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あの人と出会ったのは、恬子が十八の時だった。
恬子は異母弟が帝位についたときから伊勢に下っており、そこへ彼が訪れた。勅使として鷹狩りに出向いてきたのだ。
そのときあの人はまだ中将の役職になく、兵衛佐であったため「佐殿」、もしくは父君が親王だったその出自から「朝臣殿」と呼ばれていた。
兄の惟喬のとても親しい従者であった彼のことは、当然耳には入っていたが、恬子は伊勢に来るまではずっと宮中の奥深くで暮らしていたために、彼と対面したことはなかった。
(どんな方なのかしら……?)
噂ならば、都からはるか離れたこの地にも届いてきている。
歌才あふれる雅な人であり――、それと同時に、あちらこちらで華やかな噂の絶えない、好色な人。
それだけ聞くと、非常に近寄りがたい印象を受けるのだが、恬子は兄からの「真面目で、情に厚いよい男だ」という評価も聞いている。華やかな噂と兄の評価が矛盾しているように思えて、恬子には朝臣殿の人物像が全くつかめないのだった。
「宮様、勅使殿がお見えです」
「え……、ええ」
御簾のうしろでぼんやりしていた恬子に、近しい女房である右近が告げる。
朝臣殿は昨夜のうちに到着したらしいが、そのとき恬子は休んでいて、挨拶ができていなかった。今朝になって、彼の方から「ご挨拶に伺います」と連絡をよこしてきたので、御簾の奥で待っていたのだ。
身分だけで言えば、恬子の方が圧倒的に上。
しかし、今回彼は勅使――それも、正使として訪れているし、兄の大切な従者だ。十八の恬子よりも、倍以上も年上でもある。失礼があってはいけないと、知らず知らずに緊張が走る。奇妙な静寂が広がった。
やがて、裾を捌く音が静かに聞こえてきた。
恬子が固唾を呑む中、入室してきた彼は、山吹の衣冠に身を包んでいた。
(……あら)
恬子は彼の姿を見た途端、目を丸くした。
部屋に入ってきた彼は、いろいろと驚かされる格好をしていたのだ。
衣冠はきっちり一つの乱れもなく着込んでいるのに対して、冠をかぶった頭の方は乱れている。
彼のぬばたまの黒い髪は、梳っただけで束ねもしていなかったのだ。
起き抜けに梳くだけ梳いて、申し訳程度にちょこんと冠を頭に載せてきました、という風体である。
だがそれが絶妙に似合っていて、恬子はあきれていいやら褒めていいやらわからなくなってしまった。
そして、何よりも彼の風貌。彼は恬子よりも二十一年上であるから、三十九を数えている――はずだった。それなのに、恬子の目には、彼は実年齢よりもずっと若そうに映る。顔立ちも、華やかな噂の絶えぬ人なのだから、さぞ傲慢そうなのだろうと思っていたが、とても品があった。醸し出す雰囲気は、凪いだ水面のように穏やかで静かである。
ますます、恬子は「朝臣殿」と呼ばれるこの男のことがわからなくなった。
「宮様、ご挨拶! ご挨拶ですよ! 何とお伝えいたしましょうか?」
こそこそと右近が耳打ちする。
朝臣殿は御簾の前に座り、浅く頭を下げていた。
恬子はハッと我に返ると、右近に耳打ちを返した。
「お遠いところ、ご苦労様でございますとお伝えして」
身分の高い女は、基本的には声を聞かせない。代弁を立てるのが普通で、恬子も昔からそうしてきたから、当然のように右近を代弁者に立てた。
(それにしても、不思議な方……)
雅で、品があって、静か。そして目を奪われるほど、華やか。
恬子は思わず、御簾越しにとっくりと見つめてしまう。
涼やかな目元、雪を欺くような白い肌。顔に一房かかっている艶やかな髪をかき上げる仕草が艶麗で、見てはいけないものを見ている気にさせる。
彼を形作る一つ一つの個はとても女性的だった。けれどもそれを集合させた彼は、美しいけれど、けっして女性的には映らない。
彼が浮名を流し続ける理由が、恋を知らない恬子にも垣間見えた気がした。
(なにかしら……、なんだか、こう……、似ている雰囲気のものを、知っている気がするわ)
またぼーっとしてしまっていた恬子は、右近に肘でつんつんとつつかれて現実に戻った。
「宮様、黙っていないでお話しなさいませんと。佐殿が困っておいでですよ」
「え、ああ、そうね―――、お兄様はご健勝でございますか……、あ」
右近にせっつかれてうっかり自ら言葉を発してしまい、恬子ははっと口元を覆った。ちらりと右近を見やれば「やっちゃった!」というような顔で額をおさえている。
「ええ、惟喬様はお元気そうですよ」
朝臣殿はくすりと小さく笑った。
「どうぞ、ここには私しかおりませんし、宮様のお話やすいようになさいませ。――もし、私のわがままをお聞きくださるのでしたら、そうして、春の日差しのように柔らかなお声で直接お言葉を頂戴する方が、嬉しく思います」
恬子はあんぐりと口を開けた。
少しかすれた絶妙な低音で、とんでもないことを言われた気がした。
恋の駆け引きなど全くできない恬子は、反応できないまま固まってしまう。その横で、パタッと音がしたので見やれば、右近が頬を染めて打ち伏していた。――右近が、声だけで悩殺された!
(う、ううう、嘘でしょ!? どうしたらいいの!)
恬子は心の中で、悲鳴を上げた。
恬子は異母弟が帝位についたときから伊勢に下っており、そこへ彼が訪れた。勅使として鷹狩りに出向いてきたのだ。
そのときあの人はまだ中将の役職になく、兵衛佐であったため「佐殿」、もしくは父君が親王だったその出自から「朝臣殿」と呼ばれていた。
兄の惟喬のとても親しい従者であった彼のことは、当然耳には入っていたが、恬子は伊勢に来るまではずっと宮中の奥深くで暮らしていたために、彼と対面したことはなかった。
(どんな方なのかしら……?)
噂ならば、都からはるか離れたこの地にも届いてきている。
歌才あふれる雅な人であり――、それと同時に、あちらこちらで華やかな噂の絶えない、好色な人。
それだけ聞くと、非常に近寄りがたい印象を受けるのだが、恬子は兄からの「真面目で、情に厚いよい男だ」という評価も聞いている。華やかな噂と兄の評価が矛盾しているように思えて、恬子には朝臣殿の人物像が全くつかめないのだった。
「宮様、勅使殿がお見えです」
「え……、ええ」
御簾のうしろでぼんやりしていた恬子に、近しい女房である右近が告げる。
朝臣殿は昨夜のうちに到着したらしいが、そのとき恬子は休んでいて、挨拶ができていなかった。今朝になって、彼の方から「ご挨拶に伺います」と連絡をよこしてきたので、御簾の奥で待っていたのだ。
身分だけで言えば、恬子の方が圧倒的に上。
しかし、今回彼は勅使――それも、正使として訪れているし、兄の大切な従者だ。十八の恬子よりも、倍以上も年上でもある。失礼があってはいけないと、知らず知らずに緊張が走る。奇妙な静寂が広がった。
やがて、裾を捌く音が静かに聞こえてきた。
恬子が固唾を呑む中、入室してきた彼は、山吹の衣冠に身を包んでいた。
(……あら)
恬子は彼の姿を見た途端、目を丸くした。
部屋に入ってきた彼は、いろいろと驚かされる格好をしていたのだ。
衣冠はきっちり一つの乱れもなく着込んでいるのに対して、冠をかぶった頭の方は乱れている。
彼のぬばたまの黒い髪は、梳っただけで束ねもしていなかったのだ。
起き抜けに梳くだけ梳いて、申し訳程度にちょこんと冠を頭に載せてきました、という風体である。
だがそれが絶妙に似合っていて、恬子はあきれていいやら褒めていいやらわからなくなってしまった。
そして、何よりも彼の風貌。彼は恬子よりも二十一年上であるから、三十九を数えている――はずだった。それなのに、恬子の目には、彼は実年齢よりもずっと若そうに映る。顔立ちも、華やかな噂の絶えぬ人なのだから、さぞ傲慢そうなのだろうと思っていたが、とても品があった。醸し出す雰囲気は、凪いだ水面のように穏やかで静かである。
ますます、恬子は「朝臣殿」と呼ばれるこの男のことがわからなくなった。
「宮様、ご挨拶! ご挨拶ですよ! 何とお伝えいたしましょうか?」
こそこそと右近が耳打ちする。
朝臣殿は御簾の前に座り、浅く頭を下げていた。
恬子はハッと我に返ると、右近に耳打ちを返した。
「お遠いところ、ご苦労様でございますとお伝えして」
身分の高い女は、基本的には声を聞かせない。代弁を立てるのが普通で、恬子も昔からそうしてきたから、当然のように右近を代弁者に立てた。
(それにしても、不思議な方……)
雅で、品があって、静か。そして目を奪われるほど、華やか。
恬子は思わず、御簾越しにとっくりと見つめてしまう。
涼やかな目元、雪を欺くような白い肌。顔に一房かかっている艶やかな髪をかき上げる仕草が艶麗で、見てはいけないものを見ている気にさせる。
彼を形作る一つ一つの個はとても女性的だった。けれどもそれを集合させた彼は、美しいけれど、けっして女性的には映らない。
彼が浮名を流し続ける理由が、恋を知らない恬子にも垣間見えた気がした。
(なにかしら……、なんだか、こう……、似ている雰囲気のものを、知っている気がするわ)
またぼーっとしてしまっていた恬子は、右近に肘でつんつんとつつかれて現実に戻った。
「宮様、黙っていないでお話しなさいませんと。佐殿が困っておいでですよ」
「え、ああ、そうね―――、お兄様はご健勝でございますか……、あ」
右近にせっつかれてうっかり自ら言葉を発してしまい、恬子ははっと口元を覆った。ちらりと右近を見やれば「やっちゃった!」というような顔で額をおさえている。
「ええ、惟喬様はお元気そうですよ」
朝臣殿はくすりと小さく笑った。
「どうぞ、ここには私しかおりませんし、宮様のお話やすいようになさいませ。――もし、私のわがままをお聞きくださるのでしたら、そうして、春の日差しのように柔らかなお声で直接お言葉を頂戴する方が、嬉しく思います」
恬子はあんぐりと口を開けた。
少しかすれた絶妙な低音で、とんでもないことを言われた気がした。
恋の駆け引きなど全くできない恬子は、反応できないまま固まってしまう。その横で、パタッと音がしたので見やれば、右近が頬を染めて打ち伏していた。――右近が、声だけで悩殺された!
(う、ううう、嘘でしょ!? どうしたらいいの!)
恬子は心の中で、悲鳴を上げた。
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