え?)

 恬子は息を吸い込んだ。ごくりと唾を飲み下した喉が引きつる。そのまま呼吸の仕方を忘れたみたいに、何度も口を開閉した。

(生きられる……? 生きられるって、どういうこと? どうしてそんなことを訊くの? まるで……)

 中将が、もうすぐ―――。

 恬子はこれ以上聞いていられなくなって、耳を塞ぎそうだった。

 咳の発作が収まつた中将が、信じられないくらい穏やかな声で兄に答える。

「もう長くはないでしょうね……。惟喬様の元を訪れることができるのも、これが最後かもしれません」

 目の前が、真っ暗になった。

「―――ッ」

 恬子は思わず兄の部屋に飛び込んでいた。

「どういうことですか!?」

 突然現れた恬子に真っ青な表情で詰め寄られ、二人の表情が強張る。

 恬子は中将の袖をつかんだ。

「どういうこと? 長くないって、何? 何を言っているのかわからないわ!」

 恬子の目に、今にも零れ落ちそうなほど涙が盛り上がる。

 袖を掴んだまま引っ張ると、中将はとても悲しそうな顔をした。

「聞いてしまったのですか……」

 中将の顔が、白い。

 体を冷やしたからと一人納得していた恬子は、なんと愚かだったのだろうか。

 もっと恬子が冷静だったら――、彼に会えたことに舞い上がっていなければ、彼の機微にまでしっかりと注意して気にすることができていれば、気づいていたはずなのに。

 どうして、どうしてと意味を持たない言葉をくり返す。

「宮様、私は……」

「いや! 聞きたくない!」

 自分から問い詰めたくせに、中将が核心に触れることを言おうとすると、恐ろしすぎて聞いていられなかった。

 恬子は幼子のように首を振って、身を翻した。

「恬子!」

「宮様!」

 兄と中将の焦る声を聞きながら、恬子は部屋を飛び出して廂を駆けて行く。

 ――もう長くはないでしょうね。

 中将の諦めきったような声が、恬子の背中を追いかけてくるようだった。

(どうして、どうしてどうして……!)

 中将がいなくなってしまう。

 恬子は一度も考えたことはなかった。普通に考えれば、二十一も年が離れているのだ。彼が恬子よりも先に逝ってしまうのは、わかりきっていたことなのに。

 逝ってしまう。中将が逝ってしまう――

 ほかの誰でもない、中将自身の声で突きつけられた現実が、恬子を深淵に引きずり込んで、窒息しそうなほどの恐怖で縛りつける。

 こんなことなら――

 こんなことならば、あの日、中将に縋りついていればよかった。

 あの日、中将は些末なことだと言った。今日まで恬子はその言葉を否定していた。でも、今ならば頷ける。

 大切な人に二度と会えなくなるかもしれない現実を前に、恬子が自分を押し殺してまで大切に抱えていた考えは、どれほどくだらないものだったのだろうか――。

 恬子は庵室を飛び出して、少し行った先の木の幹に手をついて足を止めた。

「こんなことなら……、あの時、あの人の手を取ればよかった」

 恬子は縋りつくように木肌に爪を立てて、その場にくずおれた。
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