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22・どうして
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食事が終わると再び、冬霧とワンちゃんが内容の薄いいがみ合いをはじめかけたので、私はそれを避けようと早めに就寝する。
電灯を消して光源が月明りだけの和室で横になれば、先ほどまでのあやかしたちのケンカも嘘みたいに、心地よい薄闇の静寂が満ちていた。
寝付けない。
原因ははっきりしていた。
私は隣に敷いている布団の中に腕を伸ばして、ワンちゃんの手を掴む。
「ね、ワンちゃん。ここにいればいいよ」
私がささやくと、ワンちゃんはぴくりと長い耳を震わせた。
流れてくる思いは気のせいだと信じたかったけれど、認めるしかない。
ワンちゃんは、出て行こうとしてる。
「ぼく、あやかしから元の姿に戻れそうなんだ」
「戻っても、ここにいればいいよ。私、アレルギーないし」
ワンちゃんはくすぐったそうに笑った。
「うみ、ありがとう」
それがお別れの挨拶に思えて、私の心は色を失っていく。
会話を続けるのが、怖い。
「わかるんだ。元の姿に戻れそうっていうか、戻ってしまうこと。あやかしの形で留まっていた気持ちがだんだんほどけて、このままではいられないって、わかる」
「このままでは、いられない……?」
「そう。ぼくがこの姿でいたのはね、きっとメイのことが引っかかっていたから。ぼくは山林に置き去りにされた後も、メイがどうしているのかずっと心配だった」
力の緩んだ私の手をすり抜けて、ワンちゃんはさっと跳び上がると障子を開け放つ。
月明りの満ちた縁側に、ひとりの少年が躍り出た。
「でも今は納得できた。うみのおかげだよ」
「待って。私、まだなにもしてない」
私は掛け布団を払いのけると、その場でワンちゃんと向き合う。
少しでも近づけば跳ねるように逃げていってしまいそうで、それ以上動けなかった。
「これからだよ、ワンちゃん。これからたくさん、楽しい思い出作っていけるよ」
ワンちゃんは黙っている。
返事の代わりのように、胸の奥がすくんだ。
私の視界がぼやけて、男の子の影も涙で滲む。
「私、ワンちゃんがいないと、さみしい」
「うん、ぼくも」
「それなら、もとの姿に戻っても……ここにいればいいよ」
ワンちゃんのここにいたいという、切実な思いが混ざりこんでくる。
私と同じなのに。
どうしてそれ以上に、ワンちゃんの中で離れる覚悟が決まっているの?
「あのね、うみは当然のように一緒にいてくれたけど……信じてくれたけど。それはぼくにとって特別なことだったんだよ。だからぼくも、うみを信じたいんだ。うみなら今日のことも、いい思い出にしてくれるって」
「嫌だよ……」
声が震える。
一緒にいられるなら、そっちのほうが楽しいに決まってるのに。
「今はね。でもぼくたちのことはきっと、悲しいだけにしておくなんてもったいないから」
ワンちゃんはガラス戸に手をかけると、長い耳をなびかせて庭先に跳び降りた。
行ってしまう。
「待って、ワンちゃん……!」
私が立ち上がると、ワンちゃんは一度だけ振り返る。
「うみ、来ないで。ぼく、最後は見られたくない」
どうして?
声が出てこない私に、ワンちゃんは大きく手を振ると、ひょいと跳ねるように庭を越えて森の奥へと見えなくなった。
呆然としていた私は我に返って引き返すと、奥のふすまを開け放つ。
「冬霧、ワンちゃんが行っちゃうよ!」
掛け布団ごと揺さぶると、私に背を向けたまま横たわる冬霧の身体も前後に動く。
「うん。わかってる」
「わかってない! ワンちゃんが、今……!」
「いいんだ。ワンに見送りはいらない」
寝ぼけた様子もなく淡々と答えるその様子に、私はようやく気付いた。
冬霧は私たちの会話を、ワンちゃんが元の姿に戻ることもここにいるつもりがないことも含めて、ずっと聞いていたのだろうか。
それとももしかして、最初から知っていた?
血の気が引いていくようだった。
「どうして、一緒に引き留めてくれないの?」
冬霧は黙っている。
なぜそんな風に、素直に受け入れてしまえるのか。
私の目の奥が熱を持ち、情けない涙が出てきた。
思いの行き場がなくて、硬く握りしめた手で冬霧の背中を叩く。
「これからなのに……」
私は冬霧の肩に額を置いて、駄々をこねる子どもみたいに嗚咽を漏らした。
「これからだよ。ワンちゃん、メイちゃんとの関係に自分なりの答えを出して、これから私たちと楽しく暮らしていけるはずなのに……」
喉の奥が絞られるように痛い。
痛いよ、ワンちゃん。
ガラス戸の隙間から吹き込む夜風が、ふすまをかたかたと鳴らした。
電灯を消して光源が月明りだけの和室で横になれば、先ほどまでのあやかしたちのケンカも嘘みたいに、心地よい薄闇の静寂が満ちていた。
寝付けない。
原因ははっきりしていた。
私は隣に敷いている布団の中に腕を伸ばして、ワンちゃんの手を掴む。
「ね、ワンちゃん。ここにいればいいよ」
私がささやくと、ワンちゃんはぴくりと長い耳を震わせた。
流れてくる思いは気のせいだと信じたかったけれど、認めるしかない。
ワンちゃんは、出て行こうとしてる。
「ぼく、あやかしから元の姿に戻れそうなんだ」
「戻っても、ここにいればいいよ。私、アレルギーないし」
ワンちゃんはくすぐったそうに笑った。
「うみ、ありがとう」
それがお別れの挨拶に思えて、私の心は色を失っていく。
会話を続けるのが、怖い。
「わかるんだ。元の姿に戻れそうっていうか、戻ってしまうこと。あやかしの形で留まっていた気持ちがだんだんほどけて、このままではいられないって、わかる」
「このままでは、いられない……?」
「そう。ぼくがこの姿でいたのはね、きっとメイのことが引っかかっていたから。ぼくは山林に置き去りにされた後も、メイがどうしているのかずっと心配だった」
力の緩んだ私の手をすり抜けて、ワンちゃんはさっと跳び上がると障子を開け放つ。
月明りの満ちた縁側に、ひとりの少年が躍り出た。
「でも今は納得できた。うみのおかげだよ」
「待って。私、まだなにもしてない」
私は掛け布団を払いのけると、その場でワンちゃんと向き合う。
少しでも近づけば跳ねるように逃げていってしまいそうで、それ以上動けなかった。
「これからだよ、ワンちゃん。これからたくさん、楽しい思い出作っていけるよ」
ワンちゃんは黙っている。
返事の代わりのように、胸の奥がすくんだ。
私の視界がぼやけて、男の子の影も涙で滲む。
「私、ワンちゃんがいないと、さみしい」
「うん、ぼくも」
「それなら、もとの姿に戻っても……ここにいればいいよ」
ワンちゃんのここにいたいという、切実な思いが混ざりこんでくる。
私と同じなのに。
どうしてそれ以上に、ワンちゃんの中で離れる覚悟が決まっているの?
「あのね、うみは当然のように一緒にいてくれたけど……信じてくれたけど。それはぼくにとって特別なことだったんだよ。だからぼくも、うみを信じたいんだ。うみなら今日のことも、いい思い出にしてくれるって」
「嫌だよ……」
声が震える。
一緒にいられるなら、そっちのほうが楽しいに決まってるのに。
「今はね。でもぼくたちのことはきっと、悲しいだけにしておくなんてもったいないから」
ワンちゃんはガラス戸に手をかけると、長い耳をなびかせて庭先に跳び降りた。
行ってしまう。
「待って、ワンちゃん……!」
私が立ち上がると、ワンちゃんは一度だけ振り返る。
「うみ、来ないで。ぼく、最後は見られたくない」
どうして?
声が出てこない私に、ワンちゃんは大きく手を振ると、ひょいと跳ねるように庭を越えて森の奥へと見えなくなった。
呆然としていた私は我に返って引き返すと、奥のふすまを開け放つ。
「冬霧、ワンちゃんが行っちゃうよ!」
掛け布団ごと揺さぶると、私に背を向けたまま横たわる冬霧の身体も前後に動く。
「うん。わかってる」
「わかってない! ワンちゃんが、今……!」
「いいんだ。ワンに見送りはいらない」
寝ぼけた様子もなく淡々と答えるその様子に、私はようやく気付いた。
冬霧は私たちの会話を、ワンちゃんが元の姿に戻ることもここにいるつもりがないことも含めて、ずっと聞いていたのだろうか。
それとももしかして、最初から知っていた?
血の気が引いていくようだった。
「どうして、一緒に引き留めてくれないの?」
冬霧は黙っている。
なぜそんな風に、素直に受け入れてしまえるのか。
私の目の奥が熱を持ち、情けない涙が出てきた。
思いの行き場がなくて、硬く握りしめた手で冬霧の背中を叩く。
「これからなのに……」
私は冬霧の肩に額を置いて、駄々をこねる子どもみたいに嗚咽を漏らした。
「これからだよ。ワンちゃん、メイちゃんとの関係に自分なりの答えを出して、これから私たちと楽しく暮らしていけるはずなのに……」
喉の奥が絞られるように痛い。
痛いよ、ワンちゃん。
ガラス戸の隙間から吹き込む夜風が、ふすまをかたかたと鳴らした。
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