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第8章

迷路を照らす月

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 樹季いつきは、病院のベッドの上で目を覚ました。
  
 救急搬送はんそうされた患者が集められる大きな部屋らしく、周囲は少しざわついている。樹季の寝ている狭いベッドのまわりは、白いカーテンでぐるりと囲われているだけだ。カーテンの向こうから、医師らしき人物と会話している悠太郎ゆうたろうの声が聞こえる。 

 樹季は体を起こそうとして、足首と腹部に激しい痛みを感じ、思わずうめき声を上げた。

「あいたた……!」

 その声に気付いたのか、悠太郎がカーテンをさっと引いて中に入って来た。

「まだ寝てろ! 動くんじゃない」

 小さな声でそう言いながら、悠太郎は樹季に手を貸し、再び横になるのを手伝ってやった。

「そうだ……! しょう……! 翔にケガはありませんでしたか?」

 樹季は真っ青になり、思わず叫んだ。悠太郎は樹季を安心させるように肩に手を置いた。

「翔にケガはないよ。泣いてたけど、紘也ひろやがついて落ち着かせてたから大丈夫だ」

 ベッドのそばに置いてある丸椅子に腰を下ろすと、悠太郎は樹季の顔を真剣にのぞき込んで言った。

「お前こそ大丈夫か? 今、先生と話してきたけど……。左足首の靭帯じんたいが損傷しているらしい。腹は打撲と内出血じゃないかって。応急処置はしたけど、念のため、レントゲン受けてから帰れって言ってくれてる。俺はここの外の廊下で待ってるから、早くやってもらってこい」

「はい……。解りました」

 悠太郎は看護師を呼び、樹季は可動式のベッドに寝たままレントゲン室に連れて行かれた。痛々しくれ上がってはいるが幸い足首の骨に異常はなく、腹部の内出血も軽いものだということが解った。悠太郎はタクシーを呼び、病院の出口まで車椅子を借りて、まだ一人では歩けない樹季を乗せて行った。

「あの……すみません。小野寺おのでら先輩。付き添ってもらっちゃって」

 寮に向かうタクシーの中、樹季は悠太郎に謝った。悠太郎は、半ばあきれたような、怒ったような口調で言った。

「気を遣ってる場合か? お前、暴漢に襲われたんだぞ! シスターが警察に被害届を出してくれてるはずだ。犯人の顔とか、特徴とか……覚えてないか?」

「黒いマントで全身を覆ってて……フードを被った顔にはガイコツの白いお面を被ってました。だから最初は、先輩の誰かがパーティの扮装のまま、出てきたのかと思ったんです」

「翔の悲鳴を聞いて俺たちが駆けつけたときは、もうお前たちの他に誰もいなかった。逃げ足の速い犯人だ」

「原付バイクに乗ってました。最初は愛児院の門の近くに止まってたんだけど、俺に気が付くと、いきなり襲ってきたんです。手には長い棒を持ってて…多分鉄パイプかな……? それで殴って来ました」

「体型とか……身長はどうだ?」

「バイクに乗ってたからはっきりしないんですが、小野寺先輩ほどじゃないけど背が高くて、がっしりしてる印象でした」

「通り魔じゃなくて、もし待ち伏せていたんだとしたら……。お前の行動予定を調べて知っている人間ってことになるな。心当たりはないのか? お前が、そう人に恨みを買うとは思えないけど……」

 そのとき樹季の脳裏のうりに、意地悪く笑う江口が浮かび、樹季は表情を強張らせた。その変化に悠太郎も気付いたのか、顔色を変えて訊いてきた。

「心当たりがあるんだな? 話せ!」

 樹季は答えられなかった。江口が関わっているという証拠は何一つないし、何より、悠太郎を危険に巻き込みたくない。何とか自分一人で、手がかりをつかんでみようという思いがあった。

「いえ……心当たりとか、本当にないんです」

「嘘をつけ……!」

 そのとき、タクシーが学院の正門前に着いた。一般車両は、ここから先に入れない。二人はタクシーを降りた。松葉杖は借りてきたが、初めてでうまく使えない樹季は、捻挫ねんざした足の痛みに思わず顔をしかめる。それに気付いた悠太郎は樹季の前に回り、しゃがみ込んだ。

「ほら、寮まで負ぶっていってやる。はやく乗れ」

「えっ……そんなの、申し訳ないです、先輩! 俺、何とか松葉杖で歩いていけますから……」

「さっさとしろよ。それとも、お姫さま抱っこで連れて帰られたいか?」

 樹季は少しほおを赤くしながら、悠太郎の背中から首に腕をまわして負ぶさった。時刻はとっくに門限を過ぎ、日付が変わるころになっている。寮へ向かう近道の木立のはるか上には、銀色の丸い月が光り輝いていた。それは二人の歩く先を優しく照らしながら、周りの景色を淡いブルーに染めていた。

「門限、過ぎちゃいましたね……。すみません」

 樹季は、悠太郎の背中の温もりを感じながら、ずっと黙っているのが気詰まりで話しかけた。

渡辺わたなべが連絡しといてくれたから、大丈夫だ。そんなことより……新道しんどう、救急車の中で見たんだけど……。お前、脇腹に傷痕がたくさんあるだろう? もし嫌でなければ、理由を教えてくれないか……?」

 遠慮がちに訊いてくる悠太郎に、樹季は少しだけためらってから答えた。

「翔と同じくらいの歳のころ、父さんが酔って家で暴れて……酒瓶さかびんを割ったんです。俺がその破片の上に転んじゃって……。その事故がきっかけで、母さんは俺を連れて家出して、東京から館山に移ったんです」

 悠太郎はしばらく何も答えなかったが、樹季の体を揺すり上げ、しっかりと抱え直すと、謝った。

「辛いこと、思い出させてしまったな。すまなかった……。でもお前、親父さんと再会して嬉しかったって言ってたろ? やっと会えたのに、すぐ亡くなってしまって悲しかったとも言ってた……。そんなケガを負わされたのに、嫌いにならなかったのはなぜだ……?」

「お酒におぼれる前の父さんは、ほんとに優しかったんです。仕事さえ上手くいくようになれば、きっと元に戻ってくれると信じてました……。もし、またいつか一緒に暮らせたら、俺が力になるって決めていたんです」

「お前も、底抜けに優しいな。例え傷つけられても、身近な人をとことん信じようとする……。だけど俺は……お前のそんなところが……心配でたまらないんだ」

 樹季は、悠太郎の声が調子がだんだん沈み、悲しげな色を帯びてきたのに気が付く。悠太郎は小さく息を吐くと、樹季に静かに話し始めた。

「俺な……去年、アメリカで、大切な友人を亡くしたんだ。そいつ……ほんとは酷い目にあってたくせに、俺には何一つ、助けを求めてくれなかったんだ。結局、逮捕された俺の疑いを晴らすために、そいつは命がけで逃げ出して、事故で死んでしまったんだけど……」

 樹季はただ、衝撃を受けていた。悠太郎の思いもよらない過去だった。何とか慰めようと思うが、言葉が見つからない。

「そいつを助けられなかったことが、今でも悔しいし、苦しいよ……。もし、お前までいなくなったらと思うと……怖くて……たまらないんだ。だから……頼むよ。頼む。心当たりがあるなら、話してくれ……」

 悠太郎の声はかすれ、わずかに震えている。樹季は思わず瞳を閉じて、悠太郎を後ろからぎゅっと抱き締めた。

「泣かないでください……! 俺、話します。話しますから……」

 悠太郎は樹季に強くしがみつかれたまま、しばらく無言で歩き続けた。それから少しだけ後ろを振り向くと、優しく言った。

「バカ、首しめるなよ……。息出来ないから……。誰が泣いてるって? お前じゃあるまいし……」

 悠太郎の声に少し明るさが戻ったことに安心した樹季は、勇気を出して江口のことを相談してみた。悠太郎は、江口がかつて樹季に乱暴していたのを知っている。一年が次々辞めていったのも、江口の脅迫のせいだと聞き、悠太郎は驚いていた。

「でも妙だな……? 偽善ぎぜんが嫌いだとかぬかしてるなら、部全体に妨害行為があってもいいはずだけど……。俺たち二年は何の嫌がらせも受けた記憶ないぜ。なぜ、一年ばかり標的にする?」

「解りません……。ただ、部に新しく入ろうとする生徒は全員、脅してやるみたいな口ぶりでした」

 寮に着いた二人は、管理人が開けておいてくれた裏口から中に入った。悠太郎は樹季の部屋の前まで彼を送り、別れ際に少し戸惑ってから、樹季に告げた。

「俺も調べてみる。紘也にも相談してみるよ。お前は一人にならないよう、気をつけるんだ。解ったな?」

「ありがとうございます。お休みなさい……。小野寺先輩」

 樹季は、悠太郎を巻き込んでしまったことを今さらながら後悔していた。悠太郎が話してくれた過去が、彼を未だ苦しめていることに心が痛み、自分が相談することで、悠太郎の気持ちが少しでも楽になるならと思ってしまったのだ。

 相部屋の園田そのだは暗い部屋でぐっすり眠っている。悠太郎が親身に相談に乗ってくれたことは、樹季にとって嬉しかった。自分は園田の助けにはなれなかったが、園田も、結果はどうあれ本当は嬉しく思ってくれたと信じよう……。樹季はベッドに潜り込み、瞳を閉じた。




 
 翌日の早朝、まだ寮の生徒たちも起床する前の薄暗い時刻、悠太郎は野外音楽堂のそばにある東屋あずまやに、紘也を電話で呼び出した。

 紘也は時間通りに姿を現し、先に来て東屋のベンチに座って待っていた悠太郎の前に立った。悠太郎はすっと立ち上がると、紘也に向かって深く頭を下げて言った。

「ごめん……紘也! どうしても、力を貸して欲しいことがあるんだ。俺が、お前にこんなこと……とても頼めた義理じゃないことは解ってる……! だけど……頼む! 一度だけ、協力してくれないか」

 紘也は、小さく溜息をついてから言った。

「顔、上げろよ。昨日の今日だ……。俺だって新道が心配だし、調べてみようって思ってたんだ。そのことだろ?」

 悠太郎は驚いて顔を上げ、紘也を見つめた。紘也は、今度は憤慨ふんがいするように言った。

「後輩にあんな真似されて、俺だって黙ってられないさ。しかも、翔みたいな子供の目の前で襲うなんて……。絶対許せない。ただの通り魔で、外部の人間の犯行なら警察にしか任せられないけど……。もし犯人がこの学校の人間なら、学校内の情報に詳しい俺たちの方が、早く犯人に辿たどり着ける」

「実は、新道に心当たりがあるそうなんだ。一年に江口ってのがいるんだけど、そいつがボランティア部に入る新人を脅して、辞めさせていたようなんだ」

「何だって? それで、一年が皆すぐ退部したのか。江口か……。聞いたことないな」

 悠太郎はさらに、江口が樹季のルームメイトを彼から引き離そうとしたこと、事件の数日前に人気ひとけのない公園で樹季を脅迫したことも話した。それから、樹季に体当たりして転ばせた少年が、寮のラウンジで悠太郎と樹季の会話を録音していたかもしれないことも、付け加えた。紘也は黙って聞いていたが、悠太郎が話し終えると、目を伏せて、少し寂しそうに笑って言った。

「何か……。変な感じだな。離婚した夫婦が、子供のために協力する間、復縁するみたいだ……。悠、聞いているかもしれないけど、俺……学園祭が無事済んだら、ボランティア部を辞めるつもりなんだ。その気持ちは変わらない……。新道の事件が解決するまでは協力するけど、お前のそばにいたら、やっぱり辛いんだ。それは解ってくれ」

「紘也……」

 悠太郎が言葉を失うと、紘也はいたずらっぽく微笑んで言った。

「お前と違って、俺は人気者の先輩って立場を楽しんでいたからね。一年にけっこうな数のファンがいるんだぜ。中には、ボランティア部に入って来たけど辞めてしまった子たちもいる。その時は、理由を聞いても教えてくれなかったけど……。彼らの情報網にも期待できるよ。俺のために、動いてくれる子もいると思う。今日の放課後から早速当たってみる。悠は、とりあえず新道の身辺しんぺんに気をつけて、なるべくそばにいてやってくれ。また何か、起こらないとも限らない」

「解った……。ありがとう、紘也」

 二人は東屋を出て、悠太郎は寮へ、紘也は校舎へと向かって歩いて行く。いつの間にか、空は白み始めていた。





 その日の放課後、ボランティア部の部員たちは、視聴覚室で学園祭の劇の練習を始めようとしていた。悠太郎に付き添われ、松葉杖をつきながら現れた樹季に驚いて、部員たちは彼に駆け寄ってきた。

「おい、新道! もう出てきて大丈夫なのか? 無理するんじゃないぞ!」

 部長の渡辺が心配そうに言った。樹季は、先輩の部員たちを安心させようと、なるべく気丈に答えた。

「昨日は、ご心配おかけして、本当にすみませんでした! 足は捻挫ねんざしただけで、来週の日曜の本番までには、何とか歩けるようになると思うんです……。だから、天使の役、予定通り俺にやらせてもらえませんか……?」

「気持ちは嬉しいけど、部長としてはきみに無理をさせられないよ。小野寺が、代役を演ってもいいって言ってるんだ。なぁ小野寺、頼めるだろ?」

 悠太郎は樹季を椅子に座らせてやってから、さとすように言った。

「新道、残念だけど、今回は俺と代わった方がいい。もし無理して、もっと足を傷めたらどうするんだ? 子供たちのためのイベントは他にもあるし、たかが劇なんだから……。な?」

「たかが劇だなんて……俺、思ってないです! 先輩たちがどれほど、苦労して準備してきたかも知ってるし……! それに俺、この劇で、どうしても天使を演らなきゃならない理由わけがあるんです! 自分勝手なお願いだということは、よく解ってるんです……。でも、先輩方の足手まといにならないよう、頑張りますので……! なるべく、ご迷惑かけないようにします! どうか、お願いします……!」

 この劇で、トビトの目を治す奇跡を、天使として演じきる。それを神様に見てもらい、翔の父親の病気を治してもらうよう、懸命に願う……。樹季は、そう翔に約束していたのだ。樹季は神仏しんぶつを信じている訳ではないが、ただ翔のために、自分が出来ることをしてやりたい一心だった。

 樹季の必死な訴えに、悠太郎も渡辺もとうとう折れ、練習の間は松葉杖を必ず使うこと、具合が悪くなったり疲れたら我慢せず、必ず休憩することを条件に受け入れた。

 樹季は、紘也の姿が教室にないことに気付き、渡辺に尋ねた。

「あの……南先輩は、まだ来ておられないんですか?」

 悠太郎が渡辺に目配めくばせすると、渡辺はそれに小さくうなずいてから、樹季に言った。

「今日は急用が出来て、どうしても来られないって連絡があったよ」

「そうですか……」

 翔のことが心配だった樹季は、紘也に前日の翔の様子を尋ねたかったが、仕方ないとあきらめた。悠太郎に椅子から立ち上がるのを手伝ってもらい、リハーサルに参加するため、慣れない松葉杖で教室の奥の壇上にぎこちなく歩いて行った。
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