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第12章

愛しき孤独

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 月日は流れ、悠太郎ゆうたろう紘也ひろやたちは三年生となり、卒業式を迎えていた。

 あれからボランティア部は人気の部となり、十人に満たなかった部員も三十人以上となった。今では愛児院での活動だけでなく、地域のさまざまな奉仕ほうし活動にも貢献こうけんしている。

 三年生が前年の夏に引退する際、部員たちは全会一致で樹季いつきを部長に選んだ。樹季がおどしにくっせず退部しなかったことや、足の怪我けがを押して劇をやりげたことが、他の部員たちの信頼を集めていたのだ。

 コンサートホールでの卒業式が終わり、学生や保護者があらかた帰ってしまった夕刻に、悠太郎は樹季を野外音楽堂の近くの東屋あずまやに呼び出した。

 早咲きの桜が、わずかだが東屋の近くでちらほらと咲いていた。そう言えば、樹季と始めて出会ったのもこの東屋の近くだった……。悠太郎は東屋の階段の上に座り、樹季を待ちながら思い出す。あの時も、黄昏たそがれの迫る風景を、夕陽が淡いオレンジ色に染めながら優しく包んでいた。駆け寄ってくる足音に気付き、悠太郎が顔を上げると、樹季が息を切らしながら悠太郎のそばに近付いて来た。

小野寺おのでら先輩、すみません! 遅くなって……。待たれましたか?」

「俺が急に呼び出したんだ。こっちこそ悪かったよ。まあ座れ」

 樹季は階段の上に、悠太郎と並んで腰を下ろした。

熱々あつあつじゃなくなったけど……飲むか? お前、猫舌だからちょうどいいだろう?」

 冷めないようにふところに入れておいた缶を二つ取り出すと、悠太郎はカフェオレを樹季に渡し、自分はブラックコーヒーの缶を開けた。

「はい! 温まります! ありがとう、小野寺先輩。いただきます……」

 三月の後半とはいえ、夕刻にはまだ肌寒かった。樹季はカフェオレを悠太郎から受け取ると、しばらく両手を温めるように添えてから、缶を開け美味しそうにこくりと一口飲んだ。

 樹季は苦いブラックコーヒーは苦手で、いつもミルクと砂糖を多めに入れていた。悠太郎は、樹季のそんな些細ささいな好みや、小さなくせまで覚えてしまっていた。それほどたくさんの時間を共有してきたと思うと、過ぎ去ってしまったかけがえのない時が愛おしくて、悠太郎は胸が熱くなる。そんな気持ちを振り払うように、明るい口調で樹季に言った。

「お前、だいぶ背が伸びたんじゃないか? 一年のときは、やしみたいだったけど……少しはたくましくなったな」 

 悠太郎にからかうように言われ、樹季は顔を赤くした。

「俺だって、来月から三年ですよ。いつまでも萌やしじゃいられません。部長なんて分不相応ぶんふそうおうな大役、皆が任せてくれて……ただでさえ、プレッシャーなんです」

「お前なら大丈夫だよ。お前の度胸と頑固さは、半端じゃないからな。皆だってそれは解ってる。大きく構えてればいいさ」

「ありがとうございます……。先輩」

 そう言うと、樹季は瞳をうるませて、うつむいてしまった。悠太郎から顔を背け、素早く制服の袖で顔を抑える。

「おい、今、たくましくなったってめたところだろ? 何を泣いてるんだ?」

 悠太郎が慌てて言うと、樹季は少し赤くなった瞳を悠太郎に向けて抗議した。

「泣いてなんかいません。目に虫が……虫が飛びこんで来たんです」

「そう言えば、始めてここで会ったとき……お守りを無くして、全く同じシチュエーションでべそいてただろ。やっぱり進歩してないなぁ、新道」

 悠太郎が思わず笑い出すと、樹季は少し怒ったように言った。

「酷いですよ、先輩。からかうのもいい加減にしてください」

「解ったよ、そう怒るな」

 樹季は、またうつむいてしまうと、小さな声で切り出した。

「俺……先輩に会わなかったら、きっとこんなに友達も出来なかったし、ずっとつまらない毎日を送ってたと思うんです……。小野寺先輩がいなくなったら、どうなるんだろうって……急に不安になって」

「情けないこと言うなよ。お前、部長だろ? しっかりしろ」

「はい……でも……」

「別にアメリカに帰る訳じゃない。東京の大学に進学するんだし、愛児院での活動にはたまにOBとして参加するよ。またいつでも会えるだろ?」 

 樹季は姿勢を正すと顔を上げ、悠太郎に微笑んで見せた。

「そうですね。俺……しっかりしなきゃ。恥ずかしい所見せちゃって、すみません」

 悠太郎は樹季に微笑み返した。

「いや……謝らなくていい。むしろ、嬉しいよ。知り合ったばかりのころ、お前は自分からはめったにSOSを出してくれなかった。そうしてくれたのは、俺が強引に助けさせろって詰め寄ったときだけだったろ……? まるで一人でからに閉じこもって、嵐でもやり過ごしてるみたいだった」

 樹季は意外なことを言われたのか、驚いて悠太郎の顔を見つめた。

「そうですか? 俺、全然……そんなつもりはありませんでした」

「自分のからの中に逃げるのは止めろ。お前にとっては人に頼ることの方が怖いのかもしれないけど……いつかは耐え切れなくなる。それだけが心配でさ。最後にこうして呼び出したんだ」

 悠太郎にそうさとされ、樹季は息を呑み、大きく瞳を見開いた。こぼれ落ちそうになっている涙を懸命にこらえ、悠太郎の瞳をまっすぐに見つめると、小さな声でつぶやいた。

「俺……確かに、ずっとからに閉じこもってました。そんな俺を変えてくれたの……やっぱり先輩のおかげです。部の活動をしてみて、人に頼ってもらうことがすごく嬉しいって実感したし……。俺も、困った時には勇気を出して頼っていいんだって思えるようになったんです。何てお礼を言ったらいいのか……」

 悠太郎は思っていた。自分の方こそ、樹季に手を差し伸べることで、ジョシュアに対する罪の意識からどれほど救われていたか分からない。そこには純粋な優しさなどなく、樹季をただ利用していただけかもしれない……。そんな後ろめたさから、樹季のまっすぐな眼差まなざしを正面から受けることが辛くなった。

「それで……お前にとっての嵐は、もう通り過ぎたのか……?」 

 悠太郎は動揺を隠すように、樹季から少し視線をらして尋ねた。樹季はしばらく戸惑っていたが、やがて覚悟を決めたように、話し始めた。

「いいえ、まだです……。小野寺先輩。ここで一緒に探してもらった一セント硬貨のこと……さっき覚えてくれてましたよね。俺、それをくれたやつのことが……本気で好きで、たまらないんです」

「そうか……。それであんなに大切そうにしてたんだな。その女の子には、ちゃんと好きだって言ったのか?」

「そいつは、俺の気持ちを知りません……。それに、これからも告白なんて…きっと出来ないと思う」

 沈んだ顔をする樹季が心配になり、悠太郎は励ますつもりで言った。

「何を言ってるんだ? 自信持てよ! そうだ、あのお守り……もう一度よく見せてくれないか?」

 樹季はスラックスのポケットから財布を取り出すと、銀のキーホルダーに着けられた一セント硬貨を大切そうに取り出し、悠太郎に渡した。悠太郎はそれを手に取り、よく眺めた。

「このキーホルダー、純銀製だろ? いい加工がしてある」

「その子がくれたのは一セント硬貨だけなんですけど、俺があとでキーホルダーにしたんです。そいつ、自分の祖父の形見を、俺が館山を出るときお守りだって言って譲ってくれたんです。そいつにとっても、すごく大事なものだったはずなのに……」

「じゃあ、その女の子とは両想いじゃないか? 何をそんなにためらってるんだ?」

 悠太郎がじれったそうに訊くと、樹季はわずかに唇を動かそうとしたが、出かけた言葉を呑み込んだ。そして、悠太郎から視線をらすと、小さな声で答えた。

「そ……そいつ……前に話した、親友の彼女なんです。二人ともすごくお似合いだし、今でも付き合ってるらしいし……。でも俺……その子のことがどうしても好きでたまらなくて……そのこともあって、館山たてやまを出たんです。嵐なんて大げさなものじゃないんですけど、親友も、その子のことも大好きだから……。もっと強くなって、その子を忘れられたら、胸を張って館山に戻れると思って……」

「で……? まだ、その子が忘れられないんだな」

「はい……」

 悠太郎は、樹季らしい一途いちずな答えに、胸を打たれた。樹季の背中をぽんと叩くと、後ろに両腕を付き、空をあおぎ見ながら言った。

「じゃあ、大学は共学にするんだぜ。お似合いの彼女でも作って、故郷ふるさと凱旋がいせんしてやれよ。そうだお前、もう進路は決めたのか?」

「いえ……。本当は、福祉系の学校に行って、児童心理学やソーシャルワーカーの資格を取るための勉強をしたいんですが……。父親が、小さいながら会社の代表なんです。俺に後を継いで欲しいと言っていて……。俺に経営の勉強をさせたいから、大学は経済学部を受験させたいみたいなんです。母さんもそれを望んでるし……だから、福祉に進みたいとは、なかなか言い出せないんです。母さんの期待にも応えたいし、母さんがせっかくつかんだ幸せをつぶしたくないから……」 

 樹季はまた、元気なくうつむいてしまった。悠太郎は、樹季の父は血のつながらない義理の父だと、樹季から聞いて知っていた。今は何も力になってやれないことを痛感しながら、せめてもの励ましのつもりで言った。

「家の事情があって、無理を言えないのは解るよ……。でも、その気持ちが将来も変わらなかったら、社会人になってからでも勉強する方法はある。実際、働きながら夜間の専門学校で勉強して、資格を取っている人はたくさんいるらしい。だからお前もあきらめるな。経済学部に行くことになっても、いずれそれが福祉の仕事に役立つかもしれないじゃないか」

「そうなんですか? 俺、そんなことも知らなくて……。自分でも、よく調べて見ますね! あ、それと……しょうがまた、お父さんと暮らせることになったそうなんです! この間、あいつが嬉しそうに教えてくれて……」

 樹季は悠太郎に励まされ、少し元気が出たようだった。二人はそれから、東屋の階段の上に腰掛けたまま、学園での様々な出来事について思い出し、話しては、笑い合った。

 淡いパステルブルーの上に、くれない色に輝く雲が彼方まで広がる美しい夕焼の空を、紫色の闇のヴェールが覆い始めた。ようやく二人は思い出の場所から立ち上がり、家路につくことにする。樹季は学院の正門の前まで悠太郎を送って来た。悠太郎の姿が見えなくなるまでずっと手を振る樹季に、悠太郎は幾度も振り返って、手を振り返した。




 悠太郎は学院から遠ざかりながら、自らに問いかけていた。樹季に出会ったころは、確かにジョシュアの面影を彼に見ていた。でも今は、違うのではないだろうか。

 樹季の小さな悩みや喜び、ささやかな願いを知り、その全てを抱きしめてやりたいほど愛しいと思う。次第に強く、るがなくなっていくそんな想いに戸惑い、最後に実際に会って、樹季への気持ちを確かめるつもりだったのだ。

 ふと立ち止まり、小さく溜息をつきながら、悠太郎は淡い星影の現れ始めた空をあおぎ見て思った。もう考えるのはよそう……。仮に樹季のことを本当に好きだと確信しても、だからどうなるというのだ。紘也が以前言ってくれたように、ジョシュアがそれを許してくれたとしても、樹季に想いを打ち明けるなど不可能だ。

 母子家庭で苦労してきた樹季は、母親の再婚で進学も出来るようになった。なのに希望の進路に進めなくて悩んでいる。その上、本気で好きな女の子がいて、それが親友の恋人だから罪悪感を持っている……。それも原因で地元を離れたと打ち明けてくれた。そんな彼に、信頼していた先輩が実は同性愛者で、彼に好意を持っているなどと告げても混乱させるだけだし、悩みの種を増やすだけだと自らをさとした。

 もし樹季が同性を受け入れてくれるなら、この気持ちの歯止めは効かなくなるだろう……。だが樹季にその可能性はないと解り、悠太郎はどこか安堵あんどしていた。悠太郎は、自分が同性しか好きになれないことを痛いほど自覚している。だが同性のパートナーを守れる自信もないし、相手を不幸にしてしまうのが何より怖かった。

 今まで通り、樹季のこれからが上手くいくように願うことしか、自分には出来ない。家庭に恵まれなかった樹季には、愛する女性を見つけて幸せな家庭を築いて欲しい。そう強く願った。

 自分にとって本当に愛しい相手は、ジョシュアだけだ。その気持ちは変わるはずはないし、彼に対して犯した罪は、一生をかけてつぐなっていかなければならない……。いっときの気の迷いだとしても、他の誰かを真剣に好きになることなど、自分には許されるはずもないのだ。

 ジョシュアを失って絶望し、抜け殻のようになっていた自分を救うために、ジョシュアが引き合わせてくれた天使。それが樹季だと思おう……。樹季と共に過ごした日々の輝くような思い出は、自らの心の中でだけ、大切に守っていけばいい。

 何があろうと、樹季の影になって見守り、その幸せを乱すようなことはしてはならない……。そう心に誓うと、懐かしい学園生活を送った街から出ていくため、悠太郎は顔を上げて、確かな足取りで歩き始めた。
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