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その後

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 走る足が、水をはじく。
 アロンとベルは息を切らし、ひとけのない道を選び、ベルがよく知る飲み屋街の裏道から、抜け道の地下水路へと進んでいた。

 炎が有効だったのか、今のところ追手の気配はない。
 それでもアロンは、一度だけ振り返った時に見た、あの不気味に佇んだ女のシルエットが執拗によぎり、いつになっても逃れた心地にはなれなかった。

「ごめん」

 沈んだベルの声に、アロンは意識を戻す。
 三角帽子のつばで隠れて、小柄なベルの表情はわからなかった。

「私、エミリマが村にいないことに気づいたんだ。体調もまだ心配だったし、もしかしてあんたを追いかけて王都に行ったんじゃないかって、胸騒ぎがして来てみたけど……遅すぎた」

 アロンの中に、しんしんと悲しみが湧き上がってくる。
 ベルが傷付いている。
 そしてそれは、信じたくないことが起こったのだと、アロンに自覚させた。

「ベルのせいじゃない。俺が……」

 声がかすれた。
 アロンは霊薬を持って帰ってから、エミリマにひどい言葉を投げつけて、大切にしてくれた指輪を踏みつけたことを思い出す。
 そんな自分を心配して、エミリマは体調の不安を抱えながら王都まで来てくれたというのに、近衛騎士に追われたり、苦しいほど走らされて、それから迎えたあの姿を思い出すと、身をよじるような後悔が襲ってくる。

「全部、俺が引き起こしたことなんだ」

 ただ、元気になって欲しかった。
 幸せでいて欲しかった。
 それだけだったはずなのに、何が悪かったのか。

 エミリマの笑顔を思い出そうとしても、背中に剣の突き刺さった、あの無残な最期が浮かぶ。
 それはふと、エミリマからベルに変わった。
 耐え難い予感だった。

 このまま逃げれば、一緒にいるベルにまで危害が及ぶのは明らかだった。
 これ以上、誰一人も、失いたくない。
 たとえ会えなくても、生きていてくれると思えるのは、どれほど幸せなことか。
 アロンは震える息を吐いた。

「ベル、来てくれてありがとう。ここでお別れだけど、元気でな。酒、飲みすぎるなよ」
「アロンは?」
「俺……?」
「アロンはどこへ行くの」
「俺には、姫が待っている」
「じゃあ私は?」
「今は逃げて……それでいつか、元の姿に戻れたらいいな」

 ベルは無表情でアロンを見上げた。

「何言ってんの」
「何って……」
「だってそうだよ。このままだと私、殺される」
「だからだよ。俺はそうならないために、姫の元へ戻る。それなら多分……失うのは、俺の手首ひとつくらいで、」
「ふざけんな」

 ベルはアロンの服のすそを掴み、強く引いた。

「その手は、エミリマが命を懸けて守った、特別な手なんだよ。手首ひとつ? 簡単に言うな!」

 地下水路に、少女の声が反響する。
 アロンは自分の袖をつかむ小さな手が、ぶるぶると震えていることに気付く。
 ベルは泣いていた。
 気丈にふるまっていても、何も感じていないわけがない。
 ただアロンを助けようと、エミリマを失った罪悪感や身の保身は後回しで、ひたすら無理をしていただけだった。

「助けてよ……」

 ベルは食いしばるように嗚咽を漏らした。

「私だって、怖いに決まってるじゃない。ひとりにしないで」

 遺跡で見た、出会った魔物にも恐れず立ち向かうベルが、心細さに泣きじゃくっている。
 アロンはひるんだ。
 どうするのが正しいのか。
 自然とてのひらを握りしめると、エミリマの言葉がふと胸をつく。

──アロンの手は、働きもので、強くて、優しくて……人を助けてくれる、本当にいい手だって。そうなんだよ。大切な手なの。

 アロンは歯を食いしばる。
 泣いている場合ではなかった。
 ここに立っていることができるのは、自分だけの力ではないのだと、アロンは改めて思いなおす。
 命も、手も。
 自分だけで守ってきたものは、何ひとつない。
 エミリマが自分のことをどれだけ思っていてくれたのか、今になってわかったような気がした。

 アロンは一歩、足を踏み出す。
 隣にいたベルは、赤く腫れた目で、アロンを見上げた。

「アロン、私……」
「行くぞ」

 ベルは驚いたように、口を開いたまま言葉を返さなかったが、代わりにちいさく頷いた。
 二人は再び、地下水路を進み始める。
 どちらも無言だった。

 背中に、痛いほどの視線を感じている。
 だから、アロンは振り返らない。
 逃げ切ってやる。

 もしそこに、姫が待っていたとしても。


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