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二品目 夏野菜と鰻のジュレ
前編
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お盆も過ぎ、暦の上では秋になったというのに、日射しは夏の鋭さを手放そうとしない。
今日も車が行き交う道路の上では、陽炎がゆらゆらと揺れている。
照り返す滑らかな黒々としたアスファルトは、まるでフライパンのようで。
生卵を落とせば一瞬で目玉焼きが完成しそうだと、赤井健太は首に巻いたタオルで汗を拭いながら思った。
毎日、毎日同じことの繰り返し。
時折、運転手や通行人に悪態をつかれながら、淡々と路面を切削してはセメントを散布して、地ならしをする。
少しずつしか進まない作業。
それでも、ひび割れた道路が綺麗になっていく様を見るのが、赤井は好きだった。
だが、連日の記録的な酷暑。
ただでさえ、長袖長ズボンでの屋外仕事はつらいというのに、食べ飽きた菓子パンやコンビニ弁当によって、男の肉体は疲労をごまかせなくなってきていた。
トンボ型をしたレーキと呼ばれる舗装道具を奥から手前に引っ張り、縁石と路面の間にアスファルト詰めては地面をならす。車道外側線が引かれる前。艶のある黒が縁石まで何にも邪魔をされずに続く光景は、美しい。
赤井はレーキを持つ手を少し止め、深いため息を一つ吐いた。腹もグゥと鳴る。
ダダダダダという、アスファルトを押し固める機械音に吸い込まれそうなほどの小さな音。
しかし、目の前の年老いた男の耳には届いていたらしい。
男は、ふるいを掛ける動作を止めて顔をグッと持ち上げると、赤井を見た。
「大丈夫かぁ、赤井?」
「すんません、佐藤さん。大丈夫っす」
「そうかぁ? あっちぃからよ、ムリはすんなよぉ? もうちっとで、昼飯だ。がんばろうや」
「……っす」
午後二時からの昼休憩まで、もう少し。
一刻も早く涼みたい重いとは裏腹に、今日の昼食のことを考えると、赤井の気はどうにも晴れなかった。
*
事務所の中は、外とは乖離された快適さだった。
ガンガンに冷えているわけではない。やや涼しい程度。
一日中ここで仕事をする事務員のことを考えれば致し方ないが、それでも、何時間も外で作業をしていたのだ。満足とは言わないが、充分には違いなかった。
赤井は手袋を外して、上着を脱ぐ。
他の作業員が一カ所に集まり、楽しそうに話ながら弁当や惣菜パンを食うなかで、男は一人自分の席に着いた。
ガハハという笑い声が別に嫌いなわけではなかったが、昼食くらい一人でゆっくりと食いたかった。
スマートフォンを取り出して、ソーシャルゲームのデイリーを確認する。
その後は、お決まりのネットサーフィン。
左手に菓子パン、右手でスワイプ。時折、ペットボトルの麦茶を飲むために両手を空けるが、それ以外は基本姿勢を崩さないのが赤井だった。
わざわざ声を掛ける同僚もいない、快適な休憩時間。
しかし、今日ばかりは、いつもと違った。
「器用なこと、してんなぁ」
突如、頭上から振ってきたのは、感心する声。
若い男が顔を上げてみれば、佐藤だった。
「あ、佐藤さん」
「悪ぃな、邪魔してよぉ」
「あー、別に、大丈夫っすけど……どうしたんすか?」
「いやぁ、おめぇよぉ。ここ最近、ずーっと菓子パンばっか食ってんだろぉ? ちっと気になっちまってなぁ。いや、お節介だってのは、分かってんだ。でもよぉ……あー、なんか、事情でもあんのかと気になっちまってな」
「あー……」
「答えられねぇんだったら、答えねえでも良いんだけどよ? いくら若ぇからって言ってもよ、ちゃんと食わねぇと倒れっちまうぞ?」
眉尻と口角を下げて言う佐藤。その表情から年老いた男が心底、自分を心配しているのだということは、赤井にも理解出来た。
青年は、ポリポリと茶髪の頭皮を掻く。
いつもなら、いや、他の人からであれば、煩わしくて適当に答えていただろう。
しかし、佐藤はここに来たときから、親身に気に掛けてくれる同僚。厚意を無碍にしたいわけでもない。さらに言えば、彼自身も現状に嫌気が差していた。
男のカサついた唇が小さく動く。
「……うちの嫁が、妊娠したんすよ」
「おお! そりゃあ、めでてぇな! そうか、そうか。俺はてっきり、弁当も作ってもらえねえような大喧嘩でもしたのかと思っちまったぜ! ハハハ!」
顔をしわくちゃにして喜ぶ佐藤とは違い、青年の顔は憂鬱そうだった。
「いやまあ、俺も嬉しいには嬉しいんすけど……」
「お? なんだ? なんか、あんのか? もしかして、嫁さん、具合悪ぃのか?」
「あー、なんか、ツワリ? らしくて、全然、飯作ってくれなくなったんすよね……」
「悪阻かぁ。そう言えば、うちのかーちゃんも一人目はひでぇ悪阻だったなぁ。米の匂いがダメとか。油や肉の匂いもダメとかで、辛そうだった覚えがあるわぁ。ああ、それで最近は、菓子パンばっかり食ってたのかぁ」
「っす。いや、いけると思ったんすよ。オレ、菓子パン好きなんで。でもさすがに、三週間も続くと、さすがに飽きてきたっていうか……」
「今、嫁さん、何週目なんだ?」
赤井は首を捻る。
「……ちょっと覚えてないっす。けど、まだ菓子パンが続くのかと思うと……。それに、まだ腹も出てきてないから、全然動けると思うんすけど」
若い男がうんざりした顔で俯く。しきりに親指で中指を擦る仕草から、不満を感じているのは佐藤にもはっきりと理解出来た。
佐藤の眉間に深い皺が寄る。
「いやいやいや、ちょっと待て。嫁さんは、初めての妊娠か?」
「そっすね」
「そうか……。おめぇ、その言葉、絶対嫁さんの前で吐くんじゃねえぞ?」
「え?」
キョトンとする若い男の肩を、皺の目立つ両手ががっしりと掴む。
「ずーっと昔の若い頃にな、俺も似たようなことを思った時期があったんだよ。かーちゃんに言う前に、おふくろに溢したら鬼の形相で叱られてよぉ。良いか、よぉく聞けよ?」
佐藤は肩から手を放すと、真面目そのものの顔で色の悪い唇を動かした。
「『腹の子はアンタの子でもあるのに、文句ばっかり言いよって! 飯がないだぁ? こちとら飯が食えないんじゃい! アンタがご飯でも家事でもやって、嫁さんを助けてやりんさいや! アンタのとーちゃんはねぇ、それをやらんかったから、未だにアタシのケツから逃れられんのよ! 思い出しても、腹が立つわい。絶対に許さんからね! アンタも、そうなりたくなければ、ちゃんとしんさいや!』ってな」
鳩が豆鉄砲を食ったように目を白黒させる青年に、年老いた男は自分の両肩をさすりながら構わず続けた。
「そら、もう、すげぇ剣幕でよぉ……。思い出しても、怖ぇこと、怖ぇこと。でも、そのおかげで、なんとかうちはやってこれたんだよ。まあ、老人の戯言と聞いてくれても良い。でも、もうちっと、考えてやれ?」
だが、そう言われたところで、自分に何をしろというのか。否、どうしてそんなことを言われているのかすら、赤井には分からなかった。当然、男の口から出るのは、「はあ」という気のない返事。
その様子に、佐藤が「カーッ」と言いながら、額に手を当てて天を仰ぐ。
「嫁さん、弁当も作れねぇんだろう? 昼と夜は、どうしてんだ?」
「昼は、菓子パンっす。夜は、コンビニ弁当を買って食ってますね」
「嫁さんもか?」
「いや、オレが、っす」
額から手を放した男は、呆れを通りこして哀れみすら感じさせる表情で、青年に問う。
「……嫁さんは、何を食ってんだ?」
「嫁は、なんか、オレが買ってきたのを、無駄遣いってブーブー言いながら横からつまんでるのがデフォっす」
赤井の返答に、年老いた男は、今度はしわくちゃの両手で顔を覆った。
しばしの無言。
突然訪れた気まずい沈黙に耐えきれない赤井の、「え、オレ、なんかダメだったんすか?」という言葉に、佐藤の首がいよいよガックリと落ちた。
「今日、俺と一緒に帰るぞ……」
「え? いや、」
「ダメだ、ダメだ。このまま放っちまったら、俺がかーちゃんに叱られる。良いか、今日は一緒に帰るから、おめぇはちゃんと待ってんだぞ。わかったな?」
「……っす」
青年の顔はハテナで埋め尽くされていたが、それでもしっかりと頷いたことに、佐藤は心の中で胸をなで下ろした。
今日も車が行き交う道路の上では、陽炎がゆらゆらと揺れている。
照り返す滑らかな黒々としたアスファルトは、まるでフライパンのようで。
生卵を落とせば一瞬で目玉焼きが完成しそうだと、赤井健太は首に巻いたタオルで汗を拭いながら思った。
毎日、毎日同じことの繰り返し。
時折、運転手や通行人に悪態をつかれながら、淡々と路面を切削してはセメントを散布して、地ならしをする。
少しずつしか進まない作業。
それでも、ひび割れた道路が綺麗になっていく様を見るのが、赤井は好きだった。
だが、連日の記録的な酷暑。
ただでさえ、長袖長ズボンでの屋外仕事はつらいというのに、食べ飽きた菓子パンやコンビニ弁当によって、男の肉体は疲労をごまかせなくなってきていた。
トンボ型をしたレーキと呼ばれる舗装道具を奥から手前に引っ張り、縁石と路面の間にアスファルト詰めては地面をならす。車道外側線が引かれる前。艶のある黒が縁石まで何にも邪魔をされずに続く光景は、美しい。
赤井はレーキを持つ手を少し止め、深いため息を一つ吐いた。腹もグゥと鳴る。
ダダダダダという、アスファルトを押し固める機械音に吸い込まれそうなほどの小さな音。
しかし、目の前の年老いた男の耳には届いていたらしい。
男は、ふるいを掛ける動作を止めて顔をグッと持ち上げると、赤井を見た。
「大丈夫かぁ、赤井?」
「すんません、佐藤さん。大丈夫っす」
「そうかぁ? あっちぃからよ、ムリはすんなよぉ? もうちっとで、昼飯だ。がんばろうや」
「……っす」
午後二時からの昼休憩まで、もう少し。
一刻も早く涼みたい重いとは裏腹に、今日の昼食のことを考えると、赤井の気はどうにも晴れなかった。
*
事務所の中は、外とは乖離された快適さだった。
ガンガンに冷えているわけではない。やや涼しい程度。
一日中ここで仕事をする事務員のことを考えれば致し方ないが、それでも、何時間も外で作業をしていたのだ。満足とは言わないが、充分には違いなかった。
赤井は手袋を外して、上着を脱ぐ。
他の作業員が一カ所に集まり、楽しそうに話ながら弁当や惣菜パンを食うなかで、男は一人自分の席に着いた。
ガハハという笑い声が別に嫌いなわけではなかったが、昼食くらい一人でゆっくりと食いたかった。
スマートフォンを取り出して、ソーシャルゲームのデイリーを確認する。
その後は、お決まりのネットサーフィン。
左手に菓子パン、右手でスワイプ。時折、ペットボトルの麦茶を飲むために両手を空けるが、それ以外は基本姿勢を崩さないのが赤井だった。
わざわざ声を掛ける同僚もいない、快適な休憩時間。
しかし、今日ばかりは、いつもと違った。
「器用なこと、してんなぁ」
突如、頭上から振ってきたのは、感心する声。
若い男が顔を上げてみれば、佐藤だった。
「あ、佐藤さん」
「悪ぃな、邪魔してよぉ」
「あー、別に、大丈夫っすけど……どうしたんすか?」
「いやぁ、おめぇよぉ。ここ最近、ずーっと菓子パンばっか食ってんだろぉ? ちっと気になっちまってなぁ。いや、お節介だってのは、分かってんだ。でもよぉ……あー、なんか、事情でもあんのかと気になっちまってな」
「あー……」
「答えられねぇんだったら、答えねえでも良いんだけどよ? いくら若ぇからって言ってもよ、ちゃんと食わねぇと倒れっちまうぞ?」
眉尻と口角を下げて言う佐藤。その表情から年老いた男が心底、自分を心配しているのだということは、赤井にも理解出来た。
青年は、ポリポリと茶髪の頭皮を掻く。
いつもなら、いや、他の人からであれば、煩わしくて適当に答えていただろう。
しかし、佐藤はここに来たときから、親身に気に掛けてくれる同僚。厚意を無碍にしたいわけでもない。さらに言えば、彼自身も現状に嫌気が差していた。
男のカサついた唇が小さく動く。
「……うちの嫁が、妊娠したんすよ」
「おお! そりゃあ、めでてぇな! そうか、そうか。俺はてっきり、弁当も作ってもらえねえような大喧嘩でもしたのかと思っちまったぜ! ハハハ!」
顔をしわくちゃにして喜ぶ佐藤とは違い、青年の顔は憂鬱そうだった。
「いやまあ、俺も嬉しいには嬉しいんすけど……」
「お? なんだ? なんか、あんのか? もしかして、嫁さん、具合悪ぃのか?」
「あー、なんか、ツワリ? らしくて、全然、飯作ってくれなくなったんすよね……」
「悪阻かぁ。そう言えば、うちのかーちゃんも一人目はひでぇ悪阻だったなぁ。米の匂いがダメとか。油や肉の匂いもダメとかで、辛そうだった覚えがあるわぁ。ああ、それで最近は、菓子パンばっかり食ってたのかぁ」
「っす。いや、いけると思ったんすよ。オレ、菓子パン好きなんで。でもさすがに、三週間も続くと、さすがに飽きてきたっていうか……」
「今、嫁さん、何週目なんだ?」
赤井は首を捻る。
「……ちょっと覚えてないっす。けど、まだ菓子パンが続くのかと思うと……。それに、まだ腹も出てきてないから、全然動けると思うんすけど」
若い男がうんざりした顔で俯く。しきりに親指で中指を擦る仕草から、不満を感じているのは佐藤にもはっきりと理解出来た。
佐藤の眉間に深い皺が寄る。
「いやいやいや、ちょっと待て。嫁さんは、初めての妊娠か?」
「そっすね」
「そうか……。おめぇ、その言葉、絶対嫁さんの前で吐くんじゃねえぞ?」
「え?」
キョトンとする若い男の肩を、皺の目立つ両手ががっしりと掴む。
「ずーっと昔の若い頃にな、俺も似たようなことを思った時期があったんだよ。かーちゃんに言う前に、おふくろに溢したら鬼の形相で叱られてよぉ。良いか、よぉく聞けよ?」
佐藤は肩から手を放すと、真面目そのものの顔で色の悪い唇を動かした。
「『腹の子はアンタの子でもあるのに、文句ばっかり言いよって! 飯がないだぁ? こちとら飯が食えないんじゃい! アンタがご飯でも家事でもやって、嫁さんを助けてやりんさいや! アンタのとーちゃんはねぇ、それをやらんかったから、未だにアタシのケツから逃れられんのよ! 思い出しても、腹が立つわい。絶対に許さんからね! アンタも、そうなりたくなければ、ちゃんとしんさいや!』ってな」
鳩が豆鉄砲を食ったように目を白黒させる青年に、年老いた男は自分の両肩をさすりながら構わず続けた。
「そら、もう、すげぇ剣幕でよぉ……。思い出しても、怖ぇこと、怖ぇこと。でも、そのおかげで、なんとかうちはやってこれたんだよ。まあ、老人の戯言と聞いてくれても良い。でも、もうちっと、考えてやれ?」
だが、そう言われたところで、自分に何をしろというのか。否、どうしてそんなことを言われているのかすら、赤井には分からなかった。当然、男の口から出るのは、「はあ」という気のない返事。
その様子に、佐藤が「カーッ」と言いながら、額に手を当てて天を仰ぐ。
「嫁さん、弁当も作れねぇんだろう? 昼と夜は、どうしてんだ?」
「昼は、菓子パンっす。夜は、コンビニ弁当を買って食ってますね」
「嫁さんもか?」
「いや、オレが、っす」
額から手を放した男は、呆れを通りこして哀れみすら感じさせる表情で、青年に問う。
「……嫁さんは、何を食ってんだ?」
「嫁は、なんか、オレが買ってきたのを、無駄遣いってブーブー言いながら横からつまんでるのがデフォっす」
赤井の返答に、年老いた男は、今度はしわくちゃの両手で顔を覆った。
しばしの無言。
突然訪れた気まずい沈黙に耐えきれない赤井の、「え、オレ、なんかダメだったんすか?」という言葉に、佐藤の首がいよいよガックリと落ちた。
「今日、俺と一緒に帰るぞ……」
「え? いや、」
「ダメだ、ダメだ。このまま放っちまったら、俺がかーちゃんに叱られる。良いか、今日は一緒に帰るから、おめぇはちゃんと待ってんだぞ。わかったな?」
「……っす」
青年の顔はハテナで埋め尽くされていたが、それでもしっかりと頷いたことに、佐藤は心の中で胸をなで下ろした。
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