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第4章

ジョシュア

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 ジョシュア・ブランデルは、テキサス州フォートワースの裕福な実業家を父親に持つ少年だった。幼いころから成績優秀だったため、フォートワースのミッション系の私立大学に、わずか十六歳で入学した。

 その大学には、彼と同じ十六歳で悠太郎も入学していた。学内で出会った二人は年齢が同じこともあり、すぐに意気投合し、友人として学生生活を共にするようになった。

 ジョシュアの父、デイビッド・ブランデルは、実業家から政治家への転身を図ろうとしていた。保守政党から次期上院選に立候補し、州代表を勝ち取ろうと着々と準備を進めている。彼の野望の先には大統領選出馬があった。
 
 アメリカでも特に保守色の強い『聖書地帯』バイブルベルトと呼ばれる地域に、テキサス州はある。

 キリスト教徒の中でも聖書を絶対視する一派の信仰が根強く、強硬派の急先鋒きゅうせんぽうといわれるジョシュアの父は、その団体から絶大な支持を受けていた。

 毎週日曜にはダラスの巨大なホールで大規模な礼拝が行われ、デイビッドは妻と一人息子のジョシュアを連れ必ず参加した。カリスマ的な人気を誇る牧師と親しげに握手するデイビッドの写真が、テキサスの地方紙の一面を飾ることもあった。政治家として順風満帆じゅんぷうまんぱんなスタートを切ろうとする父親の後ろには、ジョシュアが控えめに写っていた。

 ジョシュアは、透き通るような白い肌に、絹糸のような金髪を持つ美しい少年だった。どちらかと言えばプラチナブロンドに近いその髪は柔らかくカールしており、陽の光に透けてきらきらと光った。金色の長い睫毛まつげに縁取られた大きな瞳の色は空を映したような淡いブルーで、その優しげな面差しと、背中に羽を宿していそうな華奢きゃしゃな体は、まるで宗教画に描かれる天使のようだった。

 ジョシュアと親友のように過ごすようになった悠太郎には、悩みがあった。

 悠太郎は数年前から、自分が同性にしか興味を持てないことに気付き、悩んでいた。だが誰にもそれを打ち明けることなく、親の希望通りこのミッション系の大学に進学してきたのだ。両親の信仰する教義では、同性愛は固く禁じられている。親の期待を裏切りたくなかった彼は、時間がいつかは解決してくれると信じ、学業に励んでいた。

 ジョシュアは心優しく天真爛漫てんしんらんまんな性格で、誰とも分け隔てなく接した。大学にはさまざまな国籍や肌の色の学生がいる。保守強硬派の政治家の息子で、飛び級で進学した秀才だと噂されていたために、さぞ傲慢ごうまんなやつだろうと警戒して彼に接してくる学生もいた。だが彼らも、付き合ううちにジョシュアの魅力のとりこになってしまった。ただ朗らかなだけではなく、間違っていると思うことには毅然きぜんと抗議する芯の強さも感じさせたからだ。

 そんなジョシュアに強く惹かれていくのを悠太郎は気付いていた。それはときめき、たかぶっていく、間違いなく友情以上の感情だった。ジョシュアのまぶしい笑顔のそばにいながら自分の気持ちを抑える毎日は、悠太郎には辛いものとなっていった。

 悠太郎は苦しんだ。ジョシュアは何も知らない。自分がどんな種類の人間かも。ジョシュアの父は政界に進出しようとし、同性愛の排除もスローガンに掲げて戦っている。重要な支持母体のキリスト教一派の団体が、同性愛は神への冒涜ぼうとくだと強くみ嫌っているからだ。

 アメリカ南部では、同性愛者の利用を拒否する権利を店舗などに与えている州もある。ジョシュアと自分の関係が疑われでもしたら、どうなるだろう。ジョシュアのためにも、このまま、彼のそばから離れよう……。悠太郎はそう思い詰め、ジョシュアと距離を置こうと決めた。



 大学一年の秋が深まり、中間選挙がほぼ半月後に迫った頃だった。悠太郎は極力きょくりょくジョシュアを避け、彼以外の友人と行動するようになっていた。キャンパスでも学外でも一切、ジョシュアと関わりを持たないように徹底した。それでも会いたい気持ちはつのる一方で、それを押し殺すように、日々を過ごしていた。

 秋だというのに蒸し暑く、空に重い雲が垂れ込めた日だった。講義が終わり、悠太郎は自宅に戻るため、一人で駐車場の自分の車に向かっていた。

 この州では、十六歳になれば免許を取ることができる。学生寮に入るという選択肢もあったが、悠太郎の母が自宅からの通学を強く望んだのだ。

 母は英語で日常会話はこなせるが、あまり堪能たんのうな方ではない。しかも大人しい性格のため自己主張が出来ず、アメリカには気のおけない親しい友人がいなかった。

 父は競争の激しいIT業界で仕事に忙殺ぼうさつされ、家庭を顧みる余裕がなくなっていた。寂しさを募らせた母は、悠太郎と離れて暮らしたくないと、泣いて頼んだのだった。



 駐車場の入り口まで来た時だった。悠太郎の後ろから、彼を呼び止めるジョシュアの声がした。

「待って! 悠太郎! 待ってくれよ!」

 悠太郎が振り向くと、ジョシュアがこちらへ息をはずませて駆け寄って来た。

「ジョシュア……?」

 悠太郎は驚き、辺りを見回した。駐車場にいた多くの学生が、ジョシュアの大声を聞いて何事かとこちらを見つめている。

「何回も電話したのに、どうして、出てくれないんだよ?」

 ジョシュアは真剣な顔で悠太郎に詰め寄った。悠太郎は、彼に冷たい態度を取らざるを得ないことに胸が痛んだ。

「別に理由はないよ……。たまたま忙しかっただけだ」

「悠太郎……僕を避けているよね」

「考え過ぎだよ。悪いけど、俺……急ぐんだ。じゃあ……」

 悠太郎が立ち去ろうとすると、ジョシュアは悠太郎の腕をつかんで、引き留めた。

「待ってくれ! 僕……何かきみの気にさわることした? もしそうなら、謝らせて欲しい。怒っている理由くらい教えてくれよ! 友達じゃないか!」

 周囲の視線が気になった悠太郎は、沈黙し、うつむいた。ジョシュアがこんなにまっすぐに気持ちをぶつけてくる以上、もう自分も逃げられない。例え軽蔑されたとしても、事実をごまかさず話すほかないと思った。ジョシュアは、このままでは決して納得しないだろう。

「ジョシュア、場所を変えよう。ちょっと歩かないか?」

 悠太郎はそう言うと駐車場から出て、学内のスポーツジムの裏に続く人気ひとけのない通路を歩き出した。ジョシュアは不安そうな顔をして後からついてくる。辺りに人影がないことを確認した悠太郎は、小さく溜息をつくと、こう切り出した。

「さっき、友達じゃないかって、言ったよな。俺はもう、お前の友達じゃない」

「悠太郎……?」

 ジョシュアは大きく瞳を見開き、ショックを受けたようだった。

「俺も、お前のこと友達だと思っていたし、自分の気持ちに嘘ついて、そうよそおおうともした……。でも、もう無理なんだ」

「ど……どういうことさ?」

「ごめん……。傷つけるつもりはなかったんだ。でも解ってくれ。友達としてそばにいるのが、もう辛いんだ。好きなんだ、ジョシュアのことが」

「僕のことを……?」

「もう会わないほうがいいって、解っただろ。ジョシュア……。今までありがとう」

 悠太郎は寂しげに微笑むと、ジョシュアに背を向けて立ち去ろうとした。

「待ってくれ! 悠太郎、僕も好きだよ、悠太郎のこと……! どうして、もう会わないなんて言うんだ!」

 ジョシュアは悠太郎の両腕に取りすがり、必死に叫んだ。悠太郎が一番怖れていた反応だった。彼が友人として、自分を大切に思ってくれているのは痛いほど解っている。だが、その『好き』とは、意味が違うのだ。この純粋な天使に、それを理解させないと駄目だった。あいまいな説明は、もう通じない。悠太郎は悲しそうに、ジョシュアに訊き返した。

「好きだって……? 俺のことを?」

「そうだよ! 好きだ……! ずっと、一緒に居たいんだ!」

「ずいぶん軽々しく言うんだな。ジョシュア……解ってないだろ。俺がどういう人間かってこと。ホモセクシャル……同性愛者だ。俺を好きだなんて言ったら、ゲイの仲間入りだぜ?」

「誰になんて言われようと、関係ない! 悠太郎は、僕の大好きな悠太郎だ……。それ以外の、誰でもないよ!」

 同性愛者と解ったとたん、友人を拒絶するようなジョシュアではない。だからこそ、悠太郎は彼を好きになったのだ。悠太郎は覚悟を決めて、彼を突き放すように言った。

「いいかげんにしろよ。こっちは、お前への下心をフェアに打ち明けてやったんだぜ。それともお前……世間知らずのふりをして、好奇心を満足させたいのか? 優等生に嫌気がさして、わざと親に反抗してみたくなったんだろ? いい機会だから、自分にほれたゲイをからかって、あとくされのない秘密の体験でもしてみたいってことか?」

「酷いよ! そ…そんな言い方……! 僕は……悠太郎と離れたくない……! ただ、それだけ…な……んだ」 

 ジョシュアは、見たこともない悠太郎の冷たい表情と、罵倒《ばとう》するような口調に耐えられなくなったのか、とうとう涙をあふれさせていた。そんな彼を見ている悠太郎も、胸が張り裂けるように辛かった。だが、ここで止める訳にはいかなかった。

「じゃあお前、東洋人の男が恋人だって、堂々と親に言えるのか? 隠れて付き合ったとして、もしバレたら、お前の親父の選挙はどうなると思う? ここは西海岸じゃないんだ。周りの白い目に、耐えられると思うのか? 友達とゲイの関係の区別もつかないガキの相手は、もうたくさんだ。ここまで俺に言わせて……満足だったか? もう会えないって、これで解っただろ!」

 悠太郎は吐き捨てるように言うと、ジョシュアを残してその場を足早に立ち去る。ジョシュアは、呆然ぼうぜんと立ち尽くしたままだった。

「ごめん、ジョシュア……」

 悠太郎は駐車場まで戻ると、立ち止まり、つぶやく。あそこまで、ジョシュアを傷つけるようなことを言うつもりはなかった。でも、これで良かったんだ……。ジョシュアが本当に、同性の自分を好きな訳がない。ただ、その天使のような優しさから、友情で引き留めようとしただけだ……。悠太郎は視界がにじんでくるのを感じながら、自分にそう言い聞かせた。



 それから数日が経った。その日は朝から激しい雨が降り続き、ときおり雷鳴もとどろいていた。悠太郎は、昼食に寄った大学のカフェテリアのテレビで、ジョシュアの父親の演説が放送されているのを見る。中間選挙が間近に迫り、討論会などの特集番組が盛んに企画されているらしい。

 その後、ジョシュアからは悠太郎に何の連絡もない。校内で姿を見かけることもなかった。同じ選択科目があれば、遠目にジョシュアを確認してから離れた座席に座るよう注意したが、講義も欠席しているようだった。

 体調でも崩したのだろうか。それとも、親友と思っていた自分にあんな態度を取られたせいで、自宅でふさいでいるのだろうか……。悠太郎は、彼から連絡がないことにどこか安堵あんどする一方、次第に不安になっていた。

 午後になり、いつもより早く授業が終わった悠太郎が大学から帰宅しようと駐車場に向かっていたときだった。悠太郎は激しい雨の下、傘も差さずに彼の車のそばにたたずんでいる人影を見つけた。

「ジョシュア……? 何やってるんだ? こんな所で!」

 悠太郎は驚き、叫びながら駆け寄って、自分の傘をジョシュアに差し出した。

 ジョシュアは悠太郎の顔を見つめると、蒼ざめた顔で震えながら言った。

「悠太郎……。僕……」

「とにかく乗れ! びしょ濡れじゃないか……! 肺炎になっちまうぞ!」

 悠太郎はジョシュアを車の助手席に押し込み、扉を閉めた。自分も急いで運転席に乗り込むと、エンジンをかけ暖房を入れる。雨はますます激しくなっていた。ボンネットをたたく激しい雨音が車内に響き、フロントガラスには雨水が幾重いくえもの筋になって流れ、外への視界をさえぎった。

 悠太郎はジョシュアの体を拭いてやれるものを探したが、タオルなどない。Tシャツの上に着ていた厚手のパーカーを脱ぎ、それでジョシュアの濡れた頭をくるみごしごしと拭いてやった。あたふたとする悠太郎が可笑しかったのか、されるがままだったジョシュアがくすくす笑い出し、しわだらけになったパーカーの隙間すきまからやっと笑顔を見せた。

「もういいよ、子供じゃないんだから。自分で拭く」

「お前、その顔……一体どうしたんだ?」

 悠太郎は、ジョシュアのほおや唇の端に、痛々しい赤いあざができているのに驚いて、思わず大声で叫んだ。

「大丈夫……。大したことないよ。それより、悠太郎。君に話があるんだ」

 ジョシュアはそう言うと、真剣な表情になった。

「僕がちゃんと覚悟を決めたら……悠太郎とずっと一緒にいられるんだね?」

「何……言ってるんだ?」

「僕は、悠太郎が好きだ。誰に何と言われようが、大好きだよ……! 親にも、友達にも隠したりしない。堂々と悠太郎のこと、自慢してやる」

 悠太郎の心は揺れた。ジョシュアは、本当に自分のことを受け入れてくれるつもりなのだろうか。もしいっときの気の迷いだったとしても、胸が震えるほど嬉しかった。だがそんな気持ちをつゆほども表に出さず、冷静に答えた。

「ジョシュア……バカだな。お前、俺への友情を変に勘違いしているだけなんだ……。そのうち美人のガールフレンドでも出来たら、そんな気持ちはすぐ忘れるって」

「バカにしないでくれ! 本気だよ! 会えない間、すごく辛かった……。他の誰にも、こんな気持ちになったことはないよ……。悠太郎はかけがえのない大切な人だし、僕が絶対に幸せにしてみせる。でも、悠太郎が僕の周りのことを心配してくれてるのも、解ってるんだ。だから僕は、何の心配も要らないって証明してみせるよ。そうしたら、僕のこと、信じてくれるよね……?」

 悠太郎の胸に、ある疑念がよぎった。

「まさか…そのあざ……家の人に殴られたのか?」

 ジョシュアはにっこり笑って見せた。

「違うに決まってるだろ。これは……家の近所でスケートボードの練習してたんだ。派手に転んじゃってさ」

「嘘つくなよ! お前がスケボーが好きだなんて、聞いたことないぞ! 俺のこと……家族に話したのか? それで怒られたんじゃないのか?」

 悠太郎が問い詰めると、ジョシュアは困ったように悠太郎から視線をらし、話をはぐらかすように言った。

「実は、僕の車……故障したんだ。今、修理に出しててさ。今日は大学に来るのに、昔使ってたバイクに乗って来たんだけど、この雨だろ? 悠太郎、悪いけど……このまま僕の家まで送ってくれないかな」

 悠太郎は胸騒ぎがした。もしジョシュアが父親に殴られたことを隠しているとしたら、そんな家に彼を返したくなかった。だが彼の父は、仮にも上院選に立候補している著名な実業家だ。ジョシュアに暴力を振るうなど、きっと自分の思い過ごしだ……。悠太郎はそう自分に言い聞かせ、車を駐車場から動かすと、大学を出てジョシュアの自宅に向けて走らせた。

 ジョシュアの自宅に向かう間、二人の間に会話はほとんど無かった。悠太郎はジョシュアの顔のあざについてもっと訊きたかったが、勇気を持って問い正せない。ジョシュアは物思いにふけるように、窓の外をぼんやり眺めている。

 ジョシュアが適当に着けたカーラジオのチャンネルは、カントリーミュージックを流し続けた。雲の間から幾筋かの日の光が差し込み、いつのまにか雨は止んでいた。悠太郎はフロントガラスを拭くワイパーを止める。さらに静かになった車内に、名前も知らない女性歌手の歌だけが響いていた。

 一時間ほど車を走らせると、ジョシュアの住む高級住宅街に近付いてきた。ジョシュアはなぜか、自宅から数十メートル先の公園のそばで車を止めてくれと言う。悠太郎はジョシュアの自宅前を通り過ぎるとき、駐車場にちらと目をやった。ジョシュアが通学に使う赤い車が止まっている。修理に出しているというのは、嘘だったのだ。

 悠太郎は、人影の無い公園のそばの広い道路の脇に車を寄せ停車させると、とうとう我慢が出来なくなり、ジョシュアに切り出した。

「なぁ、本当のことを言ってくれ。親父おやじに殴られたんじゃないのか? 俺だって、疑いたくはないさ。でも、転んだにしてはそんなあざ、不自然すぎる」

 ジョシュアはうつむいたまま聞いていたが、やがて顔を上げると、悠太郎の瞳をまっすぐ見て、迷いのない口調で、こう言った。

「悠太郎、僕はきみのこと……父さんにちゃんと説明して、解ってもらおうと思ってる。僕は父さんの息子だけど、奴隷でも所有物でもない。父さんと別の考えを持って生きてる、ひとりの人間だよ」

「バカ! この選挙前の時期に、家族に俺のことを話して理解してもらおうとか……無謀すぎる。お前のうち、めちゃくちゃになるぜ。お前……それでも平気なのか? 頼むから、今は無茶しないでくれ」

 悠太郎は、何とか彼を説得しようと必死だった。だが、ジョシュアは毅然きぜんとした態度で言った。

「父さんの選挙運動に、何か支障が出たらどうしようと悩んだのは確かだよ……。でも、今でなきゃ駄目なんだ。僕は、悠太郎のことを誇りに思うし、堂々としていたい。父さんの選挙のためとはいえ、こそこそ隠すのは嫌だ。父さんの政治家としての活動は、家族として応援したい……。でもその信条にまで、僕が一生付き従うことは無理だ。そうはっきり伝えるつもりだよ。例え、教会から破門されて、親子の縁を切られてもね」

 悠太郎は驚きのあまり、言葉が出なかった。悠太郎が最も危惧きぐしていた困難を、引き受けるつもりだとジョシュアはきっぱりと言って退けたのだ。

 呆然ぼうぜんとしている悠太郎の顔を見て、ジョシュアは優しく微笑んだ。

「心配しないでくれ。きっと、みんな上手くいくから……。近いうちに、また連絡する。とりあえず、今日は帰るよ」

 そう言うと、ジョシュアはシートベルトを外し、車から降りようとドアに手をかけた。悠太郎は、そのまま彼を行かせてはならない気がして、我に返って呼び止めた。

「待て! ジョシュア……!」

 ジョシュアは振り向くと、少しためらってから、運転席に座る悠太郎の近くに体を寄せた。悠太郎のほおを自分の両の手のひらでそっと包み、優しく引き寄せると、瞳を閉じて悠太郎の唇に自らの唇をそっと押し当てた。

 ジョシュアへの抑えきれない愛しさが、悠太郎の体をv僅《わず》かに震わせる。悠太郎は戸惑いつつも、瞳を閉じ、暖かく柔らかな唇を受け止めながら、ジョシュアを抱き締めた。軽く触れるだけの、ほんのわずかな瞬間のキスだった。やがてジョシュアは悠太郎の腕をするりと抜けるように、体を離した。

「送ってくれて……ありがとう。僕を信じて、待ってて。悠太郎」

 頬を紅潮こうちょうさせ、輝くような笑顔でそう言うと、ジョシュアは車を降り、雨上がりの黄昏の中を走り去って行った。



 前日まで降り続いた雨も止み、久々の青空が広がった朝だった。ジョシュアのことが心配で一睡も出来なかった悠太郎は、朝食も取らずに出かけようとしていた。一刻でも早く、彼の元気な顔を見たかったからだ。大学に来ていなければ、自宅まで会いにいくつもりだった。自宅のドアを開け、一歩踏み出したときだった。家の前で待っていたらしい二人の警官が走り寄って来て、悠太郎の両脇をがっちりと抑えた。

「何するんだ? 放せよ!」

 何も身に覚えのない悠太郎は、面食らって叫んだ。

「ユウタロウ・オノデラ・デュークマイヤーだね。ジョシュア・ブランデルへの傷害の容疑で、彼の父親が君を告訴した。署まで同行してくれるね」

「傷害……? ジョシュアに何かあったんですか?」

 悠太郎は真っ青になって叫んだ。警官はそれを無視し、権利を読み上げ始めた。

「きみには黙秘権もくひけんがある。きみの供述きょうじゅつは、法廷で不利な証拠として用いられる可能性がある。きみには弁護人の立会いを求める権利がある……」

 その騒ぎを聞いた悠太郎の母が、驚いて外に飛び出してきた。

「待って下さい! この子が何をしたっていうんです?」

「同じ大学の友人に対する傷害容疑です。息子さんに公選弁護人を付けたい場合は、要請して下さい」

 警官にそう告げられ、母はわなわなと震えながら、悠太郎の腕にすがった。

「嘘でしょう? あなたが、まさかそんな……」

「安心して母さん。俺は何もしてない。きっと何かの間違いだから……」

「すぐ父さんに連絡するわ! いい弁護士の先生についてもらうから、それまで何も話しちゃ駄目よ!」

 動揺する母をなだめてから、悠太郎は警察の車両に大人しく乗り込んだ。しかし、ジョシュアのことが心配で気が気ではなかった。落ち着け、一体何が起こっているのか冷静に把握するんだ……。悠太郎は心の中で、そうつぶやいていた。



 警察署で聴取を受けた悠太郎は、ジョシュアが打撲による重傷を負い入院していると知らされた。

 悠太郎の父親は、州内でも有名な法律事務所から、有能な若い男性の弁護士アダム・マクビールを急ぎ雇い、悠太郎に付き添わせていた。

 ジョシュアの父の証言によると、前日の夕刻、ジョシュアが自宅の玄関のドアの前で意識を失い倒れていたという。その時すでに、体には複数の打撲の跡があり、自分が急いで救急車を呼んだと主張しているらしい。ジョシュアの父は、自宅前の道路を撮した防犯カメラの映像を証拠として提出した。そこには、悠太郎の白いセダンの車のナンバーと、助手席に座るジョシュアの顔がはっきり映っていたという。時刻は、ジョシュアが自宅で発見されたわずか十分前と記録されていた。事件直前にジョシュアに会っていた人物が悠太郎だという、動かぬ証拠だと言うのだ。

「きみは、嫌がる被害者に性的な関係を迫って、つきまとっていたそうだね。きみを告訴したブランデル氏が、息子である被害者からそう相談されていたと証言している。ジョシュア君に拒絶きょぜつされたことに腹を立て、車で誘拐し、暴行に及んだんだろう?」

 壮年の男性捜査官はそう言うと、悠太郎に対する嫌悪感を隠そうともせずじろりとにらみつけた。嘘だ……。ジョシュアがそんなことを言うはずがない……! 思わず叫びそうになった悠太郎を弁護士のアダムが制止し、捜査官に抗議した。 

「それは、憶測おくそくに過ぎないでしょう? 証言はすべて父親のものだし、証拠と呼べるのは、被害者の自宅の防犯カメラの映像だけだ。ジョシュア君の容体はどうなんです? 当事者である彼の証言を聞かないことには、なにも証明できたことにはならない」

 捜査官は、悠太郎の方に乗り出していた体を椅子の背もたれに戻して、腕を組んで言った。

「彼は骨折もしていないし、命に別状はない。ただ、精神的に酷く不安定になっており、今は絶対安静が必要だそうだ。男に強姦されかけたんだ。無理もないと思うがね。ともかく、とても証言できる状態ではないらしい」

「ならば新たな証拠が出ない以上、ジョシュア君が回復するまで、こちらも本格的な聴取に応じる訳にはいきません」

 悠太郎は、弁護士と警察とのやりとりを、どこか遠い世界での出来事のように聞いていた。後悔だけが、胸の中に激しく渦巻いていた。すべて、自分のせいだ……。ただの親友同士として絶交を言い渡していれば、こんなことにはならなかった。自分がジョシュアにうっかり気持ちを打ち明けてしまったせいだ。心のどこかに、万に一つでも、ジョシュアが振り向いてくれたらという期待があったに違いない。でもそれが、最悪の事態を招いてしまった。無事でいてくれ……。悠太郎はひたすら、ジョシュアのために祈った。



 悠太郎の拘留こうりゅうが始まって、数日が過ぎた。悠太郎は、容疑を否認しろという弁護士のアダムの助言を無視して、ひたすら黙秘もくひしていた。ジョシュアに暴行し、悠太郎に罪を着せたのが、ジョシュアの父のデイビッドだと確信していたからだ。ジョシュアの状況が解らず、自らも拘留され助けに行けない以上、もし警察がそのことを疑えば、やけになったデイビッドがジョシュアに何をするか解らない。そんな危険はおかせなかった。

 悠太郎の車を調べた鑑識かんしきが、ジョシュアの指紋と髪の毛を発見し証拠として提出したことで、悠太郎の容疑はますます濃くなる。すでに地元のマスコミには情報が流れ、インターネット上では未成年である悠太郎の名前も住所もさらされていた。悠太郎の自宅や父親の勤務先にまで、嫌がらせの電話やファクスが続いていた。

 中間選挙の前日、悠太郎は弁護士のアダムと接見していた。アダムは、ジョシュアの父デイビッドが、息子の事件を積極的に演説に盛り込み、選挙で同情票を得ようとしていると話した。

 同性愛者が敬虔けいけんなクリスチャンである息子に近付き、堕落だらくさせようと誘惑し、あげく傷つけた。自分が当選すれば、そのような犯罪を一切許さないとまくしたて、悠太郎の実名こそ出さないが激しく糾弾きゅうだんしているというのだ。

 ジョシュアは、未だ面会謝絶らしい。彼の主治医が診断書を提出したそうだ。悠太郎はデイビッドの行動に狂気を感じ、ジョシュアは病院に監禁されているのではと疑念を抱く。だが、何も証明出来ない悠太郎がそれを訴えたところで状況は悪化するだけと思い、絶望に駆られた。

 もう沈黙を守っている訳にはいかなかった。ジョシュアの身の安全を図るには、自分が容疑を認めるしかない。性犯罪者として登録され、足首にGPSを着けられてもいい。接近禁止命令を出され、一生ジョシュアに会えなくなってもいい。ジョシュアさえ無事なら、他には何も望まなかった。ブランデル氏が優勢とはいえ、翌日の決選投票の結果次第で、ジョシュアはさらに危険な目に合うかもしれない。悠太郎はアダムに、翌日、全ての容疑を認める決意だと話した。



 選挙当日の朝、事態は急展開した。 


 
 自供する覚悟を決め、聴取に向かおうとした悠太郎はいきなり拘留を解かれ、釈放すると捜査官に伝えられる。悠太郎の代理人のアダムが彼を出迎えた。

「ユウタロウ、辛い報告があるんだ。実は……」

 アダムは言い淀んだが、短い沈黙のあと、ようやく話し始めた。

「ジョシュア・ブランデル君が、交通事故に遭って危篤きとく状態なんだ」

 悠太郎は、アダムが何を言っているのか理解出来なかった。それは言葉の断片の羅列られつにしか聞こえず、彼の中でしばらく意味をなさなかった。

「ジョ…ジョシュアが……危篤きとく?」

「父親のデイビッド氏は、買収した主治医に偽の診断書を書かせて、彼を病院の個室に監禁していたらしい。彼は本当は意識もはっきりしており、歩けるまでに回復していた。なのに主治医は安定剤を過剰かじょうに投与して、彼の自由を奪っていたんだ。彼はもうろうとしながらも、すきをみて病院を脱走し、幹線道路まで辿り着いて助けを求めたらしい。そのとき……乗用車にはねられ、重傷を負ってしまったんだ」

「う……嘘だ……! そんなの…信じない……」

「はねた車は悪質にも逃走したが、事故を目撃した他のドライバーが彼を助けて、救急車を呼んだんだ。意識を失う直前に、ジョシュア君は警察に渡して欲しいと言って、そのドライバーに手紙をたくしたらしい。病室に備え付けのメモ用紙には、彼が最近自宅でもすでに軟禁なんきん状態にあり、車のキーも、携帯も取り上げられていたこと、度々父親に殴られていたことが書かれていたんだよ」

 悠太郎の脳裏のうりに、ジョシュアがしばらく大学に姿を見せなかったことや、車を修理に出していると嘘をついたこと、顔のあざの理由をはぐらかそうとしたことが蘇った。危険を知らせるサインは幾らでもあったのに、なぜ助けられなかったのか。

「事件のあった当日も、家を抜け出しきみに会いに行ったことに逆上ぎゃくじょうした父親から、気を失うまで暴行を受けたことがつづられていた。ジョシュア君は、意識がまれにはっきりする時を逃さず、証言をメモに書き留め、隠し持っていたらしい。実際、救急搬送はんそうされた彼の血液からは、通常では考えられない量の抗精神剤が検出されたんだ……。追求された主治医は、ブランデル氏の指示でジョシュア君を監禁していたことを自供したよ。警察はブランデルを、虐待と偽証、監禁の容疑で逮捕しに向かっているそうだ」

「ジョシュア…ジョシュアに会いたい……! 会わせてくれませんか?」

「いま緊急手術中らしい……。搬送先の病院まで送るよ。残酷なようだが、急いだ方がいい」

 これは夢だ……。留置所の硬いベッドでうなされている自分の悪夢に違いない。そうであってくれと願いながら、悠太郎はアダムの車に乗り込んだ。

 病院に着き、手術室の前に急ぐと、警官に付き添われたジョシュアの父、デイビッドと鉢合わせした。演説で見た、自信に満ちた誇らしげな表情はすっかり消え失せ、憔悴しょうすいしきっている。背広の上着で包んで隠されていたデイビッドの片手には、既に手錠が掛けられているようだった。悠太郎に気付くと、彼は憎しみに溢れた形相ぎょうそうで悠太郎につかみかかろうとし、警官に制止された。

「お前のせいだ……! お前のせいで、何もかもが狂ってしまったんだ! 私の輝かしい未来も…愛する息子も奪った……! 神に呪われた、この忌々いまいましい悪魔め……!」

 そう叫ぶと、彼は力なく崩れ折れ、声をあげて泣き始めた。悠太郎は、その言葉に反論出来ない。むしろ、呆然ぼうぜんと立ち尽くしたまま、それが事実だと胸の中でその言葉を反芻はんすうした。
 アダムが担当医と短く会話を交わし、悠太郎のもとへ戻ってきた。彼は少し蒼ざめ、ためらってから、悠太郎に小さな声で告げた。



「ユウタロウ……すまない。間に合わなかったよ」



 悠太郎は、視界がふっと真っ白に反転したかと思うと、体が硬いものにぶつかったような気がした。手足が冷たい……。血の気が引いていく。そう感じたのが最後だった。そしてそのまま、意識を失った。




 悠太郎の容疑は晴れ、不起訴となり自宅に戻された。彼は自宅に戻った夜、父親が洗面所の棚に保管していた睡眠薬を一びん飲み、昏睡こんすい状態の所を母親に発見された。

 母は半狂乱になって救急車を呼び、悠太郎は搬送はんそう先の病院で胃洗浄を受けて、容体が安定した二日後に退院した。釈放されてから一週間ほどが過ぎ、ちまたは感謝祭でにぎわっていた。だが彼は、自分の部屋で魂が抜けたようにうずくまっていた。

 母親が悠太郎に取りすがり、もう馬鹿な気を起こさないでくれと嘆き悲しむ姿を見て、再びジョシュアの後を追おうとすることは出来なかった。

 悠太郎は、泣くことも出来なかった。ジョシュアの命を奪ったも同然の自分に、我を忘れて嘆き悲しむ権利などない……。そう感じていたからだ。心が引き裂かれるほど辛いのに、どうしても涙は出ない。

 ただ無表情でじっとしたまま、食事もろくにとらない悠太郎を心配した母は、彼をセラピストの元へ通わせようとするが、悠太郎は大丈夫だとかたくなに断った。

 悠太郎の住む街でも、通っている大学でも、あの事件を知らない者はいなかった。それほど、大きなスキャンダルだったのだ。悠太郎の無実は証明されたが、ジョシュアの父は当選を果たしながらその当日に逮捕され失格となり、次点の候補が繰り上がって当選した。そして、一連の事件の発端ほったんはジョシュアと悠太郎の許されざる関係が原因だとうわさされ、同性愛を快く思わない人々から、心ない中傷が悠太郎だけでなく両親にも向けられていたのだ。悠太郎の自殺未遂はまだ世間には知られていなかったが、もしそれが知られたら、自殺が罪だとされる教義に反するとして、さらに激しいバッシングを受けることになる。

 そんなある日、父は悠太郎にある提案をした。悠太郎が通うミッション系の私立大学をいったん休学し、大学の姉妹校である東京の学校へ編入しないかというものだった。

 アメリカでは九月に新学年がスタートするが、日本では四月だ。すぐにでも日本へ発ち、静岡の叔母の家に下宿して日本語の専門学校に通い準備する。新学年がスタートする翌年四月に、学生寮に移り留学生活を始めたらどうかと、父はうながした。大学側が事情を考慮し、編入の手続きを進めてくれるという。日本には飛び級の制度はなく、悠太郎は年齢に見合う高校二年に編入することになる。

 それは提案というより、半ば強制だった。職場では陰口を叩かれ、自宅の近所では好奇の目にさらされ、父も精神的に参っていたのだ。悠太郎がアメリカを離れることで、誹謗中傷ひぼうちゅうしょうも和《やわ》らぐと期待したのかもしれない。

 悠太郎は、無気力にうなずいた。この家にも、この街にも、居場所はない……。そう痛感していた。母は、悠太郎がこんな状態だからこそ、そばにいてやりたいと猛反対したが、父は聞き入れなかった。こうして悠太郎は日本へ発ち、翌年、聖グレゴリウス学院に編入したのだった。
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