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19・空回り

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「あのね。メイの代わりに、ぼくがワンを飼うことになったんだ」

 それを聞いて、メイちゃんの潤んだ目に再び涙が盛り上がる。

 そして一層声を張り上げて泣き出した。

 なにやら同じことを繰り返し訴えているが、要するにワンちゃんを別の人に飼われることが面白くないらしい。

「わんちゃん、わんちゃん、わんちゃーん!」

 嫌われたかもしれないと思っていた相手に何度も泣き叫ばれて、ワンちゃんの心が震えている。

 それでも、目の前で泣きじゃくる大切な女の子に対して、ワンちゃんは落ち着いてもらえるようにやさしく声をかけた。

「メイ、あのね。ぼく……」

 言葉がつかえると、ワンちゃんの大きな瞳に今にもこぼれそうな透明な液体が浮かぶ。

 別れたくない。

 葛藤の傷口がかきむしられるように痛んで、私は強張る手で胸元を強く押さえた。

 小さいころならきっと、感情の渦にされるがまま泣き叫び転げまわっている。

 隣から冬霧の訴えるような眼差しを感じた。

 私はぐっと自分を奮い立たせて、できるだけ冬霧が安心できるように微笑む。

 見届けさせて欲しい。

 自分を弱虫だというワンちゃんが幾度も悲しみに翻弄されながら、それでもここまでたどり着いたということを、私はきっと本人より知っていた。

 ワンちゃんは腕で顔をごしごしこすると、今までの涙を飲み込んでしまったように、にっこり笑う。

「そうだ。ワンからメイにプレゼントを預かってきたんだ。待ってて」

 ワンちゃんは気を引こうしているのか、少しもったいぶった様子で、真っ白なファーの付いたキーホルダーをメイちゃんの前にかざす。

「これはワンだよ」

 メイちゃんは大声で泣くのをぴたりと止めて、目の前にゆれる白く丸い飾りに引き寄せられるように手を伸ばして受け取った。

「これ、めいのわんちゃん……ふわふわなの」

「そう。これがあれば、いつも一緒だよ。あとね、ワンはメイに自分の絵を描いてもらうのが好きなんだ。それと、メイが嫌いなにんじん食べてくれたら、ワンも嬉しいんだって」

 ワンちゃんのファーを夢中でふかふか握っているメイちゃんは、ぽつりと漏らす。

「めい、にんじんきらい」

「そっか」

 ワンちゃんは困ったように笑うと、メイちゃんの頭を撫でた。

 まるで、いつも自分がそうしてもらっていたお返しみたいに。

「ワンはメイのことが大好きだよ」

 メイちゃんは、おいしいものを口に含んで幸せにひたっているような、にんまりとした笑顔になった。

「めいも、すきー。わんちゃん、すきー」

「うん、ぼくも。忘れないよ。じゃあね」

 ワンちゃんはくるりと背を向ける。

 すると私と冬霧がいることにちょっとひるんで、再び目に浮かんでいた涙を慌ててぬぐった。

 それからそばにいた、メイちゃんのお母さんに頭を下げる。

「ありがとうございました。あの、メイにうさぎのファーの付いたキーホルダーをあげたんですけど、メイのアレルギーの負担になりますか?」

「ああ、あのくらいなら今のところ平気だよ。それよりその……君、うちのワンちゃんのこと飼ってくれるの? 本当なら、今度会いに行かせてもらえたら、メイも喜ぶんだけど……」

 メイちゃんのお母さんは、ふと気が付いたかのように息をのむ。

 目の前にいる、色白で赤い目の愛らしい少年を、信じられないようなまなざしで見ていた。

「まさか、君……」

 ワンちゃんはいたずらっこのような笑みを一瞬浮かべると、そのままぱっと家を飛び出していく。

 挨拶もそこそこに、私はワンちゃんのあとを追いかけた。

 急いでいるせいじゃない。

 胸がじくじくする。

 苦しい。

 階段を降り、団地のエントランスを出て、歩道の先に見えるワンちゃんの背中を夢中になって追いかけているうちに、腕が掴まれる。

 振り返って、ひやりとした。

 冬霧の鋭い眼差しは笑っていない。

「ダメだよ。今のワンに近づいたら」

 私ははっとして、頷く。

 遠いワンちゃんの背中が、人を寄せ付けさせない孤独に包まれていた。

 私はワンちゃんの、まだ起こったことを受け入れ切れていない葛藤を知っているけど。

 私が勝手に感じてしまうだけで、ワンちゃんはあの気持ちを知られたくなかったかもしれない。

 歩き続けるワンちゃんから少し距離をとったまま、冬霧と足並みを合わせた。

「なんだか、悔しい」

「どうしたの」

「だっていつも、冬霧の言うことが正しいから。私、ひとりで空回りしてる」

「みんなそうだよ」

「冬霧でも?」

「そうだよ。俺だっていつも、空回り」

 言葉とは裏腹に、冬霧は満足そうに暮れゆく空を見上げている。

 いつの間にか夕闇が降りていた。

 次第に車の通りや民家も少なくなり、街灯の明かりが頼りになる頃になっても、ひとり先を歩くワンちゃんはこっちを振り返らない。

 その後ろ姿がさっと駆け出すと、そのまま闇に消えてしまいそうな気がして、私は目が離せなかった。

 ふと、冷えた私の肩にあたたかいものが触れる。

 羽織っていたものを私にかけてくれた冬霧は、涼しげな薄手のシャツ一枚になっていた。

 私は掛けられたパーカを慌てて返そうとしたけど、冬霧はお構いなしで制してしっかりと着せてくる。

「だいじょうぶだよ。ワンはうみのこと、嘘つきにしないから」 

 冬霧の言葉に、私が倒れたときの、ぽろぽろ涙をこぼしながら励ましてくれたワンちゃんを思い出した。

──忘れてないよ、ぼく。メイに会うのが怖くて弱気になっているとき、うみがぼくなら乗り越えられるって信じてくれたこと。

「うん」

──今はつらいけど、だいじょうぶだよ。だってうみがそう言ってたからな!

 大きすぎるパーカを羽織っていると、不安も温められるように溶けていく。

 冬霧の言う通りだ。

 ワンちゃんはきっと、だいじょうぶ。

 三叉路に差し掛かったところで、ワンちゃんはぱっと振り返り、私たちの方を指さした。

 表情は夜に紛れてわからないけれど、声は威勢がいい。

「おい、冬霧! ぼくは腹が減った!」

「俺もー」

「わたしも!」

 私たちの返事に、ワンちゃんはぴょんぴょんとその場で軽快に跳ねる。

「よーし! これから冬霧には、すっごく頑張って疲れたぼくとうみを癒すため、腹いっぱいにしてもらう!」

 ワンちゃんは高らかに宣言すると、まだ鍵が開いていない家に向かって一番乗りで走って行った。

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