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9・2 一途な願い
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*
エルーシャは荒魔竜を倒した英雄、ロイエ・クリスハイル公爵と婚約したばかりだった。
1年ほどすれば、彼のもとに輿入れすることが決まっている。
それなのに。
(どうしてエルはロイエに会いに行くたび、あんなに楽しそうにしているんだ?)
信じられなかった。
なにかの間違いだと思った。
(相手はあのロイエだ。そんなことありえない)
でもそのうち気づいた。
(違う。ありえないでいてほしいのは願望だ。俺がロイエに嫉妬してるから)
エルーシャはロイエと会って帰ると、やけに明るくよく喋った。
(……俺が思っていたよりずっと、ふたりは上手くいっているみたいだな)
そうだとしても壊してしまいたいほどの衝動に苛まれながらも、ノアルトは自分の思いをひた隠しにした。
結局行き着くのは、エルーシャの笑顔を奪いたくないという一点だけだった。
それから数ヶ月ほど経った、エルーシャが幸せそうにロイエのもとから帰った夜。
ノアルトは邸館を離れると決めた。
(エルはやさしいから、俺が突然いなくなったら心配して探し回るだろうな)
別れは告げておこうと考え、エルーシャの部屋へ行く。
そして知った。
「ティアナが私の部屋に来てくれるなんて、はじめてね。どうしたの?」
エルーシャはいつものように笑って出迎えてくれた。
しかしその目元は赤く、どう見ても泣きはらしている。
涙はまだ止まる気配がない。
(……エル?)
ノアルトは調理場へ行くと、幼いころ乳母が淹れてくれたハーブティーをふたり分用意する。
それからエルーシャの部屋で話を聞いた。
そしてエルーシャがロイエと婚約してきてから受けた、散々な仕打ちを知る。
どれも許せなかった。
なにより浮気をひけらかす無神経さには、嫌悪感しかない。
しかしエルーシャが一番悲しんでいたのは、ロイエから受けてきた非道ではなかった。
「あのときの約束、忘れろって。あれは嘘だから、そのことはもう話したくないって」
エルーシャはノアルトのプロポーズを忘れていなかった。
(俺は顔も名前も、まともに伝えられなかったのに。エルはあの約束を、ここまで一途に待ってくれていたんだ……)
ロイエはエルーシャの話す内容から、ノアルトが彼女に好意を寄せていると察したらしい。
ロイエはノアルトの優秀さに嫉妬していた。
その歪んだ優越感を満たすため、彼は自分があのときの騎士だと偽った。
エルーシャは騎士に複雑な事情があると気づいていたため、別人のような態度の変化を深読みしていた。
そして彼と以前のような関係を築きたい一心で、ロイエの悪質な嫌がらせにも健気に向き合い続ける。
一方で周囲を心配させないように、明るく振る舞い続けていた。
エルーシャからすべてを聞き、ノアルトはカップを置いた。
手の震えが収まらない。
「荒魔竜を討ったのはロイエではありません」
妹を黒魔術の人質に取られたままでは、それ以上のことを言えなかった。
(だけど俺は、エルをこれ以上ひどい目に遭わせるつもりはない。絶対に)
気づくと、エルーシャは泣き止んでいる。
「ティアナは……英雄が誰なのか知っているのね?」
かすれた声はやけに落ち着いていた。
問われるまま、ノアルトは言葉にせず頷く。
エルーシャの顔つきが変わった。
ふたりはしばらく、言葉もなく見つめ合う。
エルーシャの大きな瞳は涙で潤んでいた。
しかしそれは悲しみに暮れているのではない。
むしろ事実を知った強かさが、妖艶さすらまとわせながら目の奥で底光りしていた。
「ねぇティアナ、あなたにお願いしたいことができたわ」
*
エルーシャは英雄がロイエではなく別の人物だということを、他の誰にも明かさなかった。
しかしノアルトにはわかった。
(エルはロイエの偽りを暴くために動いているんだ)
ノアルトも妹と乳母の行方を探すかたわら、エルーシャに頼まれたことをひたすらこなした。
魔力測定用の魔石の収集を頼まれれば、時間をつくっては魔獣の住む地で泥まみれになって探した。
そしてティアナとしてロイエに近づき、ロイエが英雄とされている証拠の確認に暗躍した。
(後はロイエがエルと二度と関わることもないように、あいつが後悔するほど重い法の裁きを受けさせるつもりだったけど――その方がマシだったろうな)
ノアルトはロイエが捕縛されてから、自分にかけられたひとつの言葉に気づいていた。
(あの方が俺にあんなことを言ったんだ。もうロイエの処遇は決めてあるんだろう。あいつは怒らせてはいけない相手の恐ろしさも知らず、自ら逃れられない破滅の道に……ん)
馬車の隣の席に座っているエルーシャが、ノアルトの肩にもたれかかってくる。
安らかに寝息を立てている姿が、出会ったときの姿と重なった。
(かわいいな。夢でも見てるのか?)
「騎士様……」
思いもしない言葉にノアルトは目を丸くした。
つい笑みがこぼれる。
無防備な寝言すら愛おしかった。
ノアルトはエルーシャの耳元に唇を寄せる。
そしてふたりだけの秘め事のように甘く囁いた。
「エル、好きだよ」
ノアルトはそれから邸館に着くまでの間、彼女の寝顔に見惚れることにした。
エルーシャは荒魔竜を倒した英雄、ロイエ・クリスハイル公爵と婚約したばかりだった。
1年ほどすれば、彼のもとに輿入れすることが決まっている。
それなのに。
(どうしてエルはロイエに会いに行くたび、あんなに楽しそうにしているんだ?)
信じられなかった。
なにかの間違いだと思った。
(相手はあのロイエだ。そんなことありえない)
でもそのうち気づいた。
(違う。ありえないでいてほしいのは願望だ。俺がロイエに嫉妬してるから)
エルーシャはロイエと会って帰ると、やけに明るくよく喋った。
(……俺が思っていたよりずっと、ふたりは上手くいっているみたいだな)
そうだとしても壊してしまいたいほどの衝動に苛まれながらも、ノアルトは自分の思いをひた隠しにした。
結局行き着くのは、エルーシャの笑顔を奪いたくないという一点だけだった。
それから数ヶ月ほど経った、エルーシャが幸せそうにロイエのもとから帰った夜。
ノアルトは邸館を離れると決めた。
(エルはやさしいから、俺が突然いなくなったら心配して探し回るだろうな)
別れは告げておこうと考え、エルーシャの部屋へ行く。
そして知った。
「ティアナが私の部屋に来てくれるなんて、はじめてね。どうしたの?」
エルーシャはいつものように笑って出迎えてくれた。
しかしその目元は赤く、どう見ても泣きはらしている。
涙はまだ止まる気配がない。
(……エル?)
ノアルトは調理場へ行くと、幼いころ乳母が淹れてくれたハーブティーをふたり分用意する。
それからエルーシャの部屋で話を聞いた。
そしてエルーシャがロイエと婚約してきてから受けた、散々な仕打ちを知る。
どれも許せなかった。
なにより浮気をひけらかす無神経さには、嫌悪感しかない。
しかしエルーシャが一番悲しんでいたのは、ロイエから受けてきた非道ではなかった。
「あのときの約束、忘れろって。あれは嘘だから、そのことはもう話したくないって」
エルーシャはノアルトのプロポーズを忘れていなかった。
(俺は顔も名前も、まともに伝えられなかったのに。エルはあの約束を、ここまで一途に待ってくれていたんだ……)
ロイエはエルーシャの話す内容から、ノアルトが彼女に好意を寄せていると察したらしい。
ロイエはノアルトの優秀さに嫉妬していた。
その歪んだ優越感を満たすため、彼は自分があのときの騎士だと偽った。
エルーシャは騎士に複雑な事情があると気づいていたため、別人のような態度の変化を深読みしていた。
そして彼と以前のような関係を築きたい一心で、ロイエの悪質な嫌がらせにも健気に向き合い続ける。
一方で周囲を心配させないように、明るく振る舞い続けていた。
エルーシャからすべてを聞き、ノアルトはカップを置いた。
手の震えが収まらない。
「荒魔竜を討ったのはロイエではありません」
妹を黒魔術の人質に取られたままでは、それ以上のことを言えなかった。
(だけど俺は、エルをこれ以上ひどい目に遭わせるつもりはない。絶対に)
気づくと、エルーシャは泣き止んでいる。
「ティアナは……英雄が誰なのか知っているのね?」
かすれた声はやけに落ち着いていた。
問われるまま、ノアルトは言葉にせず頷く。
エルーシャの顔つきが変わった。
ふたりはしばらく、言葉もなく見つめ合う。
エルーシャの大きな瞳は涙で潤んでいた。
しかしそれは悲しみに暮れているのではない。
むしろ事実を知った強かさが、妖艶さすらまとわせながら目の奥で底光りしていた。
「ねぇティアナ、あなたにお願いしたいことができたわ」
*
エルーシャは英雄がロイエではなく別の人物だということを、他の誰にも明かさなかった。
しかしノアルトにはわかった。
(エルはロイエの偽りを暴くために動いているんだ)
ノアルトも妹と乳母の行方を探すかたわら、エルーシャに頼まれたことをひたすらこなした。
魔力測定用の魔石の収集を頼まれれば、時間をつくっては魔獣の住む地で泥まみれになって探した。
そしてティアナとしてロイエに近づき、ロイエが英雄とされている証拠の確認に暗躍した。
(後はロイエがエルと二度と関わることもないように、あいつが後悔するほど重い法の裁きを受けさせるつもりだったけど――その方がマシだったろうな)
ノアルトはロイエが捕縛されてから、自分にかけられたひとつの言葉に気づいていた。
(あの方が俺にあんなことを言ったんだ。もうロイエの処遇は決めてあるんだろう。あいつは怒らせてはいけない相手の恐ろしさも知らず、自ら逃れられない破滅の道に……ん)
馬車の隣の席に座っているエルーシャが、ノアルトの肩にもたれかかってくる。
安らかに寝息を立てている姿が、出会ったときの姿と重なった。
(かわいいな。夢でも見てるのか?)
「騎士様……」
思いもしない言葉にノアルトは目を丸くした。
つい笑みがこぼれる。
無防備な寝言すら愛おしかった。
ノアルトはエルーシャの耳元に唇を寄せる。
そしてふたりだけの秘め事のように甘く囁いた。
「エル、好きだよ」
ノアルトはそれから邸館に着くまでの間、彼女の寝顔に見惚れることにした。
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