68 / 97
第6章
8
しおりを挟むベッドの上。血に塗れたシーツ。横たわる体。傍に寄り添う影法師。蒼白の肌で眠る男を見つめる飴色は、僅かたりとも動く事は無い。
お役御免とマリが部屋を出て行けば、部屋の中には康泰とロイウェン、微動だにしないユリエラと眠るバーズの四人だけとなる。
康泰はベッドを挟んでユリエラの反対側に座り、ロイウェンはユリエラの後ろに立ってその頭に手を乗せた。
「お前が直情型で無い事に、これ程安堵する日が来ようとはな」
穏やかな低い声に導かれるように、ユリエラの顔がのろのろと上がる。
ロイウェンの言葉に、康泰も胸中で同意した。ユリエラが、一時の激情でメリディアの懐に飛び込むようなタイプでなくてよかった、と。
しかし、ロイウェンを見上げるユリエラの双眸には、理性と激情が混じり合った色が浮かんでいた。噛み締めていたのか、唇に僅かな赤が滲んでいる。
ユリエラは笑う。少しだけ歪な笑みは、常の彼には無い『感情』を表しているようだ。
「自分でも、驚いているよ…」
弱くて、柔らかな声だった。今まで聞いた事の無い静かな喋り方に、今の彼は『昔』の彼なのだと察する。
ゆっくりとまばたいたロイウェンの双眸に、自分に向ける情とはまた違う優しい慈しみの光が滲む。縁は切れども、やはり兄弟なのだと康泰は胸中でそろりと安堵の息を吐いた。
ユリエラは苦笑を浮かべ、ロイウェンから視線を逸らすと眠るバーズへと視線を戻した。
「胸の内はお前の吹雪のように荒れていて、言い表せない程の怒りに焼かれているのに…何故、わたしはこれほど静かでいられるのだろう…」
そう呟いたユリエラの声は静かで、その表情も穏やかなものだった。行き過ぎた怒りに、身の内を焼かれていると言うのに。
「兄様」
「…うん」
「あなたが他を顧みずにこの地を去っていたなら、私はあなたの前に立たなければならなかった」
「うん…お前は『魔皇』だもの…」
当たり前だとユリエラは笑った。
ロイウェンは魔皇だ。冥幻魔界の頂点だ。そして、各階層を治める魔王たちはロイウェンの王妃である。『魔皇』の前に立つのが『魔王』ならば、その『魔王』を守るのは『魔皇』の役目だ。
もし、ユリエラが我を忘れてメリディアを強襲していたなら、ロイウェンは『魔皇』としての義務を果たしただろう。
(色々と、綱渡りの騒動だったって事か…)
殺伐とした穏やかさと言う相反する空気の中、康泰がそろりと安堵の息を吐き出せば、漆黒に浮かぶ飴色の双眸が康泰に向けられはたりとまばたいた。
投げられた視線の強さに、康泰の肩が小さく跳ねる。
「皇妃閣下、此度はお見苦しい所をお見せいたしました」
「あ、いや…大丈夫ですか…?」
問えば、苦笑が返された。
「ええ、とりあえずは…」
「…ユリエラさんが凄く憤慨されているのは分かるんですが…メリディア嬢の事、俺と魔皇さんに任せてくれませんか?」
回りくどい事は面倒だ。単刀直入に伝えれば、ユリエラはその双眸を大きく見開いた。
飴色が戸惑いにくらりと揺れたのを見る。けれども、それは一呼吸の間に消えてなくなった。
「…もとより、そのつもりです」
諦念と渇望。その他、多くの感情が入り混じった眼差しが苦しい。しかし、その濁流には気付かないフリを決め込み、有難うとだけ返して康泰は席を立つ。
「事が収まるまでバーズさんは此処に匿いますから安心してください。それと、ユリエラさんも少し休みましょう?一度、俺の護衛から外れてください」
掛けられた言葉にユリエラの喉がひゅぅと鳴る。康泰の護衛は、師と仰ぐミオンからの直々に言い渡された最優先任務だ。
それは出来ないと双眸が訴えるが、護衛対象である康泰は駄目ですときっぱりと告げる。
「あなたも、あなたの影も、護衛として隠密するにはあまりにざわつきすぎている。上の空の護衛は命取りですよ。今日は居館から動きませんから、今日くらいは…ね?」
護るべき存在に迷惑を掛け、あまつさえ気に掛けて貰うなどなんと畏れ多い事か。お叱りは後日師に賜るとして、今はその優しさが有難かった。
「重ね重ね…ありがとうございます…」
「いいえ!じゃ、俺は先に失礼しますね」
はふりと噛み殺せなかった欠伸が零れ落ち、おやすみなさいと手を振って部屋から出て行く。
ぱたん。
閉ざした扉に背を預け、自身の爪先を見つめながら深く息を吐き出した。そうしなければ、自分の感情が揺らぎそうになる。
今すぐ居館を飛び出してメリディアを詰りに行ってしまいたい。そんな荒んだ気持ちを深く呼吸をする事で宥め、扉から背を離して廊下を歩き出した。
しばらく歩き、キ…と開いたのは広間への扉。明かりも無く、窓のカーテンも閉ざされた闇の中。廊下の光が差し込み室内を僅かに照らしたが、扉はすぐに閉ざされて再び闇が訪れた。
とすとすと足音は質のいい絨毯に吸い込まれる。迷いなくソファーに辿り着き、どさりと乱雑に腰を下ろして背凭れに後頭部を預けた。
そろりと零れ落ちた吐息。静寂に身を任せて眠りに就きそうな、ふわふわとした感覚に包まれ始めた頃、もそりと膝の上に重さを感じた。何事かと見下ろせば、闇よりも深い漆黒の塊。
きゅう。
聞き馴染んだ小さな鳴き声に、頬が緩む。
「ただいま…さっきはわがまま言ってごめんな…」
小さな頭から背中を辿って細長い尾を撫でれば、くうくうと鼻を鳴らして胸に頭を擦りつけて甘えて来る。その様に、心配させてしまったなと反省した。
かたりと扉の向こう側から小さな物音。そろりと開かれたそこから顔を覗かせたのは、モニスだった。
「このような暗い所で…」
呆れた物言いをしながらも明かりを点さず、そっと隣に腰を下ろしたモニスに康泰はふふと吐息で笑う。
「何だかんだで、モニスさんは優しいよね」
「…天使族は、悩める者に庇護欲を駆られるものですから」
「ふふ、相手が魔族でも?」
そんな訳が無いと問い掛けた康泰自身にも、茶化すように言葉にしたモニスにも分かっていた。
魔族と天使族は相容れぬ存在。その心根が優しい天使族であろうと、敵対する存在に寄り添う程愚かではない。
しかし、モニスはため息交じりに「…そうですね」と返した。康泰は小さな驚愕にぱちりとまばたく。モニスは見つめて来る琥珀色を、逸らす事無く真っ直ぐに受け止めた。
19
お気に入りに追加
2,538
あなたにおすすめの小説
転生先がハードモードで笑ってます。
夏里黒絵
BL
周りに劣等感を抱く春乃は事故に会いテンプレな転生を果たす。
目を開けると転生と言えばいかにも!な、剣と魔法の世界に飛ばされていた。とりあえず容姿を確認しようと鏡を見て絶句、丸々と肉ずいたその幼体。白豚と言われても否定できないほど醜い姿だった。それに横腹を始めとした全身が痛い、痣だらけなのだ。その痣を見て幼体の7年間の記憶が蘇ってきた。どうやら公爵家の横暴訳アリ白豚令息に転生したようだ。
人間として底辺なリンシャに強い精神的ショックを受け、春乃改めリンシャ アルマディカは引きこもりになってしまう。
しかしとあるきっかけで前世の思い出せていなかった記憶を思い出し、ここはBLゲームの世界で自分は主人公を虐める言わば悪役令息だと思い出し、ストーリーを終わらせれば望み薄だが元の世界に戻れる可能性を感じ動き出す。しかし動くのが遅かったようで…
色々と無自覚な主人公が、最悪な悪役令息として(いるつもりで)ストーリーのエンディングを目指すも、気づくのが遅く、手遅れだったので思うようにストーリーが進まないお話。
R15は保険です。不定期更新。小説なんて書くの初めてな作者の行き当たりばったりなご都合主義ストーリーになりそうです。
悪役令息に転生したけど…俺…嫌われすぎ?
「ARIA」
BL
階段から落ちた衝撃であっけなく死んでしまった主人公はとある乙女ゲームの悪役令息に転生したが...主人公は乙女ゲームの家族から甘やかされて育ったというのを無視して存在を抹消されていた。
王道じゃないですけど王道です(何言ってんだ?)どちらかと言うとファンタジー寄り
更新頻度=適当
【完】悪女と呼ばれた悪役令息〜身代わりの花嫁〜
咲
BL
公爵家の長女、アイリス
国で一番と言われる第一王子の妻で、周りからは“悪女”と呼ばれている
それが「私」……いや、
それが今の「僕」
僕は10年前の事故で行方不明になった姉の代わりに、愛する人の元へ嫁ぐ
前世にプレイしていた乙女ゲームの世界のバグになった僕は、僕の2回目の人生を狂わせた実父である公爵へと復讐を決意する
復讐を遂げるまではなんとか男である事を隠して生き延び、そして、僕の死刑の時には公爵を道連れにする
そう思った矢先に、夫の弟である第二王子に正体がバレてしまい……⁉︎
切なく甘い新感覚転生BL!
下記の内容を含みます
・差別表現
・嘔吐
・座薬
・R-18❇︎
130話少し前のエリーサイド小説も投稿しています。(百合)
《イラスト》黒咲留時(@black_illust)
※流血表現、死ネタを含みます
※誤字脱字は教えて頂けると嬉しいです
※感想なども頂けると跳んで喜びます!
※恋愛描写は少なめですが、終盤に詰め込む予定です
※若干の百合要素を含みます
ちっちゃくなった俺の異世界攻略
鮨海
ファンタジー
あるとき神の采配により異世界へ行くことを決意した高校生の大輝は……ちっちゃくなってしまっていた!
精霊と神様からの贈り物、そして大輝の力が試される異世界の大冒険?が幕を開ける!
虐げられ聖女(男)なので辺境に逃げたら溺愛系イケメン辺境伯が待ち構えていました【本編完結】(異世界恋愛オメガバース)
美咲アリス
BL
虐待を受けていたオメガ聖女のアレクシアは必死で辺境の地に逃げた。そこで出会ったのは逞しくてイケメンのアルファ辺境伯。「身バレしたら大変だ」と思ったアレクシアは芝居小屋で見た『悪役令息キャラ』の真似をしてみるが、どうやらそれが辺境伯の心を掴んでしまったようで、ものすごい溺愛がスタートしてしまう。けれども実は、辺境伯にはある考えがあるらしくて⋯⋯? オメガ聖女とアルファ辺境伯のキュンキュン異世界恋愛です、よろしくお願いします^_^ 本編完結しました、特別編を連載中です!
婚約破棄されて捨てられた精霊の愛し子は二度目の人生を謳歌する
135
BL
春波湯江には前世の記憶がある。といっても、日本とはまったく違う異世界の記憶。そこで湯江はその国の王子である婚約者を救世主の少女に奪われ捨てられた。
現代日本に転生した湯江は日々を謳歌して過ごしていた。しかし、ハロウィンの日、ゾンビの仮装をしていた湯江の足元に見覚えのある魔法陣が現れ、見覚えのある世界に召喚されてしまった。ゾンビの格好をした自分と、救世主の少女が隣に居て―…。
最後まで書き終わっているので、確認ができ次第更新していきます。7万字程の読み物です。
だからっ俺は平穏に過ごしたい!!
しおぱんだ。
BL
たった一人神器、黙示録を扱える少年は仲間を庇い、絶命した。
そして目を覚ましたら、少年がいた時代から遥か先の時代のエリオット・オズヴェルグに転生していた!?
黒いボサボサの頭に、丸眼鏡という容姿。
お世辞でも顔が整っているとはいえなかったが、術が解けると本来は紅い髪に金色の瞳で整っている顔たちだった。
そんなエリオットはいじめを受け、精神的な理由で絶賛休学中。
学園生活は平穏に過ごしたいが、真正面から返り討ちにすると後々面倒事に巻き込まれる可能性がある。
それならと陰ながら返り討ちしつつ、唯一いじめから庇ってくれていたデュオのフレディと共に学園生活を平穏(?)に過ごしていた。
だが、そんな最中自身のことをゲームのヒロインだという季節外れの転校生アリスティアによって、平穏な学園生活は崩れ去っていく。
生徒会や風紀委員を巻き込むのはいいが、俺だけは巻き込まないでくれ!!
この物語は、平穏にのんびりマイペースに過ごしたいエリオットが、問題に巻き込まれながら、生徒会や風紀委員の者達と交流を深めていく微BLチックなお話
※のんびりマイペースに気が向いた時に投稿していきます。
昔から誤字脱字変換ミスが多い人なので、何かありましたらお伝えいただけれ幸いです。
pixivにもゆっくり投稿しております。
病気療養中で、具合悪いことが多いので度々放置しています。
楽しみにしてくださっている方ごめんなさい💦
R15は流血表現などの保険ですので、性的表現はほぼないです。
あったとしても軽いキスくらいですので、性的表現が苦手な人でも見れる話かと思います。
目が覚めたら異世界で魔法使いだった。
いみじき
BL
ごく平凡な高校球児だったはずが、目がさめると異世界で銀髪碧眼の魔法使いになっていた。おまけに邪神を名乗る美青年ミクラエヴァに「主」と呼ばれ、恋人だったと迫られるが、何も覚えていない。果たして自分は何者なのか。
《書き下ろしつき同人誌販売中》
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる