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20・残り物

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 居間に着くと、冬霧はそのまま奥にある台所へ向かう。

「今日は俺も疲れたし、残り物があったからそれにしよう」

 ワンちゃんはもう慣れた様子で、ちゃぶ台の前に三人分の座布団を敷きながら文句を垂れた。

「なんだよ手抜きか!」

「うん、そうだよ。温めなおすだけ。うみ、冷蔵庫に瓶、ふたつあるからお願い」

「はーい」

 冬霧が使いこまれたガスコンロの火をつけて鍋を温め始めた。

 私は小皿やら箸やらの用意を終えると、レトロな2ドア冷蔵庫から蓋つきのガラス瓶をふたつ出してちゃぶ台の上に並べる。

 若草色の中身が透ける瓶を開けると、透明な水分で潤いつやつやと光沢のあるキャベツの浅漬けが現れた。

 目に鮮やかなキャベツの葉の緑、芯の部分は上品な白、細切りにんじんは暖色で、それぞれが彩りを引き立てている。

 見た目にもおいしいそれを小皿に取り分けると、我慢のきかないワンちゃんがさっと取り上げた。

「ぼくは手抜きを味見する、いただきます!」

 箸が苦手なのでフォークで刺して食べるワンちゃんの口元から、いい歯ごたえが鳴った。

 ワンちゃんが浅漬けを噛むたび、心地よい音が私の耳に届いて、気分がみるみる上がっていく。

 ワンちゃんのおしりの辺りのズボンがふかっと盛り上がった。

「ありえない! 手抜きで完璧か!」

 頬を赤々と染めて感激するワンちゃんは、帰り道の姿よりずっと元気になったように見えた。

 その様子に私は少しほっとしつつ、ワンちゃんと同じく味見と言い訳して浅漬けを頬張る。

 口当たりはしっとり柔らかいのに、噛むと軽快な音が鳴って楽しい。

 あっさりとみずみずしい野菜の風味に、いい塩梅の塩加減と野菜そのものの甘みが爽やかだ。

 上機嫌でもう一つの瓶を開けると、柔らかい飴色をした梅干しがみっしり詰まっている。

「ワンちゃん、いいものあげるからね。はい」

 台所から現れた冬霧が、木目のある丸いお盆にお茶碗を持ってきてくれたので、温めなおしたばかりの真っ白なごはんの頂上に、しっとりと艶めく大ぶりの梅干しをのせる。

「俺もすぐ来るから、うみは先に食べていて」

「うん。いただきます!」

 大きな口でご飯と梅干しを頬張るワンちゃんに合わせて、私もいただく。

 口に含むと、覚悟はしていたのにやっぱり強い塩気と酸味に舌が驚いて、二人で一緒に顔をすぼめた。

 だけどよく噛んでいるうちに梅干し自体の甘みも分かるようになり、それがごはんそのものの甘さとなじんでいって、私好みになっていく。

 感極まったのか、ワンちゃんのフォークを持つ手が震えていた。

「酸っぱさの中にほんのりとした甘みのアクセント……相棒のご飯との最強コラボ感がたまらないんだけど……!」

 メイちゃんの家で覚えたのか、うさぎとは思えない比喩を駆使するワンちゃんから、浮き立つような多幸感が流れてくる。

「二人とも、おまたせ」

 冬霧が持ってきた丸盆にのったお皿から、煮込まれた豚肉とたれの甘く濃密な香りがただよってきた。

 問答無用で唾液腺を刺激されて、梅干しと浅漬けに夢中になっていたワンちゃんですら、引き寄せられるように顔を上げる。

「なんだこの匂い!? もはや美味い!」

「確かに、作り置きしておいた角煮はちょうど味がなじんでいて、今が一番いい頃かもね」

 冬霧は角煮の盛られたお皿を配った。

 ネギとショウガのくったりと溶けたたれの風味が、湯気と共に食卓を包みこむ。

「わ、おいしそう」

 四角いのにころんと丸みのある角煮はよく煮込まれていて、表面は濃い茶色の照りたれでつやつやとしていた。

 そのそばに並ぶネギとゆで卵もいい色に染め上がっていて、食欲をかきたてられる。

 柔肌の角煮を箸で割ると素材のきれいな白色が現れて、肉汁とたれがじんわり溢れた。

 そっと口に運ぶと、溶けるような熱い肉の感触と濃厚な甘辛いたれがなんだか色っぽくほどけていく。

 角煮に心を奪われたワンちゃんの、うっとりと目じりを下げるその吐息もどことなく甘い。

「残り物、最高か……」

 ワンちゃんは出された食事をあっという間に平らげた。

 しかしまだ物欲しそうな視線をさまよわせ、良い子のお手本のようによく噛んで食べている冬霧の手元に目を光らせる。

「冬霧、それ余ったらぼくが食べ、」

「いいよ。これは俺の仕事だから。ワンはもう終わったんだろ。はい、ごちそうさまして」

 諦めきれないワンちゃんは、なおも食い下がる。

「ふ、冬霧って、かっこいいよな!」

「うん。よく言われる」

 冬霧はあからさまなおだてに無反応で、当然のようにご飯と梅干しを頬張った。

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