上 下
5 / 30

5・悲しみ

しおりを挟む
 どのくらいたったのか。

 眠りこけていたところに突然、震えるほどの苦しい感情に襲われて、私は目を覚まさずにはいられなかった。

 なにが起こっているのかもよくわからず、声も出せずに身をよじって恐怖に溺れる。

 悲しい。

 胸が炙られているかのように悲しい。

 暴力的な感情に引きずられて、涙があふれて止まらなくなった。

 私は嗚咽を漏らしながら枕に顔をうずめると、胸の前で両手を握りしめて息を殺す。

 そうしてようやく、なにが起こっているのかわかってきた。

 冬霧だ。

 あやかしである冬霧の気持ちが、近くにいる私に向かって奔流のように注ぎ込まれている。

 でもどうして、こんなにひどい気持ちなのか。

 不安すら感じて、私は涙も拭わず隣のふすまを見つめた。

 しんとしている。

 それがかえって怖く思えて、私は激情に震えながら身を起こすと、ふとんの上に座ったまま声をかけた。

「冬霧……」

 抑えようとしても、声はかすれて嗚咽が漏れる。

「うみ、どうしたの?」

 ふすまが開かれることはなかったが、すぐ返事がくる。

「だって、冬霧が……」

 落ち着いた冬霧の声を聞いて、私はこの気持ちが別のあやかしから流れてきたものか、または本当の私の気持ちなのかとわからなくなる。

 すこし考えたような間が空いてから、ふすまの奥で冬霧がちいさく声をあげた。

「あっ、そうか。うみも綾子と同じでわかるのか」

「お、おばあちゃんも……? あやかしの感情が、わかったの?」

「その様子だと、綾子よりうみのほうが強いかも」

 そう聞いて、お母さんがこの変わった私の体質のことを、あんなに自然に受け入れてくれた理由を知った気がした。

 次第に、私へ押し寄せていた感情が引いていく。

 隣の部屋で冬霧の動く気配がして、私たちを隔てるふすまが揺れたけれど、開くことはなかった。

 ふすま越しに張り付いている、冬霧の心細そうな声が届く。

「うみ、まだつらい?」

「ううん。だいじょうぶ」

 先ほどまでの激情はおさまってきたけれど、まだ胸の奥がじくじくしている。

 私は深呼吸をした。

「だけど冬霧は今、さっきの気持ちをすごく我慢してるんでしょ? 冬霧こそだいじょうぶなの?」

「俺は平気だよ。まさかうみのこと驚かせるとは思わなくて……ごめん。狐は月を見ていると感傷的になるんだ」

「そうなの?」

「だって月は、手を伸ばしても届かないだろ」

「……うん」

 私が思っているより、狐は切なくも風流なことに心を馳せているらしい。

「狐って、そんなこと考えるんだ」

「うん。目の前の月に手が届けばいいのにな、とか」

「どうして?」

「だって食べたら、だんごのような味がするかもしれないだろ。それともまんじゅうかな? だったらこしあんかな、つぶあんかな。俺はどっちも好き。おしまい」

「……また、作り話?」

 しかもオチを言われるまで、なかなか優雅な気持ちに浸っていた。

「うみのためだけに作った、聞いた後はぐっすり眠れるお話だよ。おやすみ」

 私は自分と冬霧の両方に呆れながら、再び横になる。

 まだ悲しみは心の端にしつこくこびりついていたけれど、先ほどまでの身をよじるような思いをしなくてすむのなら助かる。

 だけど冬霧はいつもひとり、あんな気持ちでこの家にいるのだろうか。

 私は冬霧が心配になった。

 一体、どうして。

 真っ先に、冬霧がおばあちゃんのことを話しているときの嬉しそうな顔が浮かんだ。

 やっぱり、おばあちゃんに会いたいのかもしれない。

 でもそれは私には叶えてあげられないし、それだと少し変なことにも気づいた。

 さきほど流れ込んできた悲しみは、いつか帰って来るかもしれない人に対するさびしさというよりは、今すぐにでも手に入れたいのにそれを果たせない苦しみのような、切実なものだった。

 そういう気持ちを、私は知っている。

 お母さんと一緒に住んでいた古くて小さなアパートの玄関に立ちつくしながら眺めた、全て片付けたあとのがらんどうな景色を前にしたとき。

 もうここには永遠に帰ることができない。

 そう思い知らされたあのときのことがよぎると、今でも胸がかき乱されてしまいそうになり、私は考えるのをやめる。

 ぽつりと思った。

 冬霧は狐の世界に帰りたいのかもしれない。

 作り話と言っていたけれど、狐に戻る努力をしているというのは嘘ではない気がした。

 少し考えれば、その不便な生活は私にだって想像できるから。

 冬霧は今、あやかしになって狐に戻りたいと努力しながらも戻れず、人の世界の片隅で正体を知られないように細々と暮らしているのだろう。

 帰りたいに決まってる。

 誰だって。

 再び目の奥が熱くなってきて、私は静かに目を閉じた。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

ロボリース物件の中の少女たち

ジャン・幸田
キャラ文芸
高度なメタリックのロボットを貸す会社の物件には女の子が入っています! 彼女たちを巡る物語。

メカメカパニックin桜が丘高校~⚙②天災科学者源外君の日曜日

風まかせ三十郎
キャラ文芸
 天災科学者源外君の日曜日。それは破壊と殺戮と陰謀渦巻く、いわゆる狂気の実験の時間であった。学友たちが海や山や川やゲーセンに繰り出している頃、彼は研究室に引きこもり、相も変わらず世界を破壊と殺戮と混沌と、わずかばかりの進歩のために研究に没頭しているのだ。そんな彼を溢れんばかりの愛と、それを凌駕する大いなる不安と恐怖で見つめる天才美少女科学者愛輝さん。それは科学に魂を売った故、世界一冷血な性格の彼女が、唯一人間性を発露できる時間でもあった。そんな二人の恋愛ギャグSFロマン。ぜひご賞味ください。 ※「メカメカパニックin桜が丘高校①」の短編集です。前作を気に入ってくれた読者の方、ぜひ、ご一読を。未読の方はぜひ①の方からお読みください。

冥合奇譚

月島 成生
キャラ文芸
祖父宅への引っ越しを機に、女子高生、胡桃は悪夢を見るようになった。 ただの夢のはず。なのに異変は、現実にも起こり始める。 途切れる記憶、自分ではありえない能力、傷―― そんな中、「彼」が現れた。 「おれはこいつの前世だ」 彼は、彼女の顔でそう言った……

傍へで果報はまどろんで ―真白の忌み仔とやさしい夜の住人たち―

色数
キャラ文芸
「ああそうだ、――死んでしまえばいい」と、思ったのだ。 時は江戸。 開国の音高く世が騒乱に巻き込まれる少し前。 その異様な仔どもは生まれてしまった。 老人のような白髪に空を溶かしこんだ蒼の瞳。 バケモノと謗られ傷つけられて。 果ては誰にも顧みられず、幽閉されて独り育った。 願った幸福へ辿りつきかたを、仔どもは己の死以外に知らなかった。 ――だのに。 腹を裂いた仔どもの現実をひるがえして、くるりと現れたそこは【江戸裏】 正真正銘のバケモノたちの住まう夜の町。 魂となってさまよう仔どもはそこで風鈴細工を生業とする盲目のサトリに拾われる。 風鈴の音響く常夜の町で、死にたがりの仔どもが出逢ったこれは得がたい救いのはなし。

幼稚園探偵のハードボイルドな日々

JUN
キャラ文芸
ぼく──失礼、間違えた。私は広岡俊介、探偵だ。事務所はたんぽぽ幼稚園菊組に構えている。私は慣れ合わない。孤独なんじゃない、自由なんだ。しかしその自由は、事件や、時として女によって侵されるが。今も、その女の一人が来た。「俊ちゃん、おやつが済んだら歯を磨かないとだめでしょう」

みちのく銀山温泉

沖田弥子
キャラ文芸
高校生の花野優香は山形の銀山温泉へやってきた。親戚の営む温泉宿「花湯屋」でお手伝いをしながら地元の高校へ通うため。ところが駅に現れた圭史郎に花湯屋へ連れて行ってもらうと、子鬼たちを発見。花野家当主の直系である優香は、あやかし使いの末裔であると聞かされる。さらに若女将を任されて、神使の圭史郎と共に花湯屋であやかしのお客様を迎えることになった。高校生若女将があやかしたちと出会い、成長する物語。◆後半に優香が前の彼氏について語るエピソードがありますが、私の実体験を交えています。◆第2回キャラ文芸大賞にて、大賞を受賞いたしました。応援ありがとうございました! 2019年7月11日、書籍化されました。

諦めて溺愛されてください~皇帝陛下の湯たんぽ係やってます~

七瀬京
キャラ文芸
庶民中の庶民、王宮の洗濯係のリリアは、ある日皇帝陛下の『湯たんぽ』係に任命される。 冷酷無比極まりないと評判の皇帝陛下と毎晩同衾するだけの簡単なお仕事だが、皇帝陛下は妙にリリアを気に入ってしまい……??

処理中です...