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第2章
出会い
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聖グレゴリウス学院は、創立より百年以上経つ由緒あるミッションスクールだ。
都心より離れた立地のため、緑豊かで広大な敷地内にある。赤レンガのアーチで造られた重厚な正門からは、校舎へとまっすぐに向かう長く幅広い道があり、その両側にはプラタナスの並木が続いていた。
荘厳にそびえ建つ西洋建築の校舎の玄関前の広場には、中央に天使ケルビムの彫刻をあしらった大きな円形の噴水があり、広場の片側には礼拝堂、もう片側には自習室を備えた図書館があった。
中高一貫教育の男子校だが、高等部からの入学や、他校からの編入も受け入れていた。学生寮も学校の敷地内にあり、中等部は四人部屋、高等部一年生までは二人部屋、二年生以上からは個室が割り当てられた。
悠太郎は夕方まで紘也と休日を過ごしたあと、学生寮へと向かった。個室を割り当てられてはいるが、長身の悠太郎にとって、寮の部屋はまるでクローゼットのような狭さに感じられる。
アメリカの戸建ての自宅には芝生を植えた大きな庭があり、自分の部屋も広かった。それでも、駄々広いだけのあの家で、息が詰まるような空気のなか両親と顔を突き合わせて暮らすよりは、狭くても学校の寮の方が数倍気が楽だった。
正門をくぐり、寮へ抜ける近道を通ろうと、悠太郎は芝生に夕暮の長い影を落とす木立の中を歩いていく。やがて、鬱蒼と繁る木々に囲まれた野外音楽堂に近付いた。
音楽堂の近くには、ローマ建築風の白い東屋もある。高床になっており、数段の階段が付いていた。それを昇ると、周囲を腰高のフェンスに囲まれた八角形の空間がある。
フェンスの内側にはベンチがぐるりと設置され、八本の支柱が屋根を支えていた。壁で覆われていないため、緑の中、風がさわやかに吹き抜ける気持ちの良い場所だった。悠太郎も、たまに授業を抜け出しそこで好きな本を読むことがある。
校舎からも寮からも見えないその東屋の辺りから、数人で言い争うような声が聞こえてきた。
屋内にコンサートホールがあるため、吹奏楽部や演劇部も、特別なイベント以外ではめったにこの野外音楽堂を利用しない。そのため、日中でもこの辺りは殆ど人気がなかった。寮への近道として、平日の朝夕に寮生がまれに行き来きする程度だ。
休日のこんな時間に何をしているのかと怪訝に思い、悠太郎は声のする方に近付いて行った。夕陽を受けオレンジ色に染まる東屋の中に、五人の少年たちが立っているのが見える。
「だからさ、なんでお前が出しゃばるんだよ、新道」
大柄で目つきの鋭い少年は、そう言いながら、小柄で華奢な少年の胸を強く小突いた。小柄な少年はバランスを崩し、ベンチに倒れこんだ。
「新道君!」
怯えた表情をした別の少年はそう叫ぶと、倒れた少年に駆け寄り、助け起こした。大柄な少年の後ろには、にやついている二人の仲間がいる。みな私服だが、おそらくこの学校の生徒だろう。絡んでいる側の少年たちが、嘲るように言った。
「これは、俺たちと園田の問題なんだよ。お前は関係ないだろ? ルームメイトだからって、正義の味方気取りか?」
「そうそう。園田と俺たちは親友なんだ。だからさ、園田は進んで小遣いを俺らに回してくれてるんだよ。まるで俺たちが脅してるみたいな言い方、よして欲しいよなぁ」
小柄な少年はうつむいていたが、やがて顔を上げた。怯えることなく、絡んでくる少年たちをまっすぐに見返す彼は、静かに話し始めた。
「園田は……本当は嫌がってると思う。江口、もうやめてくれよ。こんなの、どう考えたっておかしいだろ。園田が言いなりになってるのをいいことに、いつまでお金、巻き上げるつもりだよ?」
「へぇ……お前、女みたいな顔してるくせに、いい度胸してんじゃん。見直したぜ、新道樹季ちゃん。じゃ、これからは、お前が俺たちに小遣い分けてくれんの?」
そう馬鹿にするように言うと、江口と呼ばれた少年は樹季という少年の胸ぐらをつかみあげ、空いている手でスラックスのポケットから素早く財布を抜き取った。
悠太郎は少年が乱暴されているのに気付き、制止するために声を掛けようとした。アメリカで護身術を習っていたおかげで、彼らが反撃してきても、ねじ伏せられる自信はあった。しかし、樹季が毅然とした態度を崩さないせいか、割り込むことが躊躇われ、もう少しだけなりゆきを見守ることにした。
「やめろ! 返せよ!」
樹季は叫んで抵抗したが、他の仲間に羽交い締めにされ、取り押さえられた。おそらく樹季の友人であろう園田という少年は、よほど怖ろしいのか蒼ざめて立ち尽くしている。江口はこれ見よがしに、樹季の財布の中身を広げて見せた。
「やっぱりな。大して入ってない。お前ん家、田舎の小っちゃい工務店だっけ? 小遣いなんて知れた額だろ。お坊っちゃまの園田と違って、回してもらう気にもなりゃしない」
江口はそう言い、中身を勢いよく下にぶちまけたあと、財布を放り投げた。東屋の床に、硬貨が派手な音を立てて転がっていく。
「まぁ、園田がどうしても俺らと付き合うのが嫌だってんなら、無理強いはしないけどさ。親にでも、教師にでも、泣きついたら? 好きにしたらいいぜ。後でどうなるか解ってんだろうから。じゃあな、園田。せいぜい、樹季ちゃんと仲良くするんだな」
園田はそれを聞き、表情を強張らせた。江口と仲間の少年たちは、笑いながら東屋を出て、立ち去ろうとする。
「待って、俺も行くよ!」
園田も東屋の階段を駆け降り、彼らを追いかけようとした。樹季も、園田の後を追う。
「駄目だよ! 園田! こんなこと、続けてちゃ……きりがないよ!」
樹季は園田の腕をつかんで引き留めたが、彼はその手を振り払った。
「よけいなおせっかいは、よしてくれよ! 親や、まして先生になんか相談できる訳ないだろ! 密告したろうって、もっと酷い目に合うだけだ! きみに何ができるんだよ! もう……放っておいてくれよ!」
そのやりとりを聞いた江口が再び戻ってきて、樹季に向かって苛ついたように叫んだ。
「おい、新道! いいかげんにしろよ。園田は俺らの方がいいって言ってんだろ!」
江口は樹季と園田を引き離し、樹季を派手に突き飛ばした。体格のいい江口に突き飛ばされ、樹季は地面に転がり、服は土まみれになる。江口は樹季に近付き、腹を蹴り上げようと身構えた。ぎりぎりまで手出ししないつもりだった悠太郎も、黙って見ているにはこれが限界だった。
「おい、お前ら、そこで何してる!」
悠太郎が怒鳴りながら近付いていくと、江口たちは怯んだ。
「小野寺先輩、別に何でもないです。僕ら、これから帰るとこなんで。じゃあ、失礼します」
彼らは園田と肩を組むと、そそくさと寮の方へ去って行った。
悠太郎は、地面に転がったまま起き上がれずにいる樹季のそばに歩み寄ると、手を差し述べて言った。
「ケガしてないか? もう少し早く加勢したら良かったな。俺は、二年の小野寺だ」
樹季は悠太郎の手を取り、ようやく地面から立ち上がった。樹季の手を離す瞬間、それが小さく震えているのに、悠太郎は気付いた。
「だ……大丈夫です。俺……一年の、新道っていいます」
答えながら、樹季は服についた土をぎこちなく払った。悠太郎とは目を合わさず、うつむいたままだ。先ほどまでの毅然とした態度とうって変わって、今は泣きそうな顔で肩を小さく震わせている。
「ほんとに大丈夫か? 顔色、悪いぜ?」
「平気です。助けてくれて……ありがとうございます」
やっと気持ちが落ち着いたのか、樹季は悠太郎の顔を見上げる。彼の身長は、悠太郎の胸のあたり位だった。こんな頼りなげな細身の体で、よくあんなごつい相手に立ち向かっていったな……。悠太郎はそう思った。
すでに黄昏が近付き、樹季の癖のない艶のある髪が、淡い金色に変わった夕陽に染まり煌めいている。夕方の風が二人の周りの木々の梢を吹き渡り、さわさわと音を立てた。悠太郎は、見上げてくる樹季の顔を、改めて近くで見て息を呑んだ。
まだあどけなさの残る丸みのある頬から、すっと尖った顎に向かう、美しい輪郭。長い睫毛に縁取られた、どこか憂いを帯びた大きな二重の瞳。すっと通った鼻筋。ビスクドールのように白い肌と、形良くふっくらとした小さめの唇が、その容貌の端正さを際立たせていた。悠太郎は、樹季に懐かしい面影を見いだしたような気がして、目が離せなくなってしまう。ふと我に返ると、樹季に向かって少し冗談めかして言った。
「なに見とれてるんだよ。俺が男前すぎて、言葉も出ないか?」
「いえ…あの……。実は、寮の食堂で先輩を何度か見かけたことがあったんです。すごく背は高いし、カッコいいし……。てっきり、外国からの留学生だと思ってました。日本語、すごく上手いですよね」
悠太郎は、樹季が目を丸くして自分を見つめ続けるので、可笑しくなり笑いだした。
「俺は混血だよ。母親は日本人だから、日本語も話せる。へぇ、お前も寮生だったんだな。そうだ、財布、落としたままだろ?」
悠太郎は東屋に向かい、床に落ちた樹季の財布と、散らばっていた小銭を拾い始めた。樹季も慌てて後に続き、自分も拾い始める。悠太郎が拾い集めたものを差し出すと、樹季は申し訳なさそうに頭を下げた。悠太郎から財布を受け取り、中の内ポケットを確認した樹季は、さっと顔色を変えた。
「ない……お守りが……! 確かに、ここに入れておいたのに……! うそだ……どうしよう!」
樹季は真っ青になり、声を震わせて叫んだ。そんな樹季の様子に悠太郎も驚き、慌てて英語まじりの変な日本語になる。
「落ち着けよ。一緒に探してやるから……。えっと、オマモリ? アミュレットのこと? 神社でもらう、袋入りのやつか?」
「違うんです! アメリカの一セント硬貨なんですけど……。 銀のキーホルダーに着けてて……。きっとさっき、ここの床に落ちて……どっか行っちゃったんです!」
樹季はそう言いながら、這うようにして再び床の上を必死に探した。悠太郎も樹季と共に、床に膝をつき探すのを手伝う。隅々まで探したが、先ほど見落とした数枚の小銭の他は、何も見つからなかった。
「どうしよう……俺。あれ、無くしたら……無くしたら……」
樹季は呆然としたように小さくつぶやくと、東屋の階段に座り込んだ。悠太郎がそばに腰を下ろすと、樹季はとっさに白いニットの袖で顔を隠す。それでごしごしと顔を拭くと、赤く腫れた目で、悠太郎を見上げた。
「先輩、一緒に探してくれて……ありがとうございました。もう暗くなってきたし、先輩は、先に寮に帰って下さい。色々、迷惑かけて……すみませんでした」
そう言うと、樹季は立ち上がり、悠太郎に向かって深々と頭を下げた。
「お前はどうするんだ? まだ、探すのか?」
「はい。俺は、もう少し探していきます。この辺に落ちてることは、間違いないと思うんで……」
悠太郎は、出会ってまだ間もない樹季に、訳の解らない苛立ちを覚え、戸惑っていた。
初対面の人間、しかも先輩である自分に、気を遣うのは解る。でも、無くしてべそを掻くほど大切なものなら、なぜもっと一緒に探してくれと言わない。なぜ、もっと素直に自分を頼らないのかと無性に腹が立った。彼を置いて、言われるままにこの場を去ることなど、出来なかった。
「こうなったら意地だ。俺も、一緒に最後まで探してやる」
少し怒ったようにそう言い放つと、悠太郎は立ち上がり、東屋の階段を降りる。すでに夕闇が迫っていたが、近くに街灯は一つしかなく、周りをぼんやりと照らすだけだった。悠太郎は携帯のライトを点けて手元を明るくしながら、フェンスの外側の茂みを丹念に探し始めた。フェンスの柵の間隔は広く、樹季の落とし物はその隙間から外に転がり落ちたのかもしれない。
「先輩? あの……いいんですか……?」
不安そうに樹季も立ち上がり、悠太郎の後に続いた。二人して、おそらく一時間ほど探しただろうか。雑草に引っかかり、ライトにきらりと反射する銀色のものが、悠太郎の目に留まった。
「なあ、これじゃないのか?」
悠太郎がそれを手に取り樹季に見せると、樹季は目を見開いた。それは、銀製のチェーンの先に、一セント硬貨が着けられた小さなキーホルダーだった。
「これです! ありがとう…先輩……!」
樹季は力が抜けたように地面に座り込むと、そのキーホルダーを大事そうに握りしめ、胸の上に押し付けるようにした。よほど安心したのか、少しだけ肩を震わせ、泣いているようにも見える。顔を伏せ、うずくまってしまったため、その表情はよく解らなかった。悠太郎は、樹季の肩を軽くぽんと叩いて言った。
「まぁ、見つかって良かった。だけどお前、泥だらけだぞ。早く寮に帰ろう」
「はい……。すっかり遅くなっちゃって、すみません」
立ち上がった途端、樹季の腹がくううっと鳴った。樹季は街灯の明かりの下、やっと顔を上げ、恥ずかしそうに笑う。悠太郎もその笑顔を見て、ほっと安堵の溜息をついた。
「お前、飯、まだなのか? 腹減ってるみたいだな。今日は寮の食堂休みだけど、もうすぐ門限だし……今から何か買いに出る訳にもいかないか……」
「俺、カップ麺の買い置きならあります。そんなお礼しか出来なくて、すみませんけど……先輩、夕飯まだでしたら、一緒にいかがですか?」
「ああ、それじゃ……せっかくだし、もらおうかな」
悠太郎は紘也と一緒に夕食を済ませていた。父親と二人暮しの紘也は料理に慣れていて、手早くシーフードピラフとオニオンスープ、パストラミ入りのサラダを作ってくれたのだ。そのため空腹ではなかったが、樹季の申し出を断れなかった。何より、彼ともっと話をしてみたいと思う自分がいた。
寮へ向かう道の途中、樹季は悠太郎に何度も礼を言った。キーホルダーが見つかったことが、よほど嬉しかったのだろうか。門限の八時には何とか間に合い、一緒に食事をする約束をして、エントランスで一旦別れた。
寮の食堂は日曜定休だが、備え付けの電子レンジやポットのお湯は自由に使えた。樹季はシャワーを済ませてから慌てて食堂に駆けつけてきたらしく、髪の毛はまだ湿っている。二人はカップ麺にお湯を注ぎ、細長いテーブルの端に向かい合って座った。時刻は午後八時半を過ぎていて、五十人ほどを収納できるダイニングルームには、他に誰もおらずしんとしている。悠太郎とすっかり打ち解けたのか、樹季は会話の途中でときおり楽しそうに笑った。
ルームメイトの園田と衝突した樹季は、しばらく気まずい思いで暮らさなければならないだろう。悠太郎は、それが気になっていた。
「新道、お前……本当は、あいつらとやりあうの、怖かったんじゃないのか? 後で震えてただろ。園田とそれほど仲がいいようにも見えないし……どうして、あそこまでしたんだ?」
樹季は猫舌らしく、湯気の立つ麺を箸で持ち上げ、息を吹きかけて冷ましていた。思いがけないことを訊かれたのか、驚いたように顔を上げた。
「それは……」
「あいつらが言ってたみたいに、正義感からか?」
「いえ、そんなに立派なものじゃないんです。園田とは同室だし、クラスメイトだから、力になりたかっただけです。それに……」
樹季は箸を置き、少しだけ頬を赤らめ、うつむいて続けた。
「地元の幼馴染みが、いつも俺のことを庇ってくれたんです。俺らが通った学校はもっとのんびりしてて、あんなに酷いやつらはいなかったけど。きっとその友人なら、園田のこと、放っておかないだろうと思ったんです」
悠太郎は少し迷ったが、さらに踏み込んだ質問をした。
「そうか……。でも、そんなに仲のいい親友がいたのに、地元を離れて進学したんだな。この学校を選んだってことは、クリスチャンなのか? それとも純粋に、大学受験のためか?」
「いいえ、無宗教だし……。ここに受かるには偏差値もぎりぎりだったんで、親や担任は地元の高校を薦めてました。だけど……」
樹季は、少し困ったように言い淀み、顔を曇らせた。
「いや……言いたくなければいいんだ。なんか、詮索したみたいで、悪かった」
悠太郎が真顔になり謝ると、樹季は慌てて遮った。
「そんな、詮索だなんて思ってないです! 謝らないでください。俺……今日、先輩のおかげで、どれだけ助かったかしれないのに……」
樹季は自分のことを、言葉少なに話し始めた。幼い頃、父親の暴力から逃れるように、母子で東京から館山に移り、中学生までを過ごしたこと。十四歳のとき、やっと再会できた父を病気で亡くしたこと。母の再婚で経済的には恵まれるようになったが、新しい家に馴染めず、表向きは大学進学のためと親を説得し、寮のある他県の高校を自分で探して受験したことなどを、悠太郎に伝えた。
「俺、体よく家出したようなもんなんです。母さんはすごく寂しいはずなのに、最後には許してくれた。だから俺、さっきのこともそうだけど……。一人でなんとかできる……やらなきゃと思ったんです。今までみたいに、困ったらすぐ誰かに泣きつくのはよそうって。じゃないと俺、ただ逃げ出しただけのクズみたいだし」
体のいい家出、逃げ出しただけのクズ……。悠太郎には、その言葉が他人事でなく、ひどく辛辣に聞こえた。もちろん、樹季は悠太郎について何も知らない。他意などあるはずがない。出会って間もないのに、心を開いてくれたからこそ、ここまで話してくれたのだ。
「じゃあお前、どんなに困っても、誰かに相談しようとか……助けを呼ぼうとは、しないってことか?」
「俺……今までは、その親友がいてくれないと、何も出来ないやつだったんです。でも、いつまでもあいつを頼れないし、ちょっとでも、強くなれたらって」
「そうか……。偉いとは思うけど、そんな萌やしみたいな体で、無茶するなよ。一人でどうしようもなくなった時は、誰かに頼れ。誰もいなきゃ、俺でもいい。自己犠牲に酔ってるだけじゃ、何も解決しないぜ。それこそ自己満足だ。園田の件だって……そうだったろ?」
「はい。そうですね……。ありがとう。小野寺先輩」
樹季は、少し戸惑いながらも、微笑んでうなずいた。食べやすい温度にまで冷めたのか、カップ麺の容器を両手で持ち上げ、スープを美味しそうにすすった。
悠太郎は、自らが口に出した言葉に驚いていた。アメリカでのあの事件を境に、他人との距離を必要以上に縮めすぎないよう、関心を持ちすぎないよう、常に意識していたのだ。身体を許してくれる紘也の家庭の事情さえ、ここまで踏み込んで訊いたことはない。それなのに、今は無性に樹季のことが気になった。
ひ弱そうで、どう見ても泣き虫の寂しがり屋のくせに、一人でやっていけると意地になり、強がっている。そんな純粋な頑固さの裏に、何かのきっかけで砕けてしまう、ガラスの脆さを秘めているのではないか。そんな印象が、失ってしまった大切な人を思い出させた。だから放っておけない。無茶をしないか不安になる。
こいつは、ジョシュアじゃない……。どことなく、感じが似ているだけだ。
悠太郎は、樹季を見つめながら、幾度も、自分にそう言い聞かせていた。
都心より離れた立地のため、緑豊かで広大な敷地内にある。赤レンガのアーチで造られた重厚な正門からは、校舎へとまっすぐに向かう長く幅広い道があり、その両側にはプラタナスの並木が続いていた。
荘厳にそびえ建つ西洋建築の校舎の玄関前の広場には、中央に天使ケルビムの彫刻をあしらった大きな円形の噴水があり、広場の片側には礼拝堂、もう片側には自習室を備えた図書館があった。
中高一貫教育の男子校だが、高等部からの入学や、他校からの編入も受け入れていた。学生寮も学校の敷地内にあり、中等部は四人部屋、高等部一年生までは二人部屋、二年生以上からは個室が割り当てられた。
悠太郎は夕方まで紘也と休日を過ごしたあと、学生寮へと向かった。個室を割り当てられてはいるが、長身の悠太郎にとって、寮の部屋はまるでクローゼットのような狭さに感じられる。
アメリカの戸建ての自宅には芝生を植えた大きな庭があり、自分の部屋も広かった。それでも、駄々広いだけのあの家で、息が詰まるような空気のなか両親と顔を突き合わせて暮らすよりは、狭くても学校の寮の方が数倍気が楽だった。
正門をくぐり、寮へ抜ける近道を通ろうと、悠太郎は芝生に夕暮の長い影を落とす木立の中を歩いていく。やがて、鬱蒼と繁る木々に囲まれた野外音楽堂に近付いた。
音楽堂の近くには、ローマ建築風の白い東屋もある。高床になっており、数段の階段が付いていた。それを昇ると、周囲を腰高のフェンスに囲まれた八角形の空間がある。
フェンスの内側にはベンチがぐるりと設置され、八本の支柱が屋根を支えていた。壁で覆われていないため、緑の中、風がさわやかに吹き抜ける気持ちの良い場所だった。悠太郎も、たまに授業を抜け出しそこで好きな本を読むことがある。
校舎からも寮からも見えないその東屋の辺りから、数人で言い争うような声が聞こえてきた。
屋内にコンサートホールがあるため、吹奏楽部や演劇部も、特別なイベント以外ではめったにこの野外音楽堂を利用しない。そのため、日中でもこの辺りは殆ど人気がなかった。寮への近道として、平日の朝夕に寮生がまれに行き来きする程度だ。
休日のこんな時間に何をしているのかと怪訝に思い、悠太郎は声のする方に近付いて行った。夕陽を受けオレンジ色に染まる東屋の中に、五人の少年たちが立っているのが見える。
「だからさ、なんでお前が出しゃばるんだよ、新道」
大柄で目つきの鋭い少年は、そう言いながら、小柄で華奢な少年の胸を強く小突いた。小柄な少年はバランスを崩し、ベンチに倒れこんだ。
「新道君!」
怯えた表情をした別の少年はそう叫ぶと、倒れた少年に駆け寄り、助け起こした。大柄な少年の後ろには、にやついている二人の仲間がいる。みな私服だが、おそらくこの学校の生徒だろう。絡んでいる側の少年たちが、嘲るように言った。
「これは、俺たちと園田の問題なんだよ。お前は関係ないだろ? ルームメイトだからって、正義の味方気取りか?」
「そうそう。園田と俺たちは親友なんだ。だからさ、園田は進んで小遣いを俺らに回してくれてるんだよ。まるで俺たちが脅してるみたいな言い方、よして欲しいよなぁ」
小柄な少年はうつむいていたが、やがて顔を上げた。怯えることなく、絡んでくる少年たちをまっすぐに見返す彼は、静かに話し始めた。
「園田は……本当は嫌がってると思う。江口、もうやめてくれよ。こんなの、どう考えたっておかしいだろ。園田が言いなりになってるのをいいことに、いつまでお金、巻き上げるつもりだよ?」
「へぇ……お前、女みたいな顔してるくせに、いい度胸してんじゃん。見直したぜ、新道樹季ちゃん。じゃ、これからは、お前が俺たちに小遣い分けてくれんの?」
そう馬鹿にするように言うと、江口と呼ばれた少年は樹季という少年の胸ぐらをつかみあげ、空いている手でスラックスのポケットから素早く財布を抜き取った。
悠太郎は少年が乱暴されているのに気付き、制止するために声を掛けようとした。アメリカで護身術を習っていたおかげで、彼らが反撃してきても、ねじ伏せられる自信はあった。しかし、樹季が毅然とした態度を崩さないせいか、割り込むことが躊躇われ、もう少しだけなりゆきを見守ることにした。
「やめろ! 返せよ!」
樹季は叫んで抵抗したが、他の仲間に羽交い締めにされ、取り押さえられた。おそらく樹季の友人であろう園田という少年は、よほど怖ろしいのか蒼ざめて立ち尽くしている。江口はこれ見よがしに、樹季の財布の中身を広げて見せた。
「やっぱりな。大して入ってない。お前ん家、田舎の小っちゃい工務店だっけ? 小遣いなんて知れた額だろ。お坊っちゃまの園田と違って、回してもらう気にもなりゃしない」
江口はそう言い、中身を勢いよく下にぶちまけたあと、財布を放り投げた。東屋の床に、硬貨が派手な音を立てて転がっていく。
「まぁ、園田がどうしても俺らと付き合うのが嫌だってんなら、無理強いはしないけどさ。親にでも、教師にでも、泣きついたら? 好きにしたらいいぜ。後でどうなるか解ってんだろうから。じゃあな、園田。せいぜい、樹季ちゃんと仲良くするんだな」
園田はそれを聞き、表情を強張らせた。江口と仲間の少年たちは、笑いながら東屋を出て、立ち去ろうとする。
「待って、俺も行くよ!」
園田も東屋の階段を駆け降り、彼らを追いかけようとした。樹季も、園田の後を追う。
「駄目だよ! 園田! こんなこと、続けてちゃ……きりがないよ!」
樹季は園田の腕をつかんで引き留めたが、彼はその手を振り払った。
「よけいなおせっかいは、よしてくれよ! 親や、まして先生になんか相談できる訳ないだろ! 密告したろうって、もっと酷い目に合うだけだ! きみに何ができるんだよ! もう……放っておいてくれよ!」
そのやりとりを聞いた江口が再び戻ってきて、樹季に向かって苛ついたように叫んだ。
「おい、新道! いいかげんにしろよ。園田は俺らの方がいいって言ってんだろ!」
江口は樹季と園田を引き離し、樹季を派手に突き飛ばした。体格のいい江口に突き飛ばされ、樹季は地面に転がり、服は土まみれになる。江口は樹季に近付き、腹を蹴り上げようと身構えた。ぎりぎりまで手出ししないつもりだった悠太郎も、黙って見ているにはこれが限界だった。
「おい、お前ら、そこで何してる!」
悠太郎が怒鳴りながら近付いていくと、江口たちは怯んだ。
「小野寺先輩、別に何でもないです。僕ら、これから帰るとこなんで。じゃあ、失礼します」
彼らは園田と肩を組むと、そそくさと寮の方へ去って行った。
悠太郎は、地面に転がったまま起き上がれずにいる樹季のそばに歩み寄ると、手を差し述べて言った。
「ケガしてないか? もう少し早く加勢したら良かったな。俺は、二年の小野寺だ」
樹季は悠太郎の手を取り、ようやく地面から立ち上がった。樹季の手を離す瞬間、それが小さく震えているのに、悠太郎は気付いた。
「だ……大丈夫です。俺……一年の、新道っていいます」
答えながら、樹季は服についた土をぎこちなく払った。悠太郎とは目を合わさず、うつむいたままだ。先ほどまでの毅然とした態度とうって変わって、今は泣きそうな顔で肩を小さく震わせている。
「ほんとに大丈夫か? 顔色、悪いぜ?」
「平気です。助けてくれて……ありがとうございます」
やっと気持ちが落ち着いたのか、樹季は悠太郎の顔を見上げる。彼の身長は、悠太郎の胸のあたり位だった。こんな頼りなげな細身の体で、よくあんなごつい相手に立ち向かっていったな……。悠太郎はそう思った。
すでに黄昏が近付き、樹季の癖のない艶のある髪が、淡い金色に変わった夕陽に染まり煌めいている。夕方の風が二人の周りの木々の梢を吹き渡り、さわさわと音を立てた。悠太郎は、見上げてくる樹季の顔を、改めて近くで見て息を呑んだ。
まだあどけなさの残る丸みのある頬から、すっと尖った顎に向かう、美しい輪郭。長い睫毛に縁取られた、どこか憂いを帯びた大きな二重の瞳。すっと通った鼻筋。ビスクドールのように白い肌と、形良くふっくらとした小さめの唇が、その容貌の端正さを際立たせていた。悠太郎は、樹季に懐かしい面影を見いだしたような気がして、目が離せなくなってしまう。ふと我に返ると、樹季に向かって少し冗談めかして言った。
「なに見とれてるんだよ。俺が男前すぎて、言葉も出ないか?」
「いえ…あの……。実は、寮の食堂で先輩を何度か見かけたことがあったんです。すごく背は高いし、カッコいいし……。てっきり、外国からの留学生だと思ってました。日本語、すごく上手いですよね」
悠太郎は、樹季が目を丸くして自分を見つめ続けるので、可笑しくなり笑いだした。
「俺は混血だよ。母親は日本人だから、日本語も話せる。へぇ、お前も寮生だったんだな。そうだ、財布、落としたままだろ?」
悠太郎は東屋に向かい、床に落ちた樹季の財布と、散らばっていた小銭を拾い始めた。樹季も慌てて後に続き、自分も拾い始める。悠太郎が拾い集めたものを差し出すと、樹季は申し訳なさそうに頭を下げた。悠太郎から財布を受け取り、中の内ポケットを確認した樹季は、さっと顔色を変えた。
「ない……お守りが……! 確かに、ここに入れておいたのに……! うそだ……どうしよう!」
樹季は真っ青になり、声を震わせて叫んだ。そんな樹季の様子に悠太郎も驚き、慌てて英語まじりの変な日本語になる。
「落ち着けよ。一緒に探してやるから……。えっと、オマモリ? アミュレットのこと? 神社でもらう、袋入りのやつか?」
「違うんです! アメリカの一セント硬貨なんですけど……。 銀のキーホルダーに着けてて……。きっとさっき、ここの床に落ちて……どっか行っちゃったんです!」
樹季はそう言いながら、這うようにして再び床の上を必死に探した。悠太郎も樹季と共に、床に膝をつき探すのを手伝う。隅々まで探したが、先ほど見落とした数枚の小銭の他は、何も見つからなかった。
「どうしよう……俺。あれ、無くしたら……無くしたら……」
樹季は呆然としたように小さくつぶやくと、東屋の階段に座り込んだ。悠太郎がそばに腰を下ろすと、樹季はとっさに白いニットの袖で顔を隠す。それでごしごしと顔を拭くと、赤く腫れた目で、悠太郎を見上げた。
「先輩、一緒に探してくれて……ありがとうございました。もう暗くなってきたし、先輩は、先に寮に帰って下さい。色々、迷惑かけて……すみませんでした」
そう言うと、樹季は立ち上がり、悠太郎に向かって深々と頭を下げた。
「お前はどうするんだ? まだ、探すのか?」
「はい。俺は、もう少し探していきます。この辺に落ちてることは、間違いないと思うんで……」
悠太郎は、出会ってまだ間もない樹季に、訳の解らない苛立ちを覚え、戸惑っていた。
初対面の人間、しかも先輩である自分に、気を遣うのは解る。でも、無くしてべそを掻くほど大切なものなら、なぜもっと一緒に探してくれと言わない。なぜ、もっと素直に自分を頼らないのかと無性に腹が立った。彼を置いて、言われるままにこの場を去ることなど、出来なかった。
「こうなったら意地だ。俺も、一緒に最後まで探してやる」
少し怒ったようにそう言い放つと、悠太郎は立ち上がり、東屋の階段を降りる。すでに夕闇が迫っていたが、近くに街灯は一つしかなく、周りをぼんやりと照らすだけだった。悠太郎は携帯のライトを点けて手元を明るくしながら、フェンスの外側の茂みを丹念に探し始めた。フェンスの柵の間隔は広く、樹季の落とし物はその隙間から外に転がり落ちたのかもしれない。
「先輩? あの……いいんですか……?」
不安そうに樹季も立ち上がり、悠太郎の後に続いた。二人して、おそらく一時間ほど探しただろうか。雑草に引っかかり、ライトにきらりと反射する銀色のものが、悠太郎の目に留まった。
「なあ、これじゃないのか?」
悠太郎がそれを手に取り樹季に見せると、樹季は目を見開いた。それは、銀製のチェーンの先に、一セント硬貨が着けられた小さなキーホルダーだった。
「これです! ありがとう…先輩……!」
樹季は力が抜けたように地面に座り込むと、そのキーホルダーを大事そうに握りしめ、胸の上に押し付けるようにした。よほど安心したのか、少しだけ肩を震わせ、泣いているようにも見える。顔を伏せ、うずくまってしまったため、その表情はよく解らなかった。悠太郎は、樹季の肩を軽くぽんと叩いて言った。
「まぁ、見つかって良かった。だけどお前、泥だらけだぞ。早く寮に帰ろう」
「はい……。すっかり遅くなっちゃって、すみません」
立ち上がった途端、樹季の腹がくううっと鳴った。樹季は街灯の明かりの下、やっと顔を上げ、恥ずかしそうに笑う。悠太郎もその笑顔を見て、ほっと安堵の溜息をついた。
「お前、飯、まだなのか? 腹減ってるみたいだな。今日は寮の食堂休みだけど、もうすぐ門限だし……今から何か買いに出る訳にもいかないか……」
「俺、カップ麺の買い置きならあります。そんなお礼しか出来なくて、すみませんけど……先輩、夕飯まだでしたら、一緒にいかがですか?」
「ああ、それじゃ……せっかくだし、もらおうかな」
悠太郎は紘也と一緒に夕食を済ませていた。父親と二人暮しの紘也は料理に慣れていて、手早くシーフードピラフとオニオンスープ、パストラミ入りのサラダを作ってくれたのだ。そのため空腹ではなかったが、樹季の申し出を断れなかった。何より、彼ともっと話をしてみたいと思う自分がいた。
寮へ向かう道の途中、樹季は悠太郎に何度も礼を言った。キーホルダーが見つかったことが、よほど嬉しかったのだろうか。門限の八時には何とか間に合い、一緒に食事をする約束をして、エントランスで一旦別れた。
寮の食堂は日曜定休だが、備え付けの電子レンジやポットのお湯は自由に使えた。樹季はシャワーを済ませてから慌てて食堂に駆けつけてきたらしく、髪の毛はまだ湿っている。二人はカップ麺にお湯を注ぎ、細長いテーブルの端に向かい合って座った。時刻は午後八時半を過ぎていて、五十人ほどを収納できるダイニングルームには、他に誰もおらずしんとしている。悠太郎とすっかり打ち解けたのか、樹季は会話の途中でときおり楽しそうに笑った。
ルームメイトの園田と衝突した樹季は、しばらく気まずい思いで暮らさなければならないだろう。悠太郎は、それが気になっていた。
「新道、お前……本当は、あいつらとやりあうの、怖かったんじゃないのか? 後で震えてただろ。園田とそれほど仲がいいようにも見えないし……どうして、あそこまでしたんだ?」
樹季は猫舌らしく、湯気の立つ麺を箸で持ち上げ、息を吹きかけて冷ましていた。思いがけないことを訊かれたのか、驚いたように顔を上げた。
「それは……」
「あいつらが言ってたみたいに、正義感からか?」
「いえ、そんなに立派なものじゃないんです。園田とは同室だし、クラスメイトだから、力になりたかっただけです。それに……」
樹季は箸を置き、少しだけ頬を赤らめ、うつむいて続けた。
「地元の幼馴染みが、いつも俺のことを庇ってくれたんです。俺らが通った学校はもっとのんびりしてて、あんなに酷いやつらはいなかったけど。きっとその友人なら、園田のこと、放っておかないだろうと思ったんです」
悠太郎は少し迷ったが、さらに踏み込んだ質問をした。
「そうか……。でも、そんなに仲のいい親友がいたのに、地元を離れて進学したんだな。この学校を選んだってことは、クリスチャンなのか? それとも純粋に、大学受験のためか?」
「いいえ、無宗教だし……。ここに受かるには偏差値もぎりぎりだったんで、親や担任は地元の高校を薦めてました。だけど……」
樹季は、少し困ったように言い淀み、顔を曇らせた。
「いや……言いたくなければいいんだ。なんか、詮索したみたいで、悪かった」
悠太郎が真顔になり謝ると、樹季は慌てて遮った。
「そんな、詮索だなんて思ってないです! 謝らないでください。俺……今日、先輩のおかげで、どれだけ助かったかしれないのに……」
樹季は自分のことを、言葉少なに話し始めた。幼い頃、父親の暴力から逃れるように、母子で東京から館山に移り、中学生までを過ごしたこと。十四歳のとき、やっと再会できた父を病気で亡くしたこと。母の再婚で経済的には恵まれるようになったが、新しい家に馴染めず、表向きは大学進学のためと親を説得し、寮のある他県の高校を自分で探して受験したことなどを、悠太郎に伝えた。
「俺、体よく家出したようなもんなんです。母さんはすごく寂しいはずなのに、最後には許してくれた。だから俺、さっきのこともそうだけど……。一人でなんとかできる……やらなきゃと思ったんです。今までみたいに、困ったらすぐ誰かに泣きつくのはよそうって。じゃないと俺、ただ逃げ出しただけのクズみたいだし」
体のいい家出、逃げ出しただけのクズ……。悠太郎には、その言葉が他人事でなく、ひどく辛辣に聞こえた。もちろん、樹季は悠太郎について何も知らない。他意などあるはずがない。出会って間もないのに、心を開いてくれたからこそ、ここまで話してくれたのだ。
「じゃあお前、どんなに困っても、誰かに相談しようとか……助けを呼ぼうとは、しないってことか?」
「俺……今までは、その親友がいてくれないと、何も出来ないやつだったんです。でも、いつまでもあいつを頼れないし、ちょっとでも、強くなれたらって」
「そうか……。偉いとは思うけど、そんな萌やしみたいな体で、無茶するなよ。一人でどうしようもなくなった時は、誰かに頼れ。誰もいなきゃ、俺でもいい。自己犠牲に酔ってるだけじゃ、何も解決しないぜ。それこそ自己満足だ。園田の件だって……そうだったろ?」
「はい。そうですね……。ありがとう。小野寺先輩」
樹季は、少し戸惑いながらも、微笑んでうなずいた。食べやすい温度にまで冷めたのか、カップ麺の容器を両手で持ち上げ、スープを美味しそうにすすった。
悠太郎は、自らが口に出した言葉に驚いていた。アメリカでのあの事件を境に、他人との距離を必要以上に縮めすぎないよう、関心を持ちすぎないよう、常に意識していたのだ。身体を許してくれる紘也の家庭の事情さえ、ここまで踏み込んで訊いたことはない。それなのに、今は無性に樹季のことが気になった。
ひ弱そうで、どう見ても泣き虫の寂しがり屋のくせに、一人でやっていけると意地になり、強がっている。そんな純粋な頑固さの裏に、何かのきっかけで砕けてしまう、ガラスの脆さを秘めているのではないか。そんな印象が、失ってしまった大切な人を思い出させた。だから放っておけない。無茶をしないか不安になる。
こいつは、ジョシュアじゃない……。どことなく、感じが似ているだけだ。
悠太郎は、樹季を見つめながら、幾度も、自分にそう言い聞かせていた。
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