41 / 247
第二部『帰らずの森と鬼神の迷い子』
一章-6
しおりを挟む6
レティシアがトルムイ山の麓に到着したのは、昼を過ぎてからだった。
トルムイ山は元々、緑が豊かな場所だった。標高は低めで、登山をしても二時間ほどで山頂に到達する。
そのトルムイ山を覆っていた森林の三分の一ほどが、無残にも朽ちていた。遠目にはミミズがナメクジが這った跡を思わせる軌跡を描いていたが、だとしたら、幅が十数マーロン(一マーロンは約一メートル二五センチ)もある存在とは、一体なんだというのか。
その不気味に朽ちた森林を見上げながら、レティシアは生唾を飲んだ。
「総員、警戒を怠るな。あの森の木々を薙ぎ倒していったヤツが、件の魔物である可能性が高い」
「レティシア……これは一度引くべきかと」
副団長であるセラが、レティシアの乗る騎馬に馬首を並べた。
普段は冷静な表情を崩さぬセラだったが、今は血の気が引いた顔をしていた。
「あの森を這いずった跡から察するに、かなり巨大な魔物と推測できます。斃すのであれば、援軍が必要でしょう」
「斃すなら、そうする。しかし我らの使命は、調査である。最終的な判断は、魔物の正体を突き止めてからだ」
そう答えるレティシアの顔は、普段よりも青白かった。
レティシアとセラの操る騎馬を先頭に、騎士団はトルムイ山の山道を登り始めた。巨大な力で木々が薙ぎ倒された場所に近寄ると突然、馬が嫌そうに嘶いた。
「どうした? クロース」
「はい団長。ええっと……脚が気持ち悪い……みたいです」
「脚?」
レティシアが地面を見下ろすと、粘液のようなものが地面を覆っていた。
粘液は倒木や折れた草花にもこびりつき、ところによっては糸を引いていた。まだ新しいのか、微かに腐肉のような臭いが漂っていた。
「――うっ」
騎士団長としての威厳を保ち続けたレティシアだったが、これには流石に顔を歪めた。
精神的な嫌悪感というものが自制心を凌駕し始めていたが、瓦解寸前のところで冷静さを取り戻した。
「総員、周囲の警戒を怠るな。魔物は近いかもしれん」
手綱を操って前に進もうとしたが、騎馬は珍しく抗った。
仕方なく、レティシアとセラは粘液を避けるように騎馬を先に進ませた。それから、数分ほど経ったとき、騎馬の耳が忙しく動き始めた。
「団長、馬たちが不安がってます。これ以上は……」
「下馬をして進まねばならんか」
レティシアが騎馬の首を撫で始めたとき、か細い声が聞こえてきた。
「――くれぇ。すけ――くれぇ……」
「なんだ? クロース、この声は魔物か?」
「わかりません。あたしの《スキル》では、聞き取れなくって」
「もう少し試してみてくれ。動物たちの声が、手掛かりになるかもしれん」
「……わかりました」
クロースは不安そうな顔で頷きながら、レティシアの指示に従った。
目を閉じて深呼吸しながら、意識を周囲に広げていく。
(なにかいるの? あたしの声に応えてっ!!)
クロースの《スキル》である〈動物共感〉の力に乗せて、クロースの言葉が広がっていった。
しかし、反応はない――と、クロースが肩を落としかけたとき、なにかの振動か、地面が揺れ始めた。
「これ、地震か!?」
怯える馬を宥めながら、レティシアが周囲を見回した。
地面の揺れは数秒ほど続くと、すぐに収まった。レティシアたちは安堵しながらも、しばらくは再び地面が揺れるのではないかと、周囲を見回していた。
そのとき、異質な音が響き渡った。
〝グヌチャビギャヌチャヌチャグキャ――〟
それは、なんと形容すればいいのか。騎士団の面々は、音の正体が判断できなかった。
喩えるなら。
ナメクジや外皮の薄い昆虫などを器に入れ、一心不乱にすり潰しているような――そんな音だ。
「これは、なんだ?」
音の響き渡ってくる方向をセラが仰ぎ見たとき、トルムイ山の山頂付近に、巨大な影が現れた。
ゼリー状になっている半透明の表皮から、筋肉や内臓、脳といった器官がうっすらと浮き出ていた。三つある目は、表皮の中を泳ぐように漂い、涎とも粘液ともとれる液体が滴る口からは、蛸や烏賊の足のような、触手が蠢いていた。
常軌を逸したその姿に、レティシアを初めとした騎士団は恐怖した。
「ひ、退け! 退くぞっ!!」
馬首を巡らしたレティシアの号令で、セラとクロースの操る馬車が山道を戻り始めた。
(あれ?)
クロースは伝わって来た『声』で、我に返った。
(帰りたいって聞こえた。誰の声なの?)
声がした方向を振り返ったクロースは、山頂にある不気味な魔物と目が合った。
(――む、無理ぃ)
レティシアを先頭に、《白翼騎士団》は魔物が見えなくなるまで、全速力で撤退を続けた。
どれだけ馬を走らせただろう。
馬の口から泡が出始めていることに気付いたレティシアが、わずかに手綱を緩めた。
(さすがに、休ませねばならんか)
背後を振り返ったが、あの魔物の姿は見えなかった。
街道まで出たところで、レティシアは片手を挙げて騎馬と馬車を停めた。すぐ横にいるセラの騎馬に馬を寄せると、レティシアは小声で話しかけた。
「セラ、あの魔物はなにかわかるか?」
「皆目……見当がつきません。おぞましい姿が目に焼き付いているようです」
「同感だ。生態の調査をするにしろ、我々だけでは無理だな」
「ランド――を使うおつもりですか?」
どこか安堵したようなセラの表情に、レティシアは目の縁に皺を寄せた。
《白翼騎士団》の面々が、ランドに様々な信頼を寄せていることに、レティシアも気付いていた。
それは瑠胡――ドラゴンに打ち勝った一件や、監査に来たゴガルンとの一戦などで、芽生えたものだ。それを理解しているから、あまり強く咎めることができなかった。
どんな理由があるにせよ、ランドを関わらせたのはレティシア本人だからだ。
馬車に近寄ったレティシアは、クロースに休憩の旨を伝えると、荷台にいるリリンを手招きした。
無表情な顔は普段と変わりないリリンだったが、やはり顔色は悪かった。
申し訳ない気持ちを抱きながら、レティシアは軍馬から降りて、馬車から降りるリリンを待った。
「リリン、このような状況ですまぬが、キャットたちに伝言を送ることはできるか?」
「……伝言、ですか?」
「ああ。これから合流したい、とな。河原のあたりで待機して欲しいのだが――」
「使い魔を召喚すれば、可能です。居場所を探すのに、少し時間がかかるかもしれませんが、馬よりは早く伝言を伝えられると思います」
「では、頼む。日暮れくらいには合流したい」
「はい」
リリンが詠唱を始めるのを眺めてから、レティシアは騎馬から降りた。
自分の手が震えていることに気付いたのは、女従者に愛馬を託す直前のことだった。
10
お気に入りに追加
73
あなたにおすすめの小説
死霊王は異世界を蹂躙する~転移したあと処刑された俺、アンデッドとなり全てに復讐する~
未来人A
ファンタジー
主人公、田宮シンジは妹のアカネ、弟のアオバと共に異世界に転移した。
待っていたのは皇帝の命令で即刻処刑されるという、理不尽な仕打ち。
シンジはアンデッドを自分の配下にし、従わせることの出来る『死霊王』というスキルを死後開花させる。
アンデッドとなったシンジは自分とアカネ、アオバを殺した帝国へ復讐を誓う。
死霊王のスキルを駆使して徐々に配下を増やし、アンデッドの軍団を作り上げていく。
ずっと君のこと ──妻の不倫
家紋武範
大衆娯楽
鷹也は妻の彩を愛していた。彼女と一人娘を守るために休日すら出勤して働いた。
余りにも働き過ぎたために会社より長期休暇をもらえることになり、久しぶりの家族団らんを味わおうとするが、そこは非常に味気ないものとなっていた。
しかし、奮起して彩や娘の鈴の歓心を買い、ようやくもとの居場所を確保したと思った束の間。
医師からの検査の結果が「性感染症」。
鷹也には全く身に覚えがなかった。
※1話は約1000文字と少なめです。
※111話、約10万文字で完結します。
父に虐げられてきた私。知らない人と婚約は嫌なので父を「ざまぁ」します
さくしゃ
ファンタジー
それは幼い日の記憶。
「いずれお前には俺のために役に立ってもらう」
もう10年前のことで鮮明に覚えているわけではない。
「逃げたければ逃げてもいい。が、その度に俺が力尽くで連れ戻す」
ただその時の父ーーマイクの醜悪な笑みと
「絶対に逃さないからな」
そんな父を強く拒絶する想いだった。
「俺の言うことが聞けないっていうなら……そうだな。『決闘』しかねえな」
父は酒をあおると、
「まあ、俺に勝てたらの話だけどな」
大剣を抜き放ち、切先で私のおでこを小突いた。
「っ!」
全く見えなかった抜剣の瞬間……気が付けば床に尻もちをついて鋭い切先が瞳に向けられていた。
「ぶははは!令嬢のくせに尻もちつくとかマナーがなってねえんじゃねえのか」
父は大剣の切先を私に向けたまま使用人が新しく持ってきた酒瓶を手にして笑った。
これは父に虐げられて来た私が10年の修練の末に父を「ざまぁ」する物語。
魂が百個あるお姫様
雨野千潤
ファンタジー
私には魂が百個ある。
何を言っているのかわからないだろうが、そうなのだ。
そうである以上、それ以上の説明は出来ない。
そうそう、古いことわざに「Cat has nine lives」というものがある。
猫は九つの命を持っているという意味らしく、猫は九回生まれ変わることができるという。
そんな感じだと思ってくれていい。
私は百回生きて百回死ぬことになるだろうと感じていた。
それが恐ろしいことだと感じたのは、五歳で馬車に轢かれた時だ。
身体がバラバラのグチャグチャになった感覚があったのに、気が付けば元に戻っていた。
その事故を目撃した兄は「良かった」と涙を流して喜んだが、私は自分が不死のバケモノだと知り戦慄した。
13話 身の上話 より
祝・定年退職!? 10歳からの異世界生活
空の雲
ファンタジー
中田 祐一郎(なかたゆういちろう)60歳。長年勤めた会社を退職。
最後の勤めを終え、通い慣れた電車で帰宅途中、突然の衝撃をうける。
――気付けば、幼い子供の姿で見覚えのない森の中に……
どうすればいいのか困惑する中、冒険者バルトジャンと出会う。
顔はいかついが気のいいバルトジャンは、行き場のない子供――中田祐一郎(ユーチ)の保護を申し出る。
魔法や魔物の存在する、この世界の知識がないユーチは、迷いながらもその言葉に甘えることにした。
こうして始まったユーチの異世界生活は、愛用の腕時計から、なぜか地球の道具が取り出せたり、彼の使う魔法が他人とちょっと違っていたりと、出会った人たちを驚かせつつ、ゆっくり動き出す――
※2月25日、書籍部分がレンタルになりました。
パーティーを追放された雑用係の少年を拾ったら実は滅茶苦茶有能だった件〜虐げられた少年は最高の索敵魔法を使いこなし成り上がる~
木嶋隆太
ファンタジー
大手クランでは、サポーターのパーティー追放が流行っていた。そんなとき、ヴァレオはあるパーティーが言い争っているのを目撃する。そのパーティーでも、今まさに一人の少年が追放されようとしていた。必死に泣きついていた少年が気になったヴァレオは、彼を自分のパーティーに誘う。だが、少年は他の追放された人々とは違い、規格外の存在であった。「あれ、僕の魔法ってそんなに凄かったの?」。何も知らない常識外れの少年に驚かされながら、ヴァレオは迷宮を攻略していく。
田舎暮らしと思ったら、異世界暮らしだった。
けむし
ファンタジー
突然の異世界転移とともに魔法が使えるようになった青年の、ほぼ手に汗握らない物語。
日本と異世界を行き来する転移魔法、物を複製する魔法。
あらゆる魔法を使えるようになった主人公は異世界で、そして日本でチート能力を発揮・・・するの?
ゆる~くのんびり進む物語です。読者の皆様ものんびりお付き合いください。
感想などお待ちしております。
ぐ~たら第三王子、牧場でスローライフ始めるってよ
雑木林
ファンタジー
現代日本で草臥れたサラリーマンをやっていた俺は、過労死した後に何の脈絡もなく異世界転生を果たした。
第二の人生で新たに得た俺の身分は、とある王国の第三王子だ。
この世界では神様が人々に天職を授けると言われており、俺の父親である国王は【軍神】で、長男の第一王子が【剣聖】、それから次男の第二王子が【賢者】という天職を授かっている。
そんなエリートな王族の末席に加わった俺は、当然のように周囲から期待されていたが……しかし、俺が授かった天職は、なんと【牧場主】だった。
畜産業は人類の食文化を支える素晴らしいものだが、王族が従事する仕事としては相応しくない。
斯くして、父親に失望された俺は王城から追放され、辺境の片隅でひっそりとスローライフを始めることになる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる