1 / 84
紅蓮の章
1
しおりを挟む―おとぉさーん…おかぁさーん…
荒れ狂う炎に包まれた中で、子供が父と母を呼んで泣き続ける。しかし、返事はない。
当たり前だろう。この業火とも言える炎の中、生きている事自体がおかしいのだ。
子供の目の前には煤けた人体。灼熱の炎が、その肉すらも焼き払い始めている。
不意に泣き喚く子供の頭の中に、声が響いた。
それは重く響き、幼子の恐怖を煽る。それでも何処か愛しさと優しさを滲ませた声。
声は囁く。吐息のように小さく、小さく。
―我ガ…花嫁……
***
声に導かれるようにして、ハッと目が覚めた。
青年の目の前にあるのは、凶悪な炎ではなく見慣れた自室の天井。安堵に深い息を吐き、全身が汗で濡れている事に気が付いた。
(気持ち悪い…)
青年、更紗龍馬はゆっくりと身を起こし、片膝を立ててそこに額を押し付けると深く息を吐き出した。
心臓が嫌な鼓動を打つ。目を閉じれば、鮮明に甦る先程の悪夢。否、あの悪夢は彼が巻き込まれた大惨事であり、正に地獄絵図とも言える光景だった。
燃え盛る炎。人の焼ける臭い。崩れる家屋。自分は、そんな大火事のたった一人の生存者。
彼は、常々思う。
―何故、自分だけが助かった…?
―何故、自分だけが生き延びた…?
―何故、自分だけが無傷だった……?
考えても埒が明かない事は、彼自身、重々心得ているのだがそう思うのも致し方のない事だった。 周囲の同情と恐れの眼差しを受けるくらいなら、いっそ死んだ方がよかったと思う。
生き残るはずのない火災の中で、生き残った自分。友人はこの事を知ると恐れ、離れていった。親類でさえも、忌み子として遠ざける始末。
高校生が一人暮らしをするには、あまりに広すぎるマンションの一室が、親戚から龍馬に与えられた住居だ。
「世話はしないが、金はやる」
そう言ったのは、誰だったか。体のいい厄介払いと言ったところだ。
中途半端に関わるなと不愉快に思いながらも、龍馬は抗う事無く世話になっていた。何せ、自分は学生の身。稼げる金なんてたかが知れている。
バイトで食い繋ぎ、与えられる多額の小遣いはあまり使用する事無く、口座にそのまま貯め続けていた。
そして、いつもの憂鬱な朝が始まる。
学校に遅刻しない様に部屋を出て、バイクに跨る。自宅から学校までバイクでおよそ五分。
ギリギリで門を潜るのが、龍馬の日常だ。わざわざ自分を好奇の目に晒す必要もない。職員室に行き、担任に登校の旨を伝え、さっさと屋上へ向かう。
気味が悪い輩とは同じ教室に居たくないと、担任伝いにクラスメイトから苦情を言われ、「兎に角、登校すれば授業は受けなくていい」とは校長直々の申し出。
「教師がそれでいいのかよ…」
呟いた所で誰も答える訳ではなく、風に流されて青空に消えるだけ。
好きで生き残ったわけではないのに。胸を締め付けるこの痛みは、一体何から来るというのか。慣れたくなかった孤独が、今や唯一の安らぎとは何とも皮肉なことだ。
龍馬は考えても仕方が無いと息を付き、屋上で何をするでもなく、フェンスを背にぼんやりと座り込んでいた。すると、扉の向こう側から何やら軽快な音がして来た。
―タシタシタシタシタシ
階段を駆け上がって来る音だ。
(…何?)
人ではないのは確かで、その音は微かに聞こえる程度の小ささだ。何の足音かと考えていると、扉がガチャッと音を立てて開いた。
「………ドー…ベル、マン?」
隙間から体を捻じ込んで姿を現したのは、黒く艶めく毛並みの持ち主。凛々しい顔つきのドーベルマンだった。因みに雄である。
あまりに唐突な登場だった為、どうやって扉を開けたのかなど思考の外。犬は迷う事無く、龍馬に近付いて来た。
「えー…俺…咬まれるのは勘弁…」
龍馬が僅かに青くなりながら立ち上がれば、犬の声がクゥッと上がった。次の瞬間。
《誰が咬むか、馬鹿者が》
聞き慣れない男の声に、龍馬の動きが止まる。
(しゃ、しゃべ?)
フリーズする龍馬。その間に龍馬の足元まで来た犬は、鼻を鳴らして龍馬のにおいを嗅ぎ始めた。
「な、なに?」
《ふむ…微かに『真血』の甘い匂い…》
「しん、けつ…?」
微かに震える声で問えば、犬はひとつ頷いて見せた。
《真の血筋と言うことだ。汝、名は?》
「さ、更紗龍馬」
《では、リョーマ。我が名はアグニ。時が来れば我が名を呼べ》
不遜な態度の犬はそれだけを言い残し、唖然としている龍馬を置いて軽く駆け始め、龍馬が止める間も無く、屋上の高いフェンスを軽々と飛び越えた。
「ぉ、おい!」
飛び降りれば確実に助からない高さだ。慌てて下方を覗き込むが、そこには無人のグラウンド。犬の影はカケラもない。
「…何だったんだ…今の…」
龍馬の呟きは、虚しく風に流された。
それから早二週間。犬と会話をした屋上での出来事が嘘のように、日常は何ら変わりなく過ぎていた。
買い物帰りにいつも通る少し大きな公園。公園の中央には小さな噴水があり、そこを覗き込めば沢山の蓮の花が浮かんでいる。
「あ?」
噴水の横を通り過ぎようと歩いていると、不意に何か違和感を感じ取り、首を傾げながら噴水を覗き込んで見る。そこにあった違和感。
「赤?」
他の薄紫の蓮と色の違う、小さな蕾があった。その蕾は、炎のように赤い。
不思議に思いつつも「ま、いっか…」の一言で済ませ、再び自宅に向かって歩き出した。
―ジャッジャッ
軽快に鍋を振る音が部屋に響く。今夜の龍馬夕食、炒飯だ。
「ぅし…っと」
お玉を駆使してキレイに皿に盛り付けた、その時。
《ふむ、美味そうな匂いだな》
「……ぁ?」
自分しか居ない筈の室内から聞こえた声。
カウンターからリビングを覗き込んでみれば、何時ぞやの「喋る犬」がソファーに伏せっていた。
突然の事に硬直してしまうが、すぐに現実に戻って来ると躊躇う事無く近くにあった玉葱を掴み、犬に向かって勢い良く投げ付ける。犬ことアグニは、慌ててその場から逃げて間一髪で避けた。
《怪我をしたらどうする!》
「知るか。不法侵入の犬が」
叫ぶアグニに対し龍馬が軽く鼻で笑えば、アグニは地を這うのではないかと思えるほど深い溜息を 吐き出した。
《不法侵入とは失敬な…》
「いや、事実だろ…で?今度は何の用だよ」
睨んだところで、アグニは何処吹く風。ゆったりとした動作で体を起こした。
深紅の瞳が龍馬の目を見据えた。
《…全ては『赤き蓮』より始まる》
ぼそりと呟いた次の瞬間には、アグニの姿は空気に溶けるように消え去った。
《再び見えよう…焔に守られし者よ…―》
その言葉だけ残して。
「訳…わかんねー…」
溜息と共に吐き出された言葉は、掠れていて自分自身すら聞き取りにくいものだった。
―焔に守られし者…
耳に残る言葉に寒気がした。
それからというもの、龍馬の機嫌は底辺を突き抜けていた。学校に行き、登校を伝えてそのまま下校。端的に言えばサボリである。
最近は、散々な目に会っていた。料理をしていれば突如火力が大きくなったり、近所の年寄りが火を焚いていれば、その火が跳ねて襲って来たり。
兎に角、自分の不幸には〝火〟が関わっている。
同時に、しばらく見る事のなかった〝あの日の悪夢〟を毎晩見るようになった。毎夜毎夜、激しく魘されては跳ね起きて、汗だくの体を拭くという繰り返し。
そして、目覚める瞬間にいつも聞く声。
「我が…花嫁…―?」
低い、耳に残る心地よいとも言える声。本当に愛しそうに紡がれるその言葉に、何故か逸る心臓。
「あぁー、クソ…頭イテー…」
考えても、考えても。答えに行き着くはずの無い考えは、深く根強く龍馬の心を苛んで行く。
一時間もせずに帰宅した龍馬は、ソファーに仰向けに転がってボンヤリと天井を見上げていたのだが、うとうとと睡魔に襲われ始め、いつの間にか寝息を立てていた。
***
気が付けばそこは、深い赤を更に黒で塗り潰した漆黒の闇の中。異常な状況に、夢だと直ぐに理解した。深淵の闇は、ただ静かに其処に在る。
不意にひとつの明りが灯った。蓮の花の形をした深紅の焔。
「…火………?」
龍馬は息を呑んだ。
通常の火ならば、問題はない。しかし目の前に姿を見せた火は、彼の心を揺さ振るのに充分だった。
灯った火の色が、あの灼熱の地獄を連想させる。泣いても、叫んでも、喚いても。助けは来ず。目の前で、大好きな両親の命を奪い取ったあの業火の色。
嫌な汗が滲みだし、呼吸が荒くなる。心臓が激しく暴れ、血がざわめく。
しかし、嫌悪にではない。寧ろ、〝歓喜〟にと言った方が相応しいだろう。
頭では拒むのに、体は求めるように手を伸ばしていた。
―……‥見付ケタ…愛シイ人…
あの声が闇に響いた時、龍馬の意識は闇に溶けた。
***
龍馬は目を見開いたまま、茫然自失の状態で見慣れた天井を見上げていた。瞼に焼き付いている焔の色が、脳裏に浮かんでは消えを繰り返して龍馬を苦しめる。
―パサ…
床に何か軽いものが落下し、のろのろとした動作で音がした方に視線を移せば。
「さっきの…花…?」
深紅に染まった蓮が一輪。綺麗な形のまま、床に伏していた。
龍馬は花の紅い色に何も考えられなくなり、無意識の内に花に手を伸ばした。
《―時は来た…》
男の声が頭の中に響いたと思った次の瞬間、目の前が真っ暗になった。
窓を開けていない部屋に風が駆け抜ける。風が止む頃、そこに龍馬の姿はなかった。
―全ては〝赤き蓮〟より始まる―
***
重力は全く感じない。浮遊感に身を任せる。
重い瞼を無理矢理開き、ゆっくりと瞬きをして辺りを見渡しても、何も存在しない。
在るのは闇、闇、闇。
―タシタシタシ…
何時だったか、屋上で聞いた事のある軽快な足音。音がする方に顔を向ければ、ドーベルマンがこっちに向かって歩いている姿が見えた。
《生きているか?》
「…なに、ここ…」
アグニの問いに対し、龍馬は更に質問をかぶせた。声が酷く掠れていた。喉が張り付いたかのように痛みを訴え、ケホッと軽く噎せる。
《簡潔に言えば、お前の『故郷』か》
「は…?」
アグニの答えに眉を寄せれば、不意にアグニのピンと立った耳が小さな反応を見せた。
《しばらく、私は姿が現せん。だが『奴』は信用出来る》
「やつ…?」
聞き返しても、返事はなかった。アグニの姿は既に消えていた。言い逃げかよ、と内心でツッコミつつ意識を飛ばした。
1
お気に入りに追加
173
あなたにおすすめの小説
法律では裁けない問題を解決します──vol.1 神様と目が合いません
ろくろくろく
BL
連れて来られたのはやくざの事務所。そこで「腎臓か角膜、どちらかを選べ」と迫られた俺。
VOL、1は人が人を好きになって行く過程です。
ハイテンポなコメディ
すべてはあなたを守るため
高菜あやめ
BL
【天然超絶美形な王太子×妾のフリした護衛】 Y国の次期国王セレスタン王太子殿下の妾になるため、はるばるX国からやってきたロキ。だが妾とは表向きの姿で、その正体はY国政府の依頼で派遣された『雇われ』護衛だ。戴冠式を一か月後に控え、殿下をあらゆる刺客から守りぬかなくてはならない。しかしこの任務、殿下に素性を知られないことが条件で、そのため武器も取り上げられ、丸腰で護衛をするとか無茶な注文をされる。ロキははたして殿下を守りぬけるのか……愛情深い王太子殿下とポンコツ護衛のほのぼの切ないラブコメディです
悩める文官のひとりごと
きりか
BL
幼い頃から憧れていた騎士団に入りたくても、小柄でひ弱なリュカ・アルマンは、学校を卒業と同時に、文官として騎士団に入団する。方向音痴なリュカは、マルーン副団長の部屋と間違え、イザーク団長の部屋に入り込む。
そこでは、惚れ薬を口にした団長がいて…。
エチシーンが書けなくて、朝チュンとなりました。
ムーンライト様にも掲載しております。
【完結】嘘はBLの始まり
紫紺
BL
現在売り出し中の若手俳優、三條伊織。
突然のオファーは、話題のBL小説『最初で最後のボーイズラブ』の主演!しかもW主演の相手役は彼がずっと憧れていたイケメン俳優の越前享祐だった!
衝撃のBLドラマと現実が同時進行!
俳優同士、秘密のBLストーリーが始まった♡
※番外編を追加しました!(1/3)
4話追加しますのでよろしくお願いします。
幽閉王子は最強皇子に包まれる
皇洵璃音
BL
魔法使いであるせいで幼少期に幽閉された第三王子のアレクセイ。それから年数が経過し、ある日祖国は滅ぼされてしまう。毛布に包まっていたら、敵の帝国第二皇子のレイナードにより連行されてしまう。処刑場にて皇帝から二つの選択肢を提示されたのだが、二つ目の内容は「レイナードの花嫁になること」だった。初めて人から求められたこともあり、花嫁になることを承諾する。素直で元気いっぱいなド直球第二皇子×愛されることに慣れていない治癒魔法使いの第三王子の恋愛物語。
表紙担当者:白す(しらす)様に描いて頂きました。
光る穴に落ちたら、そこは異世界でした。
みぃ
BL
自宅マンションへ帰る途中の道に淡い光を見つけ、なに? と確かめるために近づいてみると気付けば落ちていて、ぽん、と異世界に放り出された大学生が、年下の騎士に拾われる話。
生活脳力のある主人公が、生活能力のない年下騎士の抜けてるとこや、美しく格好いいのにかわいいってなんだ!? とギャップにもだえながら、ゆるく仲良く暮らしていきます。
何もかも、ふわふわゆるゆる。ですが、描写はなくても主人公は受け、騎士は攻めです。
【完結】運命さんこんにちは、さようなら
ハリネズミ
BL
Ωである神楽 咲(かぐら さき)は『運命』と出会ったが、知らない間に番になっていたのは別の人物、影山 燐(かげやま りん)だった。
とある誤解から思うように優しくできない燐と、番=家族だと考え、家族が欲しかったことから簡単に受け入れてしまったマイペースな咲とのちぐはぐでピュアなラブストーリー。
==========
完結しました。ありがとうございました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる