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三章-5

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 翌朝、俺たちはランカルの商売を再開した。
 といっても、昨日の今日で商材は減ったままだ。隊商のみんなは、朝一で仕入れに行ってもらった。俺は仕入れをユタさんに任せて、仕込みと厨房馬車での営業準備に追われていた。
 小一時間ほど牛乳を振ってバターを、卵や酢を駆使してマヨネーズを造る。干し肉を軽く炙り、キャベツの千切りやタマネギの微塵切りを容器に入れる。
 切れ目を入れたパンの断面に、ニンニクを潰した汁とバターを混ぜたものを塗り、熱した鉄板で軽く焼く――。
 ここ何回か、こうした仕込みのときにはアリオナさんが手伝ってくれたけど――今日はいない。
 昨日の今日だから、来ないのは当然……だろうなぁ。
 嫌われちゃったかなって思うと……へこむなぁ。前世も含めた人生の中で、最大級の落ち込み具合なんだけど。
 誤解……解かなきゃなぁ。でも、今以上に拗れるのが怖いから、俺から話しかけられない。しばらくは、怯えながら暮らすしかないんだろうなぁ。

 ……ホント、どうしよう。

 俺は鉛よりも重い溜息を吐きながら、厨房馬車の雨戸を開けた。



 アリオナは昨晩から、ほとんど喋っていない。
 山賊たちに襲われた村で、家族と過ごしていたときと同じだ。心や感情が塞ぎ込んでいて、他人と関わろうとする気力が削げていた。
 まだ時間が早いためか、市場を訪れる人はほとんどいない。樽の側に立ちながら、朝日が周囲の建物を照らすのを眺めていると、買い出しを終えたユタが近寄って来た。


「アリオナちゃん、昨日から暗いけど――って、言葉が通じないか」


 挙げた手を下ろしながら、ユタは昨晩のことを思い出していた。
 ユタが馬車で留守番していると、クラネスたちが予定よりも早く帰って来た。出迎えるために慌てて馬車から降りたユタが見たのは、暗い表情のクラネスとアリオナだ。
 フレディから大体の状況を――半ば強引に――聞き出したのだが、そのときは(若いわねぇ)という感想しか抱かなかった。
 朝になればケロッとしていると思ったのだが、事態は思いの外、深刻なようだ。


(あたしなら、そんなの気にしないんだけどなぁ)


 性格の違いを考慮しない感想を抱きながら、ユタはアリオナを手招きしながら、小石を拾い上げた。
 ユタが小石を擦りつけるように、樽の表面になにかを刻みつける様子を、アリオナは無表情に眺めていた。
 樽から離れたユタが、刻みつけた部分を指先で示した。


〝これは助言なんだけど。クラネス君と、ちゃんと話をしたほうがいいわよ? あとで、後悔する前にね。クラネス君とサリー、どっちの言葉を信用するかを決めるのは、それからでも遅くないわ〟


 メッセージを読み終えたアリオナが顔を上げたとき、ユタは手を振りながら去って行くところだった。
 しばらく立ち尽くすようにしながら、アリオナはユタの助言を見つめていた。
 やがて市場を訪れる人が増えてくると、アリオナの前に最初の挑戦者が現れた。


「昨日の雪辱を、晴らしてやるぜ」


 そう息巻いているのは昨日、八人目の挑戦者だった男だ。腕の太さはアリオナの太股よりも太く、身の丈も二ミクン(約一メートル九六センチ)を遙かに超えている。
 いつもの流れで掛け金を受け取り、樽の上で腕相撲の姿勢をとった。
 男の大きな手が、アリオナの手を包み込むように掴んできた。汗ばんだ感触が、男の緊張具合を伝えてくる。
 不快感はあるが、それすらも今は、どこか意識の外にあった。


(あたし、なにをやってるんだろう……?)


 こんな勝負をしたところで、この隊商には長くいられない。クラネスが貴族になってしまったら、解散するのは目に見えている。
 羊皮紙に書かれたサリーの言葉が、脳裏に蘇る。


〝貴族である彼に、平民の出の貴女が付きまとうなど、厚かましいにも程があります。身分の差というのを、自覚なさい〟


 身分の差――それを覆すことは、少なくともラオン国では不可能に近い。お互いに平民であれば、多少の貧富の差は乗り越えられる。
 しかし、それが爵位のある貴族や王族になると、平民などが立ち入る余地は無い。
 昨晩の記憶が頭の中を渦巻く中、勝負が始まった。しかし、いつものように身体に力が入らない。
 男の腕を押し返そうとするが、抵抗ができない。徐々に自分の手の甲が、樽の蓋へと押されていく。
 このままでは負けると悟ったとき、アリオナの中に芽生えたのは諦めだった。


(このまま負ければ……楽になるのかな。どこかの村で仕事を紹介してもらって、ひっそりと暮らす――)


 クラネスから別れを告げられるよりは、マシかもしれない。
 そんな分別めいた考えが、頭の中を埋め尽くしかけた。そこに割り込んできたのは、昨晩に言われたクラネスの言葉だった。


〝ちゃんと俺の話を聞いて!〟


 その記憶に、アリオナは見失いそうになっていた自分の心を取り戻した。


(そう言えば、クラネスくんから、ちゃんと話を聞いてない)


 雑談混じりに貴族ではないと言われただけで、お互いに向かい合って、話をしてないことに気付くと、アリオナの頭が徐々に晴れてきた。
 続けて思い出したのは、ユタの助言だ。

〝あとで、後悔する前にね〟


(あたし――後悔なんか、したくない)


 クラネスから話を聞くことへの怖れが、ないといえば嘘になる。自ら貴族だと断定され、身分違いから、将来的な別れを打ち明けられたら――今度こそ、立ち直れなくなりそうだ。
 その想像が、自らの意気を削ぎかけた。
 再びアリオナの身体から力が抜けかけたとき、昨晩の光景が脳裏に蘇った。
 無頼者に腕を掴まれたアリオナを助けるために、飛び込んできたクラネスの姿、そして怒鳴り声――その光景に、アリオナの目に光が戻った。
 手の甲が樽の蓋に触れる寸前、アリオナの身体に活力が戻った。渾身の力を込めて腕を押し戻し、そのまま男の手の甲を樽の蓋に叩き付けた。


 周囲から「おおーっ!」というどよめきが起きたが、アリオナは聞いていなかった。
 一度は預かった掛け金を挑戦者に返すと、「ごめんなさい。今回の勝負はなしで」と言い残して、脱兎の如く駆け出した。

   *

 まだ陰鬱な気分が続く中、俺が三人前のカーターサンドを作っていると、いきなり厨房馬車の出入り口が開けられた。


「クラネスくん、話があるの!」


 走ってきたのだろう、額にうっすらと汗を滲ませたアリオナさんが、真っ直ぐに俺を見ていた。
 俺は戸惑いながら、作りかけのカーターサンドとアリオナさんを交互に見た。


「あの、これを作ってから――」


「あたしと仕事、どっちが大事なの!?」


 ……あの、いや、倦怠期の恋人同士か夫婦みたいなことを言われても。一応は客商売なわけで、注文をしてくれたお客を、放っておくことはできないんだけど。
 なんとかアリオナさんをなだめすかして、俺は大急ぎで注文の品をやっつけた。それから雨戸と出入り口を閉めると、俺とアリオナさんは向かい合いながら床に座った。


「それで……話って」


「クラネスくん、前に貴族じゃないって言ったよね。でも、サリーって人は、クラネスくんは貴族だって。これはどういうことなの?」


 アリオナさんの質問に、俺は溜息を吐いた。
 こんな質問をされるとは予想していたけど、ここまで直球でくるとは思わなかった。しばらくのあいだ、俺は返答に迷っていた。
 どうやって答えるかを、悩んでいたわけじゃない。このやり取りで、アリオナさんが俺に愛想をつかせるのでは――という想いが、俺に怖れを抱かせていたんだ。
 でも――きっと、これが俺とアリオナさんの関係を決める、最後の機会だ。ならばせめて、誠実でいたい。
 俺は意を決したように、顔を上げた。


「俺の祖父――爺様が貴族というのは、本当だよ。カーター伯爵っていえば、そこそこ有名みたい」


「なら――」


「でも、俺の両親は貴族じゃなかったんだよ」


 アリオナさんは、俺の返答を聞いて怪訝そうにしている。当然のように納得はしていないようで、数秒経ってから固い声で訊いてきた。


「どういうこと? 貴族の息子は、貴族じゃないの?」


「そのあたりは、少し複雑なんだよ。後継者は、そのまま爵位を受け継ぐんだけどね。そして分割して壌土できる領地があれば、爵位を落として、そこの領主になれる。だけど――分割できる領地もなく、後継でもない者は……家名も継げないまま、放逐されるんだ」


「それが……クラネスくんのご両親?」


「そういうこと……だと思う。記憶は薄いけど、なにかの商売をしていたんだよね。だから、少なくとも貴族じゃなかったと思う。俺を引き取った爺様は貴族だけど、息子もいればその孫もいる。俺が後継として選ばれる可能性は低いし、俺も貴族にはなりたくない。だから――」


「借金までして、厨房馬車で商売をしてるの?」


 続く言葉を先読みしたアリオナさんに、俺は頷いた。


「そういうこと」


「クラネスくんの《力》なら、この前の冒険者ってやつのほうが、手っ取り早いとか思わなかったんだ」


「もちろんだよ。この世界でさ、極一部から最凶って呼ばれる音声使いに転生はしたけど、戦いとか面倒だし。厨房馬車で生計をたてられれば、それでいいよ。なんで好きこのんで、死と隣り合わせの世界で生きなきゃならないんだろうって、そう思わない?」


「……確かに」


 小さく頷くアリオナさんの表情は、さっきよりも柔らかいものになっていた。
 その表情を見て、俺の中から怯えの感情が薄れていった。俺は緊張を解くように大きく息を吐くと、確認の意味を含めながら、アリオナさんに問いかけた。


「それで、誤解は解けた……のかな?」


「……うん。けど、ちょっと怒ってる」


 その返答に、俺の身体がビクッと震えた。
 怒りが収まってないってことは、やはり嫌われたままか――そう思っていると、アリオナさんが俺の顔を覗き込んできた。
 その顔には怒りはなく、少し拗ねたような表情だ。


「最初から、全部教えてよ。そうしたら、昨晩だってサリーって子に言い返せたのに」


「……ごめん、なさい」


「あと――言いたいことは、それだけ?」


 アリオナさんはそう言ってきたけど……説明は以上。もう鼻血すら出ない。
 俺は戸惑いながら、そしてこのあとの言葉が怖くて、生唾を飲み込んだ。


「とりあえずは、これだけ――かな」


「ふぅん……そっか」


 そのまましばらくは、お互いに沈黙していた。
 一分も経ってないくらいか……アリオナさんは無言で立ち上がると、そのまま厨房馬車から出て行こうとした。
 俺は慌てて、アリオナさんを追いかけた。


「ど、どこへ行くの?」


「どこって……もちろん、稼ぎに。腕相撲勝負、まだちゃんと、やってないんだもん。がっつりと稼いでくるから、期待しててね」


「あ……うん」


 唖然とした俺を置いて、アリオナさんは厨房馬車から出て行った。そのとき、馬車が走り去る音が聞こえてきたけど、気にするような心情じゃなかった。
 一人残された俺は、そっと雨戸を開けた。顔を出して視線を彷徨わせていると、樽のところへ戻ったばかりのアリオナさんを見つけた。
 樽の近くにいた大男に近寄ったアリオナさんは、右腕を振り回し始めた。


「さあ、お待たせしました! 再挑戦、受け付けます。今度は失礼のないよう、最初っから全力でやらせてもらいます!!」


 そう言われた大男は――あ、逃げた。
 よく状況が飲み込めてないんだけど……丸く収まったのかな? そう思っていいんだろうか、これ。
 だけどアリオナさんの声は、いつになく活気に溢れている。
 その声をこっそり〈集音〉してBGM代わりにしながら、俺は商売を再開する準備を始めた。

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本作を読んで頂き、誠にありがとうございます!

わたなべ ゆたか です。

本文中に出てきた貴族の設定は、そこそこ時代考証込みになっています。

『魔剣士と光の魔女』では、騎士についての時代考証を書いてましたが、貴族はそれよりは緩い感じですね。
 ただ、分割できる領地がないと、家を出ることになるのは一緒……だったような。このあたり、諸説ありますので、確実に「こうだ!」と言うつもりはありませんが。

これはあれです。
逃げ道は作っておかないと……的なヤツです。お察し下さいませ。

少しでも楽しんで頂けたら幸いです。

次回も宜しくお願いします!
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