上 下
5 / 6

楊貴妃

しおりを挟む
 玉環をめぐる話は、かなり脚色されて世間に流された。
 寿王妃であった彼女は、遙か以前に亡くなった皇太后の供養をしたいと願い出て夫の元を去り、出家して女道士として祈りを続けた。そんな噂が宮中に届き、殊勝であると思った玄宗皇帝が彼女を召し、そばに置くようになった。――皇帝ともあろう者が、自分の息子の嫁を奪ったという悪評を、できるだけ漂白するための茶番である。

 上の説により、寿王は命を失わずに済んだ。弟の李琦が話を信じて励ましに来たりしたので、寿王は苦笑したものである。
 蒼天は玉環の引っ越し要員に駆り出され、しばらく寿王は一人きりだった。年月を越え、ようやく戻ってきた蒼天は、あれからの事情を説明してくれた。
「玉環様は、陛下のお妃になる事を条件に、今後あなたには手出ししないよう約束させたわ。陛下も後ろめたいところがおありだから、承知なさったみたい」
 寿王は何も言わず、ただ頷いた。謀反の疑いが消え、白々しい美談が広められたのは、父なりの謝罪のつもりなのかもしれない。玉環の尽力は嬉しかったが、かと言って命が助かって良かったと脳天気に喜べるわけもなかった。
「あの時、玉環様を介抱しながら言ったの。『切り札は、あなたが持っています。私も寿王様も、あなたに命を預けます』」
「ああ。確かにそうだった」
 寿王は、もう遠い昔を思い出すように言った。
「ちゃんと聞いて、寿王。玉環様は、最後にあなたと心が通じて、本当に嬉しかったと言っていた。それだけはどうしても伝えて欲しいと」
「そうか」
 寿王は玉環の姿を思い描いた。もっと早くに心が通じていれば、どうなっただろうか。そんな事をふと思った。
「……もう、手紙も渡せないのかな」
「許されないでしょうね」
「分かった。あきらめよう。……そうだ、お前にも礼を言っておきたい。よく僕を止め、玉環を動かしてくれた」
「あなたが勅使を殴れば、相手の思う壷だもの。咄嗟に身体が動いたわ。でも、私が殴ったらあいつが動転したでしょ。そこを玉環様が締めた」
「そんじょそこらの団結では、できない事だったな」
 寿王はそう言って笑った。玉環がいなくなってから、やっと出せた笑顔だった。蒼天もそれを見て、笑顔を見せた。

 玉環は出家して女道士となった後、楊太真と名を変え、玄宗に嫁いだ。彼女を迎えた玄宗はその美貌の虜になり、それこそ朝から晩まで側に置いた。やがて玄宗は彼女に貴妃の位を賜り、こうしてかの有名な楊貴妃が誕生したのである。
 当人からの連絡は全くなくなったが、楊貴妃の評判は窓を開ければ風が入るように流れて来た。
 玄宗は政務を放っぽり出して毎日のように宴を繰り返し、楊貴妃自身もどんどん贅沢になって行った。彼女の親類たちは貴族となって都を我が者顔で歩き、奢侈と享楽に耽っている。
 国そのものが狂乱している。寿王にはそんなふうに見えた。父が堕落して来たのは見えていたが、楊貴妃となった玉環がそれを助長している事が、寿王の心には痛かった。

 またある日、蒼天はある事を伝えるために寿王の部屋を訪れた。しかし自分が話し出す前に、寿王が話を始めた。
「玉環なら、父を叩き直せるかもしれない。彼女が行った後で、僕はそう期待した。しかし現実はひどいもんだ。彼女がもたらしたのは、この唐王朝始まって以来の莫大な浪費だよ」
 寿王は吐き捨てるように言った。それは事実である。悲しさがこみ上げて来た蒼天は、懐から一通の手紙を出して寿王に渡した。
「玉環様が、あなた宛にくれた手紙よ。楊玉環という方の、最後の言葉がそこにあるわ。……見せるのが辛くて、今日まで渡せなかったけれど」
 寿王は受け取って目を通した。その中には、皇帝という最高権力者を取り巻く、分厚くて不気味な力の場に飲まれる彼女の意識が綴られていた。――過去の記憶が日毎に薄められ、始めから宮中で生活していたような感覚が植え付けられてくる。その新しい自分が、古い自分を徐々に意識の隅に追いやって行く。ごめんなさいあなた、玉環は死にました。楊貴妃は、私の姿をして、しかし私ではないのです――
 寿王は、手紙を破り捨てた。蒼天は心配な目で見たが、しかし彼の表情は落ち着いていた。
「僕もかつては、皇帝になり得る人間だった。あの場に行けば、僕だって自分を見失ってしまうかもしれない。玉環を責める事は、誰にもできないな」
 毅然とした寿王を見て、蒼天は安心して微笑んだ。これでやっと、今日の本題を口にする事ができる。
「寿王、私も今日でお別れするわ。……私、結婚する事になったの」
 寿王は、その場で停止した。目だけが蒼天を見ていた。そのままずいぶん長い時間が過ぎたように、蒼天は感じた。
「……そうか。幸せにな」
 寿王は優しく微笑んでいた。女ではなく、人を見ている目だ、と蒼天は分かった。
「親が決めた縁談よ。どんな相手か、顔も知らない」
「遠くへ、行くのか?」
「洛陽へ。ちょっと東ね」
「そうか。自由な身なら、遊びにも行けるが」
 実際のところ、寿王はまだ要注意人物として見られていた。勝手に都を出る事は許されていない。寿王の笑顔が寂しくなったのを見て、蒼天は逆に笑って見せた。
「……じゃあ、さよなら」
 笑っては見せたが、言葉は出なかった。蒼天は黙って包みを一つ卓に置くと、静かに部屋を出た。寿王も無言で、彼女を見送っていた。

 寿王が扉を閉め、置かれた包みを開けてみると、それは作りたての蜜団子菓子だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

「死の力学」の兵法家・呉起

城 作也
歴史・時代
呉起は、呉子とも呼ばれ、孫子と並んで中国古代の兵法家として名高い。 しかし誰も、彼のように生きたいとは思わないであろう。 生まれるのが早すぎた天才と、世は彼を評す。

毛利隆元 ~総領の甚六~

秋山風介
歴史・時代
えー、名将・毛利元就の目下の悩みは、イマイチしまりのない長男・隆元クンでございました──。 父や弟へのコンプレックスにまみれた男が、いかにして自分の才覚を知り、毛利家の命運をかけた『厳島の戦い』を主導するに至ったのかを描く意欲作。 史実を捨てたり拾ったりしながら、なるべくポップに書いておりますので、歴史苦手だなーって方も読んでいただけると嬉しいです。

信長の弟

浮田葉子
歴史・時代
尾張国の守護代の配下に三奉行家と呼ばれる家があった。 その家のひとつを弾正忠家といった。当主は織田信秀。 信秀の息子に信長と信勝という兄弟がいた。 兄は大うつけ(大バカ者)、弟は品行方正と名高かった。 兄を廃嫡し、弟に家督を継がせよと専らの評判である。 信勝は美貌で利発な上、優しかった。男女問わず人に好かれた。 その信勝の話。

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

朝敵、まかり通る

伊賀谷
歴史・時代
これが令和の忍法帖! 時は幕末。 薩摩藩が江戸に総攻撃をするべく進軍を開始した。 江戸が焦土と化すまであと十日。 江戸を救うために、徳川慶喜の名代として山岡鉄太郎が駿府へと向かう。 守るは、清水次郎長の子分たち。 迎え撃つは、薩摩藩が放った鬼の裔と呼ばれる八瀬鬼童衆。 ここに五対五の時代伝奇バトルが開幕する。

御懐妊

戸沢一平
歴史・時代
 戦国時代の末期、出羽の国における白鳥氏と最上氏によるこの地方の覇権をめぐる物語である。  白鳥十郎長久は、最上義光の娘布姫を正室に迎えており最上氏とは表面上は良好な関係であったが、最上氏に先んじて出羽国の領主となるべく虎視淡々と準備を進めていた。そして、天下の情勢は織田信長に勢いがあると見るや、名馬白雲雀を献上して、信長に出羽国領主と認めてもらおうとする。  信長からは更に鷹を献上するよう要望されたことから、出羽一の鷹と評判の逸物を手に入れようとするが持ち主は白鳥氏に恨みを持つ者だった。鷹は譲れないという。  そんな中、布姫が懐妊する。めでたい事ではあるが、生まれてくる子は最上義光の孫でもあり、白鳥にとっては相応の対応が必要となった。

戦国異聞序章 鎌倉幕府の支配体制確立と崩壊

Ittoh
歴史・時代
戦国異聞  鎌倉時代は、非常に面白い時代です。複数の権威権力が、既存勢力として複数存在し、錯綜した政治体制を築いていました。  その鎌倉時代が源平合戦異聞によって、源氏三代、頼朝、頼家、実朝で終焉を迎えるのではなく、源氏を武家の統領とする、支配体制が全国へと浸透展開する時代であったとしたらというif歴史物語です。

どこまでも付いていきます下駄の雪

楠乃小玉
歴史・時代
東海一の弓取りと呼ばれた三河、遠州、駿河の三国の守護、今川家の重臣として生まれた 一宮左兵衛は、勤勉で有能な君主今川義元をなんとしても今川家の国主にしようと奮闘する。 今川義元と共に生きた忠臣の物語。 今川と織田との戦いを、主に今川の視点から描いていきます。

処理中です...