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第5章

寄り添う心

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新道しんどう君、きみ、最近いつも教室で一人でいるけど……園田そのだ君と喧嘩でもしたのかい?」

 授業が終わった放課後の教室で、眼鏡をかけた知的な風貌の少年が、帰り支度をする樹季いつきの窓際の席に近付いてきて言った。

「そんなことないよ……久保。気のせいだ」

 樹季は努めて明るく答えようとした。江口たちとの一件いらい、寮の部屋でも教室でも、園田は樹季とあまり口をきいてくれない。

 久保公彦くぼきみひこは、樹季と同じクラスの委員長だった。成績は学年でもトップクラスで、祖父は誰でもが知っている大きな建設会社の社長だ。樹季より少し背が高く、スリムな体型をした公彦は、細面ほそおもてで整った顔だちをしていた。教師たちからの信頼も厚い彼は、穏やかな笑みをたたえ、樹季を励ますように言った。

「何か困ったことがあったら、僕に相談してくれたまえ。そうだ、きみ、ボランティア部に入ったんだって? 先生から聞いたよ」

「うん……。一年の部員がいなくて、このままじゃ廃部になるって頼まれたんだ」

「そう。聞いた話だけど、擁護施設の子らと付き合うの、結構大変らしいよ。難しい家庭から預けられている子が多いからね。だから皆、辞めちゃうらしい」

「そうなんだ……。でも先輩たちが皆優しいから、頑張ってみる」

「応援してるよ。じゃあ、僕は予備校があるから……」

 樹季は公彦が気にかけてくれたのが、嬉しかった。成績も優秀で、思いやりがあり人望も厚い。こんな子がいるもんなんだな……。そう感心しながら、自分も出来る限り人見知りを克服して、積極的に人と接しなければと反省していた。



 その週末、授業が休みの土曜日の朝のことだった。

 いい天気だなぁ……。樹季は、心の中でそうつぶやく。秋晴れの高い空を見上げて、金木犀きんもくせいの香りのするさわやかな空気を胸の奥まで吸い込んだ。

 ボランティア部員たちは、この児童擁護施設「聖グレゴリウス愛児院あいじいん」を定期的に訪問している。樹季たちの通う学園と同じ系列の教会が運営するそこには、家庭の事情で親と一緒に暮らせない子供たちが保護されていた。

 その日は子供たちと一緒に昼食のサンドイッチを作り、教会の前の広場でピクニックをする予定だった。樹季にとっては、施設への初めての訪問だった。入部してから半月ほど経ち、樹季はすっかり部員たちと打ち解けていた。

 実家のある館山を出て学園の寮に入っていらい、一人ぼっちの味気ない学校生活が続くだろうと樹季は覚悟していた。クラスの中でも親しい友人をなかなか作ることができず、自分が社交的でないからとあきらめていたのだ。唯一、同室の園田とは親しくしていたのに、その彼とも気まずくなってしまった。

 本当は、クラスで過ごす時間は寂しかった。でも樹季は、弱音を吐く訳にはいかないし、吐く相手もいないと自らを奮い立たせていた。それに、放課後や休日には、部の先輩たちが親しくしてくれる。入学してから半年ほど、ずっと一人でいることが多かった樹季には、それが救いだった。 

「おーい新道! 突っ立ってないで、早くそこのレタス、キッチンに運んでくれよ」

「すみません! 小野寺おのでら先輩、すぐ行きます!」

 外で空を見上げていた樹季は、悠太郎ゆうたろうに声をかけられ、慌てて野菜の箱を持ち上げた。陽光を受けて輝く大きな白亜はくあの教会に隣接するように、聖グレゴリウス愛児院は建っている。明るい外観の洋館で、室内の壁は子供たちの描いた絵や工作などで、色とりどりに飾られていた。

 十歳くらいまでの幼い子供たちは部員たちと一緒に台所で料理をし、それより大きい子供たちは、教会の前の芝生の広場にテーブルや椅子を運んだり、食器を並べたりしている。

 悠太郎と紘也ひろやは小さい子供たちになつかれているようで、周りを黄色い歓声でにぎやかに取り囲まれながら、エプロン姿でパンやチーズを切り分けていた。

 小野寺先輩、天使の格好をした自分を見てから、あまり目を合わせてくれなくなった……。よっぽど俺、変だったのかな。樹季はそう感じていた。悠太郎は視線は合わせないが熱心に勉強はみてくれるし、部活動では親しげに接してくれる。樹季にとって、頼りがいのある先輩であることに変わりなかった。

 樹季もエプロンをつけ、台所の棚から皿を取り出し、トレーに乗せてから広場へと運び出していった。

「いつもお手伝いありがとう、渡辺わたなべ君。皆とっても楽しみにしてたのよ」

 子供たちの世話をしているシスターが台所にやってきて、部長の渡辺に礼を言った。シスターは、おそらく樹季の母親と同じ四十代初めくらいの、笑顔の美しい温和そうな女性だった。渡辺は顔を赤くして姿勢を正した。

「こちらこそ、お役に立てて嬉しいです! 実は、新しい部員が入ったんですよ。おーい新道君、こっち来て。シスターに紹介するよ」

「はーい! 今、行きます……」

 樹季は、皿がたくさん乗ったトレーを持ったまま、玄関の手前の廊下で振り返った。その時、一人の少年がばたばたと走ってきて、樹季にどんとぶつかった。けたたましく食器が割れる音に驚いたのか、台所にいたシスターや渡辺が何事かと飛び出してくる。

 樹季はトレーを取り落としてしまい、廊下には割れた皿が散らばっていた。ぶつかった少年も驚いたのか、表情を硬くして立ち尽くしている。

「ごっ…ごめん……! きみ、ケガはなかった?」

 樹季は慌てて謝り、少年の肩に手を置いた。すると少年はその手を乱暴に振り払い、怒ったように眉をつり上げ、樹季をぎっとにらみつけた。おそらく、小学校の中学年くらいだろうか。 

しょう君、危ないから廊下を走っちゃいけないって言ったでしょう? ほら、ケガがないか見せてごらんなさい……」

 シスターが少年に駆け寄ると、少年はシスターも睨みつけて言った。

「そいつが、ぼーっと立ってるのが悪いんだよ! 邪魔だから、どきやがれ!」

「何てことを言うの? お兄さんに謝りなさい!」

「だから、そいつの方が悪いって言ってんだろ! なんで、いっつも俺が怒られなきゃいけないんだよ! 俺はこんなとこ、ほんとは来たくなかったんだ! シスターだって、ほんとは俺がいなくなればいいと思ってるくせに……! だから、出てってやるよ! 出てけばいいんだろ!」

 少年はそう叫ぶと、割れた皿を飛び越え、裸足はだしで外に走り出して行った。

「待ちなさい、翔君!」

 シスターはそう叫ぶと、慌てて少年を追いかけて行った。台所にいた部員たちも、驚いて作業の手を止めている。機嫌よく料理を手伝っていたまだ幼い子供たちは、騒動に驚き怖くなったのか、べそを掻き始めた。紘也は渡辺に目配めくばせして、子供たちの頭を優しく撫でて言った。

「ほら、おいで。お兄ちゃんたちとお外で遊ぼうか!」

「そうだ! ブランコ押してあげよう! 一番乗りは誰かな?」

 渡辺も、子供たちの気持ちを落ち着かせようと必死なようだ。彼らは、泣き止まない子供たちをあやすために外に連れていった。他の部員や年長の子たちも、小さい子と手をつないで、後に続いていく。

 樹季は誰もいなくなった廊下の床に屈み、割れた皿を片付けていた。破片を一つづつ拾いながら、翔という少年が自分に向けた眼差しを思い出す。それは怒りではなく、どうしようもない寂しさに満ちているように、樹季には映った。うわの空で破片の一つに手を伸ばしたとき、人差し指の先にちくっと痛みが走った。

「あいた……!」

「おい、大丈夫か?」

 焦った声に頭を上げると、悠太郎がほうきとちりとりを持って駆け寄ってきた。樹季の右手の人差指の先には小さな切り傷が出来て、血のしずくがぽたぽたと床に落ちている。

 樹季のそばに膝をついて屈んだ悠太郎は、樹季の右手を自分の大きな手のひらで包むと、その指を自分の唇に引き寄せた。樹季の指に唇がふっと触れると、一瞬ためらうようにそれを離したが、すぐに傷口をそっと口に含み、優しく吸いながら瞳を閉じた。

 母さんみたいだ……。樹季は悠太郎の優しさに胸を打たれながら、そう感じた。悠太郎はやがて樹季を放すと、自分の持っていたハンカチを包帯代わりにして、樹季の指に巻いてやりながら言った。

「お前……なんでそんなに、いつもぼんやりしてるんだ? 危なっかしくて、見ていられない……。車にでもひかれて……死んじまったら、どうするんだ……?」

 悠太郎の言葉には、決して冗談で言っているのではないらしい、真剣な響きがあった。樹季が思わず悠太郎の顔を見ると、はしばみ色の美しい瞳が、悲しげにうるんで樹季を見つめている。悠太郎がこうやって、自分と目を合わしてくれたのは、久しぶりかもしれない……。樹季がそう思っていると、悠太郎はすっと立ち上がり、快活な大きい声で言った。

「さぁ、早く片付けるか! そろそろ皆、戻ってくる」



 樹季と悠太郎が割れた皿を片付け終わると、沈んだ顔をしたシスターが戻ってきた。

「あの……シスター。翔君でしたっけ、大丈夫でしたか?」

 悠太郎が心配そうにシスターに尋ねると、彼女は小さくうなずいてから答えた。

「なんとか言い聞かせて、連れ戻したけど……。皆に会いたくないっていうから、裏口から部屋に連れていったの。ここにきて間もないから、無理もないと思うわ。まだ十歳ですもの。きっと、寂しくてたまらないのね」

「翔君はどうして、ここに預けられることになったんですか?」

 樹季は思い切って尋ねてみたが、シスターは目を閉じて首を横に振った。

「ごめんなさい。子供たちの家庭の事情は、プライバシーに関することだから、私の口からは言えないの。でも、心配してくれて嬉しいわ。良かったら、あの子とまた遊んでやって。あの子が自分から話すようなら、聞いてやってね」

 そのとき、紘也や渡辺たちがにぎやかに笑いながら子供たちと手をつないで戻ってきた。しばらく外で遊んでやったことで、子供たちの機嫌も直ったようだ。

「さあ、お腹も空いてきたし、はりきってお弁当作ろうね~!」

 渡辺が呼びかけると、子供たちは大きな声ではーいと返事をし、愛児院は再び楽しく和やかな雰囲気に包まれた。樹季も努めてにこやかにふるまってはいたが、一人で部屋に閉じこもっている翔という少年のことが、なぜか心配で仕方がなかった。



 ようやくサンドイッチが出来上がり、部員と子供たちは、教会前の広場でにぎやかに昼食をとり始めた。シスターが、一人分を取り分けたトレーを建物の中に運ぼうとしているのに、樹季は気付く。

「シスター、それ……翔君の所に持っていくんですか?」

「そうよ。どうしても、部屋から出るのが嫌だっていうの」

「良かったら、僕が運びましょうか?」

 また激しく拒絶されるかもしれない……。樹季は、翔と顔を合わせるのが本当は怖かったが、彼をどうしても放っておけなかった。シスターは、少し迷ってから言った。

「じゃあ……お願いしようかしら。あの子も、もう落ち着いたかもしれないから」

 シスターに案内され、樹季は翔の昼食の乗ったトレーを持って、彼の部屋のドアの前に立った。

「翔君、お昼ごはん、持って来たわよ。開けてくれる?」

 シスターは扉をノックし、部屋の中の翔にそう呼びかけると、樹季を励ますようににっこり笑い、広場に戻っていった。

 樹季が緊張した面持ちで待っていると、ドアが開き、隙間から翔が顔をのぞかせた。目を真っ赤に泣き腫らしている。

「なんだ。お前か」

 涙声でそう言うと、力なく背を向けて部屋に戻っていった。また拒まれるのを覚悟していた樹季は、ほっとして翔の後に続き部屋に入った。

 その部屋には、ドアを挟んだ両側の壁際に二段ベッドが一つずつ置いてあり、その他にに小さな勉強机が四つ、ドアの正面の窓際に置かれていた。

二つの二段ベッドの間のスペースには、動物園のイラストの色鮮やかなラグが敷かれ、その上には、木製の丸いローテーブルが置かれていた。翔は、二段ベッドの下段に寝転んで、樹季に背を向けてしまった。

「翔君……。さっきはほんと、悪かった。俺が不注意だったんだよ。許してくれるかな」

 翔に何とか心を開いてもらいたくて、樹季は立ったまま懸命に話しかけた。すると、翔が寝転んだままくるりとこちらを向いて、仏頂面ぶっちょうづらで答えた。

「翔でいいよ。さっきのは、俺が悪いにきまってんじゃん。お前、俺より大人のくせに、バカなんだな」

 翔は、トレーを持っている樹季の右手に巻かれたハンカチに気付くと、起き上がってきて、ベッドの端に腰かけて言った。

「お前……さっき、ケガしたの?」

「大丈夫だよ。かすり傷だから……。割れたものを片付けてて、うっかり切っちゃったんだ」

「ごめん……」

 翔が小さな声で謝ったのを聞いて、樹季は驚いた。さきほどまでの乱暴な態度とは、まるで別人だった。虚勢きょせいを張っていただけで、本当は素直で繊細せんさいな子なのかもしれない。改めて見てみると、十歳にしては少し小柄だが、目のくりっとした、利発りはつそうな顔をした可愛らしい少年だった。

「そうだ、お腹空いてるだろ? これ、食べなよ!」

 樹季はそう言うと、サンドイッチをローテーブルに置き、翔のそばにそっと押して近づけた。翔はそれを一つ手に取り、頬張ほおばった。翔が食べてくれたことに嬉しくなった樹季は、ローテーブルのそばに腰を下ろし、翔が食べるのを見守っていた。

「お前は食わないの?」

 翔はふと、食べるのをめて樹季に訊いた。

「うん……? いや、いいよ。これは翔の分だし、俺はまた後で食べるから……」

 樹季が答えると、翔は皿からサンドイッチを一切れ取って樹季に差し出した。

「食えよ。お前だって、腹減ってんだろ?」

「あ……ありがと」

 樹季は、翔の好意を素直に受け取って、それを頬張った。翔は、ひとしきり食べ終わると、ぽつりと言った。

「今日さ……」

 翔が話し始めてくれたことに、樹季は少し緊張しながら、相槌あいづちを打った。

「ん……? 何だい?」

「本当は、父さんのお見舞いに行けると思ってたのに、付き添いにいける人がいなくて、駄目だって言われたんだ……。俺は一人で行けるって言ったのに……それも規則で駄目だって」

 樹季はどきりとした。

「お父さん……入院してるの?」

「うん……医者も、シスターも……すぐ治るって言うんだけど……。父さん、体を自由に動かせないし、ものも喋れなくなっちゃったんだ。もしかしたら…死んじゃうかもしれない……」

 そう言うと、翔はうつむいて、涙をぽたぽたと落とした。

「俺のうち……母さんは俺が小さいとき死んじゃって……父さんが俺を一人で育ててくれたんだ。父さん、先月いきなり、倒れて入院しちゃった。他に親戚もいないし、俺はここに来たんだけど……。すごく嫌だった。病院にずっと泊まって、父さんのこと看病したいって言ったのに、駄目だって……ここに連れてこられたんだ」

 そう言うと、翔は膝を抱えて黙ってしまった。うつむいた顔の下から、小さな嗚咽おえつが漏れてくる。

 樹季は、翔にかける言葉が見つからなかった。樹季は十四歳のとき、父親を病気で亡くしている。だが自分のそばには母がいてくれたし、親友の光汰こうただって励ましてくれた。翔の父親は回復すると信じたいが、せめて自分があの時の光汰のように、翔を励ましてやりたいと思った。

「俺で良かったら、病院へのお見舞い、なるべく連れていってあげるよ。シスターに頼んでみる」

 翔は樹季の申し出に驚いて、泣きらした顔を上げた。

「いいの……? お前の学校、ここから遠いんだろ? 病院も、ちょっと遠くにあるんだよ?」

「そうだね、学校からは、バスで往復一時間以上かかるかな……寮の門限もあるから、放課後は無理かもしれないけど、休みの日は、翔と一緒にお父さんのお見舞いへ行くよ」

「ほんとに……? 俺もお見舞いに行っていいのは、休みの日だけなんだ。ここの世話係りの人に連れて行ってもらってたんだけど、最近辞めちゃって……」

 翔が少し明るい顔をしたことに、樹季はほっとして、右手を彼に差し出した。

「俺、樹季っていうんだ。よろしく。翔」

「うん……イツキ、ありがとう」

 翔は鼻をすすってから照れくさそうに笑うと、樹季と握手した。



 樹季はシスターに、翔の父親の入院する病院へ付き添う許可を求めようとした。学生で、職員でもない樹季に任せられないとシスターは困惑していたが、本部に問い合わせてみると言ってしばらく席を外し、戻ってきた。

「新道君、オッケーだそうよ。あなたは聖グレゴリウス学院の生徒だし、ボランティア部員だから信頼できるって……。実は、ここも職員が急に退職して人手不足なの。翔君には可哀想だったから、本当に助かるわ。では、来週の休日から、ぜひよろしくね」

「はい! 責任持って、翔君に付き添います」

「ありがとう……優しいのね。さあ、あなたも広場に戻って、皆とお昼にしなさい」

 翔は泣きやんで笑ってくれたが、まだ部屋から出てこようとしない。樹季は、そんな彼を少しでも勇気付けられるよう、頑張ってみようと思った。
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