5 / 10
第5話 急転直下、あるいは予測しうる出来事
しおりを挟む
佐伯カコが住んでいる場所は、思ったよりもコンビニから離れていなかった。歩いて十分と言ったところだろうか。
オレンジの壁は日に褪せて、色がぼけている。手すりや鉄柱、雨樋の塗装も剥げ落ちており、一部は錆びていた。
新しい集合住宅の建設が禁止のこの地域では、年季の入ったアパートやマンションはよく見かける。それでも、ここまでおんぼろなアパートは珍しかった。
目的の人物の部屋は拍子抜けするほど、簡単に見つかった。
アパートの一階、一番手前。「一〇一号室 佐伯」と書かれた表札のインターフォンを美和が押した。リンゴーンと鈍い音が響く。チャイムの余韻をしっかり聞き終えても反応がない。
美和が、「おかしいなあ」眉間に皺を寄せる。今度は、扉を遠慮なくゴンゴンと叩く。
「カコさーん? あたし、美和だけどお。居るー?」
すぐに、内側からガタッと音が聞こえた。中に誰かいる。それは間違いなかった。けれども、返答がない。
「まさか、泥棒?」
そう呟いた美和を筆頭に、全員に緊張が走った。しかし、耳を澄ましていると、緊迫した空気に不似合いな、トタトタと妙に軽い不規則な足音が近付いてくるのが分かった。何かが来る。俺は、帆布のリュックを前にして身構えた。
ギギギと、ドアが小さく開く。
次の瞬間、吐き気を催す酸っぱい匂いと、トンという音、そして女の子の泣き声が俺の耳に入った。
「美和ちゃん! おばあちゃんが!」
真っ先に部屋に入ったのは、天神だった。遅れを取る形で、俺も部屋に入る。
室内は、外気と同じくらいに蒸し暑い。そして臭い。狭いキッチンのある廊下は一瞬で終わり、次に目に入ったのは布団を剥ぎ取られて、ぐったりと横たわる老婦人だった。
「何をして、」
「早川! 今すぐ救急車を呼べ!」
「え?」
「早く!!」
「わ、分かった!」
よく見れば彼女の側には、吐瀉物が散らばっていた。悪臭の原因はこれかと、俺は鼻をつまんで外に出たくなる。けれど、この部屋の主人ともっとも関わりがなく、この場所に不似合いのスリーピースを着た男がしゃがみ込み、老婦人の首に手を当てているのを見て、それは出来なかった。
勢いに呑まれて答えたものの、俺はこの家の住所を知らない。分かるとすれば、彼女くらいだろう。玄関で泣く少女を抱いてあやす美和に急いで声を掛けた。
「美和さん、すみません。ここの住所って分かりますか? 救急車を呼びたいんですけど」
「え、救急車?!」
「はい。今、奥で天神が何かしているみたいですが」
美和の顔が途端に青褪めていく。意外にも冷静さを先に取り戻したのは、彼女に抱きついていた少女だった。
「ひな、わかるよ!」
少女は、パッと美和から身体を離すと、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を強引に袖で拭う。トトトッと冷蔵庫に走りより、側面を指さした。そこには、『もしものメモ』と書かれた、文庫本くらいの大きさの紙が貼ってあった。
名前、血液型、生年月日、住所。ご丁寧に、かかりつけ診療機関まで。「自分の情報」と印刷された左側全ての項目が記載されてあった。念の為、やけに白い右側の「緊急連絡先」と書いてある項目も見る。そこには、〇九〇から始まる携帯番号と、括弧で括られたヒナ母と書かれていること以外は何もなかった。
スマートフォンで一一九を押して、消防署に住所と状況を伝える。突如、フッと風が通るのを感じた。
窓を開けたのか。
臭いが少し弱まり、先程よりは幾分涼しくなった気がした。
布団の上で横向きにされたカコは、両足を上げられ、顔は横に向けられていた。脇には、氷が挟まれ、額には白いシートが貼られている。
両隣に陣取る美和とひなは、何かの雑誌で、懸命にパタパタと扇いでいた。
天神は、コップにスプーンを突っ込んでは、カコの口元に運ぶことを繰り返す。口元から零れた液体は、丁寧にタオルで拭う。
俺の知らないうちに、見事な連携が出来上がっていた。
「今、消防に電話した。直ぐに向かうって」
俺が声を掛けると、僅かにホッとした空気が流れた。
「なんか手伝えることある?」
「エコバッグからペットボトルを取り出して、カコさんの腋に挟んでほしい。あと足首にも」
「了解」
言われた通りにペットボトルを配置しながら、失礼に当たらない程度に、老婦人を盗み見た。顔色は少しマシになった気がする。よく見れば、皺だらけの細い首にも白いシートが貼られていた。
佐伯カコから離れ、ぐるりと部屋を見回す。本当にこぢんまりとした部屋だった。小さなテレビ。粗末なテーブル。変な形の本棚。その本棚の一角に置かれているのは、空に見えるジャム瓶。唯一、カーテンだけは、夏祭りのヨーヨー風船みたいな綺麗な模様の入ったスカイブルーをしていた。
それから十分足らずで、救急車は到着した。救急隊員たちが手際よく、ストレッチャーで佐伯カコを搬出する。美和とひなは一緒に乗って行くらしい。俺と天神は遠慮した。特に強い関わりや思い入れがあるわけでもなかったからだ。家の鍵を使うことの出来ないひなに代わり、美和が戸締りをする。
「ひなちゃん」
救急車に乗り込もうとする少女に、天神は小さな箱を手渡した。突然の貰い物に、彼女は目をパチクリとさせる。天神は優しく笑いかけた。
「幸せが訪れますように」
小さく細い首が目一杯傾く。ひなは、改めて手元の箱をジッと見つめた。間もなく彼女は何かに気が付いたのだろう。まん丸の目が更に大きくなる。少女は、小さな箱を胸にギュッと抱きしめた。
「ありがとう! 神様!」
ひなは小さな手を大きく振ると、慌ただしくしている救急車に乗り込んだ。ひなが乗ったのと入れ違いに、美和が顔を出す。
「あなたたち、ありがとう! また、今度、会いましょう!」
それだけ言うと、また車の奥へと引っ込んで行った。パタンと目の前で救急車の後ろの扉が閉められる。俺たちは、サイレンを上げて走り去る白と赤の車を静かに見送った。
オレンジの壁は日に褪せて、色がぼけている。手すりや鉄柱、雨樋の塗装も剥げ落ちており、一部は錆びていた。
新しい集合住宅の建設が禁止のこの地域では、年季の入ったアパートやマンションはよく見かける。それでも、ここまでおんぼろなアパートは珍しかった。
目的の人物の部屋は拍子抜けするほど、簡単に見つかった。
アパートの一階、一番手前。「一〇一号室 佐伯」と書かれた表札のインターフォンを美和が押した。リンゴーンと鈍い音が響く。チャイムの余韻をしっかり聞き終えても反応がない。
美和が、「おかしいなあ」眉間に皺を寄せる。今度は、扉を遠慮なくゴンゴンと叩く。
「カコさーん? あたし、美和だけどお。居るー?」
すぐに、内側からガタッと音が聞こえた。中に誰かいる。それは間違いなかった。けれども、返答がない。
「まさか、泥棒?」
そう呟いた美和を筆頭に、全員に緊張が走った。しかし、耳を澄ましていると、緊迫した空気に不似合いな、トタトタと妙に軽い不規則な足音が近付いてくるのが分かった。何かが来る。俺は、帆布のリュックを前にして身構えた。
ギギギと、ドアが小さく開く。
次の瞬間、吐き気を催す酸っぱい匂いと、トンという音、そして女の子の泣き声が俺の耳に入った。
「美和ちゃん! おばあちゃんが!」
真っ先に部屋に入ったのは、天神だった。遅れを取る形で、俺も部屋に入る。
室内は、外気と同じくらいに蒸し暑い。そして臭い。狭いキッチンのある廊下は一瞬で終わり、次に目に入ったのは布団を剥ぎ取られて、ぐったりと横たわる老婦人だった。
「何をして、」
「早川! 今すぐ救急車を呼べ!」
「え?」
「早く!!」
「わ、分かった!」
よく見れば彼女の側には、吐瀉物が散らばっていた。悪臭の原因はこれかと、俺は鼻をつまんで外に出たくなる。けれど、この部屋の主人ともっとも関わりがなく、この場所に不似合いのスリーピースを着た男がしゃがみ込み、老婦人の首に手を当てているのを見て、それは出来なかった。
勢いに呑まれて答えたものの、俺はこの家の住所を知らない。分かるとすれば、彼女くらいだろう。玄関で泣く少女を抱いてあやす美和に急いで声を掛けた。
「美和さん、すみません。ここの住所って分かりますか? 救急車を呼びたいんですけど」
「え、救急車?!」
「はい。今、奥で天神が何かしているみたいですが」
美和の顔が途端に青褪めていく。意外にも冷静さを先に取り戻したのは、彼女に抱きついていた少女だった。
「ひな、わかるよ!」
少女は、パッと美和から身体を離すと、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を強引に袖で拭う。トトトッと冷蔵庫に走りより、側面を指さした。そこには、『もしものメモ』と書かれた、文庫本くらいの大きさの紙が貼ってあった。
名前、血液型、生年月日、住所。ご丁寧に、かかりつけ診療機関まで。「自分の情報」と印刷された左側全ての項目が記載されてあった。念の為、やけに白い右側の「緊急連絡先」と書いてある項目も見る。そこには、〇九〇から始まる携帯番号と、括弧で括られたヒナ母と書かれていること以外は何もなかった。
スマートフォンで一一九を押して、消防署に住所と状況を伝える。突如、フッと風が通るのを感じた。
窓を開けたのか。
臭いが少し弱まり、先程よりは幾分涼しくなった気がした。
布団の上で横向きにされたカコは、両足を上げられ、顔は横に向けられていた。脇には、氷が挟まれ、額には白いシートが貼られている。
両隣に陣取る美和とひなは、何かの雑誌で、懸命にパタパタと扇いでいた。
天神は、コップにスプーンを突っ込んでは、カコの口元に運ぶことを繰り返す。口元から零れた液体は、丁寧にタオルで拭う。
俺の知らないうちに、見事な連携が出来上がっていた。
「今、消防に電話した。直ぐに向かうって」
俺が声を掛けると、僅かにホッとした空気が流れた。
「なんか手伝えることある?」
「エコバッグからペットボトルを取り出して、カコさんの腋に挟んでほしい。あと足首にも」
「了解」
言われた通りにペットボトルを配置しながら、失礼に当たらない程度に、老婦人を盗み見た。顔色は少しマシになった気がする。よく見れば、皺だらけの細い首にも白いシートが貼られていた。
佐伯カコから離れ、ぐるりと部屋を見回す。本当にこぢんまりとした部屋だった。小さなテレビ。粗末なテーブル。変な形の本棚。その本棚の一角に置かれているのは、空に見えるジャム瓶。唯一、カーテンだけは、夏祭りのヨーヨー風船みたいな綺麗な模様の入ったスカイブルーをしていた。
それから十分足らずで、救急車は到着した。救急隊員たちが手際よく、ストレッチャーで佐伯カコを搬出する。美和とひなは一緒に乗って行くらしい。俺と天神は遠慮した。特に強い関わりや思い入れがあるわけでもなかったからだ。家の鍵を使うことの出来ないひなに代わり、美和が戸締りをする。
「ひなちゃん」
救急車に乗り込もうとする少女に、天神は小さな箱を手渡した。突然の貰い物に、彼女は目をパチクリとさせる。天神は優しく笑いかけた。
「幸せが訪れますように」
小さく細い首が目一杯傾く。ひなは、改めて手元の箱をジッと見つめた。間もなく彼女は何かに気が付いたのだろう。まん丸の目が更に大きくなる。少女は、小さな箱を胸にギュッと抱きしめた。
「ありがとう! 神様!」
ひなは小さな手を大きく振ると、慌ただしくしている救急車に乗り込んだ。ひなが乗ったのと入れ違いに、美和が顔を出す。
「あなたたち、ありがとう! また、今度、会いましょう!」
それだけ言うと、また車の奥へと引っ込んで行った。パタンと目の前で救急車の後ろの扉が閉められる。俺たちは、サイレンを上げて走り去る白と赤の車を静かに見送った。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
月明かりの儀式
葉羽
ミステリー
神藤葉羽と望月彩由美は、幼馴染でありながら、ある日、神秘的な洋館の探検に挑むことに決めた。洋館には、過去の住人たちの悲劇が秘められており、特に「月明かりの間」と呼ばれる部屋には不気味な伝説があった。二人はその場所で、古い肖像画や日記を通じて、禁断の儀式とそれに伴う呪いの存在を知る。
儀式を再現することで過去の住人たちを解放できるかもしれないと考えた葉羽は、仲間の彩由美と共に儀式を行うことを決意する。しかし、儀式の最中に影たちが現れ、彼らは過去の記憶を映し出しながら、真実を求めて叫ぶ。過去の住人たちの苦しみと後悔が明らかになる中、二人はその思いを受け止め、解放を目指す。
果たして、葉羽と彩由美は過去の悲劇を乗り越え、住人たちを解放することができるのか。そして、彼ら自身の運命はどうなるのか。月明かりの下で繰り広げられる、謎と感動の物語が展開されていく。
深淵の迷宮
葉羽
ミステリー
東京の豪邸に住む高校2年生の神藤葉羽は、天才的な頭脳を持ちながらも、推理小説の世界に没頭する日々を送っていた。彼の心の中には、幼馴染であり、恋愛漫画の大ファンである望月彩由美への淡い想いが秘められている。しかし、ある日、葉羽は謎のメッセージを受け取る。メッセージには、彼が憧れる推理小説のような事件が待ち受けていることが示唆されていた。
葉羽と彩由美は、廃墟と化した名家を訪れることに決めるが、そこには人間の心理を巧みに操る恐怖が潜んでいた。次々と襲いかかる心理的トラップ、そして、二人の間に生まれる不穏な空気。果たして彼らは真実に辿り着くことができるのか?葉羽は、自らの推理力を駆使しながら、恐怖の迷宮から脱出することを試みる。
めぐるめく日常 ~環琉くんと環琉ちゃん~
健野屋文乃
ミステリー
始めて、日常系ミステリー書いて見ました。
ぼくの名前は『環琉』と書いて『めぐる』と読む。
彼女の名前も『環琉』と書いて『めぐる』と読む。
そして、2人を包むようなもなかちゃんの、日常系ミステリー
きっと癒し系(⁎˃ᴗ˂⁎)
私の優しいお父さん
有箱
ミステリー
昔、何かがあって、目の見えなくなった私。そんな私を、お父さんは守ってくれる。
少し過保護だと思うこともあるけれど、全部、私の為なんだって。
昔、私に何があったんだろう。
お母さんは、どうしちゃったんだろう。
お父さんは教えてくれない。でも、それも私の為だって言う。
いつか、思い出す日が来るのかな。
思い出したら、私はどうなっちゃうのかな。
駒込の七不思議
中村音音(なかむらねおん)
ミステリー
地元のSNSで気になったこと・モノをエッセイふうに書いている。そんな流れの中で、駒込の七不思議を書いてみない? というご提案をいただいた。
7話で完結する駒込のミステリー。
密室島の輪舞曲
葉羽
ミステリー
夏休み、天才高校生の神藤葉羽は幼なじみの望月彩由美とともに、離島にある古い洋館「月影館」を訪れる。その洋館で連続して起きる不可解な密室殺人事件。被害者たちは、内側から完全に施錠された部屋で首吊り死体として発見される。しかし、葉羽は死体の状況に違和感を覚えていた。
洋館には、著名な実業家や学者たち12名が宿泊しており、彼らは謎めいた「月影会」というグループに所属していた。彼らの間で次々と起こる密室殺人。不可解な現象と怪奇的な出来事が重なり、洋館は恐怖の渦に包まれていく。
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる