青空と黒い空

わたなべ ゆたか

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 青空が宿泊するホテルに辿り着いたのは、午後六時半頃だった。
 武田家の本来の予定では、宿の大広間で食事をしているはずの時間だ。しかし――少女の助けはあったものの、自力でホテルに戻った青空を持っていたのは、両親からの説教だった。
 宿の客室で正座させられていた青空に、母親の怒声が飛んだ。

「遅くなるなら、連絡しなさいって言ったでしょ!!」

 身体を竦めながら、青空は小さく頭を下げた。

「……ごめんなさい。電話はしようと思ったけど、電波が届かなくて」

「電波が届かないって――写生をするためだけに、何処まで行ってたの」

「……山の中」

「な――」

 あまりにも予想外な返答だったのか、言葉を失った母親は口をぱくぱくとさせた。その横では、父親が無言で画用紙を眺めていた。
 眼鏡を指で直してから、父親は顔を上げた。

「青空。山に入ったからって、これ一枚を描くだけで、こんな時間にならんだろう。ここは多分……そんなに山奥ってわけじゃないしな。道に迷ったか――でなければ、ほかに行った場所があったんじゃないのか?」

「……なんで、そう思うの?」

 あの場所は、少女の秘密の場所なのに――そう思いながら発した青空の問いに、父親は懐かしそうに目を細めながら、青空の描いた絵へと目を落とした。

「ここはな、お袋――つまり、おばあちゃんのお気に入りの場所だったんだ。ここから見る空が好きだって、よく言ってたよ」

 父親の言葉に、青空は口をぽかんと開けた。それは、あの少女が言っていたことと、まるっきり同じだ。

「お気に入り――例えば、秘密の場所みたいな?」

 青空の言葉に、父親は驚いた顔をした。

「そうだよ……そう言って、笑ってたな。よく、その場所から見る青空が好きだと言っていたよ。お父さんも、二、三回だけ連れて行ってもらったことがある。だから、迷うような場所じゃないことも知ってるんだ。
 青空、絵を描いてから何処に行ってたんだい?」

 父親からの再度の問いに、青空は気恥ずかしそうに答えた。

「……墓場に、行ってた」

「墓場? 共同墓地のことか」

 父親と母親は、青空の返答に顔を見合わせた。
 怒鳴りかけた母親の肩に手を置いて、父親は発言を制した。不満げな母親の視線に、拝むような仕草で返した父親は、青空を真っ直ぐに見た。

「なにをしに行ったんだい?」

「あの……ばあちゃんに、贈り物を置いてきたんだ」

「贈り物?」

「うん。どうしても伝えたいことがあって……絵を置いてきたんだ」

「絵? 絵ならここにあるじゃないか」

 父親が絵の描かれた画用紙を指で示すと、青空は宿に帰ってきてから初めての笑みを浮かべた。
 手を差し出して父親から絵を受け取ると、少しだけ笑顔を取り戻した。

「同じものを二枚描いたんだ。一枚を置いてきた」

 青空は答えてから、ふと思いついたように口を開いた。

「ねえ……僕の名前の由来って知ってる? おばあちゃんから聞いてない?」

 その質問に、父親は目を瞬いた。

「なんでいきなり、そんなことを……なにかあったのかい?」

 真面目な口調の父親に、青空は少し躊躇いながら答え始めた。

「今日ね、少し不思議な女の子と会ったんだ――」

 青空は両親に、黒い服の少女とのやりとりを話し始めた。

   *

「やれやれ。そんなに怒られずに済んだみたいね」

 黒い服を着た少女が、安堵したように肩を竦めた。
 空はすっかり夜の帳が降りて、煌めく無数の星々と三日月が浮かんでいた。島ではもうほとんど車両は動いていないのか、道路を移動するヘッドライトの光は一つだけだ。
 その代わり、港では出航した数隻の漁船が、眩いライトで水面を照らしていた。旅行客を相手にした、夜釣りの船である。

 そんな光景を見下ろしていた少女は、背後を振り返った。
 白髪を結い上げ、農作業でもするような服を着た老婆が、静かに佇んでいた。その視線の先は、青空の一家が泊まっているホテルへと注がれていた。
 少女は老婆に、泰然と言った。

「これで安心した?」

 老婆が頷くと、少女は笑みを浮かべた。

「まったく。あの子が辛辣なことを言うたびに、オロオロしないでよ。心配で、つい見上げちゃったじゃない。とにかく――えっと、武田サチエだったかしら? 孫の心配は、これで一区切りね」

「はい。死神様……本当に、ありがとうございました」

 老婆――サチエが頭を下げると、死神と呼ばれた少女は頷くことで返した。その手にはいつの間にか、大鎌が握られていた。柄の長さだけでも少女の身長の二倍以上もある大鎌は、鈍く月明かりを反射していた。

「まったく……孫の誤解を解きたいだなんて。こんな願いを引き受ける死神は、あたしくらいだからね。そして、完璧にこなせるのも、ね」

 自信満々な表情の少女に、サチエは心底申し訳なさそうに言った。

「ですが……途中で、怪しまれていたような……」

「計画通りよ」

「計画ど……そのあと、必死に誤魔化していなかったですか?」

「名演技だったでしょ」

 答えているあいだ、サチエと目を合わせなかった少女は、「そんなことはどうでもいいの」と、強引に話を終わらせた。

 青空を誘ったとき、つい手を握りそうになったことは、サチエには内緒だ。死神である少女は、その気になれば現世の人間に姿を見せることはできる。だが、互いに触れ合うのはできないのだ。唯一の例外は、大鎌だ。大鎌の刃は、死神がその気になれば、現世の生物や物を切り刻むことができる。

 少女は再び暗くなりかけている景色を見下ろすと、青空のいるホテルで目を止めた。
 二人がいるのはN町の上空、およそ一〇〇メートルの地点だ。
 肌以外は闇に溶け込んでいる少女と違い、ぼんやりとしたサチエの身体は、背後の景色が透き通って見えていた。
 つまりは、霊体である。サチエはもちろんだが、今の少女も常人には見ることができなくなっていた。

 青空は今、ようやく夕食にありつけたところだ。手の平ほどもあるエビに蟹、刺身などの海の幸がふんだんに使われた料理。しかし、当の青空は子ども向けのプリンに夢中だ。

 屋根を透して青空の様子を見ていた少女は、足をバタバタと動かしながら、ふよふよと泳ぐような動きで、サチエに近づいていった。
 大鎌を肩に担ぐと、少女はサチエの手を掴んだ。

「ちょっと見て欲しいものがあるの」

 少女がそう言った途端、二人は大鎌に引っ張られるようにしながら飛翔した。瞬く間に港湾や山を越えた二人は、港の北側にある共同墓地へと舞い降りた。
 サチエの墓の一〇メートルほど上で静止すると、少女はサチエから手を離して、墓前を指した。

「あれを見てくれる?」

 遠目では黒一色で塗られたとしか見えない画用紙が、仏花の前に供えられていた。
 しかし、よく見れば画用紙の左右と下は濃緑色で木々が描かれており、水平線は黒を混ぜた紫、建物は濃い灰色や屋根の色も黒を混ぜた色で塗られていた。
 そして黒一色で塗られた空には、黄色や白で無数の星々や三日月が描かれていた。

 少女は上空から青空が描いた絵を眺めながら、首を傾げた。

「なんで、こんな絵をお墓に置いて行ったんだろうね……サチエはわかる?」

 しばらく無言で青空の絵を眺めていたサチエは、不意に両手で口元を押さえた。もし生身の身体であれば、目に涙が浮かんでも不思議ではないほど、激しい感情の渦に打ち震えていた。
 サチエの感情の変化を感じ取った少女が、微かに目を見広げた。

「……わかったの?」

「ええ……あの子……青空が昼間に言っていたことを、覚えてますか? プラネタリウムや星が好きだって」

「ああ――そういえば、そんなこと言ってたっけ」

「ええ……青空はわたしに自分の好きなものを教えるために、あの絵を描いたのだと思います」

 少女は、感激に震えながら絵を眺めるサチエの視線を追った。
 きっとこの絵は、担任からの評価は低いだろう。全体的に暗いし、小学生の写生においては、やはり青空のほうが受けが良い。
 しかし、と少女は思った。

(サチエにとって、この絵はどんな名画より価値がある一枚になったのね)

 少女は青空のいるホテルの方角へ首を向けると、満面の笑みを浮かべた。

「……やるじゃん、子どものくせに。少しだけ、アフターサービスをしてあげようかな」

 すぐに向き直るや否や、真顔になった少女はサチエに声をかけた。

「さて――そろそろ時間よ。死神によって願いを叶えた……その代償を払って貰わなくちゃね」

 少女の言葉に、サチエは身体を強ばらせた。しかし肩の力を抜いてから、ゆっくりと振り返ったときには、柔和な笑みを浮かべていた。

「このたびは、本当にありがとうございました。わたしは魂だけの存在ですが……どうぞ、お好きになさって下さい」

 そう言って頭を深く垂れたサチエが目を閉じると、少女は大鎌を左手に持ち替えた。

「最初から、そのつもりよ。サチエが支払う代償は――」

 少女は効果的に言葉を切ると、大鎌を持っていない右手でサチエを指した。

「あたしをい~っぱい、抱っこすることよ」

 少女の発言に、サチエは戸惑いの表情を浮かべた。
 時間にして二呼吸分の時間が経ってから、サチエはおずおずと少女に言った。

「あの……それだけでいいんですかね?」

 サチエの言葉、そして表情から、死神へ向けられるべき畏怖や敬意が感じ取れなかった少女は、若干の焦りとともに形の良い眉を吊り上げてみせた。

「そ――そんなわけないでしょ!? 死神へ支払うべき代償は、もっと過酷で、恐ろしいものなんだからっ!!」

 腰に右手を当てた少女は、睨むような目をサチエに向けた。

「本当の代償は、あたしを抱っこしながら、〝いいこいいこ〟も沢山することよ! わかったっ!?」

 目はサチエを睨んでいるが、頬は赤く染まり、口元は「むふー」と緩みきった笑みを浮かべていた。

 全身から「厳しいことを言ってやった――言ってやったわっ!!」という雰囲気を醸し出している少女に、色々と察したサチエは笑みを噛み殺しながら、合わせた両手を顔の前まで挙げた。

「あらあら。それは、たいへんです。一生懸命やらないと」

「そ――そうよ。やっと、理解したようね」

 満足げに頷いてから、少女はサチエの胸の中へと、ふよふよと移動した。いつの間にか、少女の手から大鎌が消えていた。

「それじゃあ早速、代償を払って貰うわ」

 サチエの首に手を回す格好で抱っこされると、少女は子猫のように身体を屈めた。
 少女の身体を抱きかかえたサチエは、やんわりと訊ねた。

「そういえば死神様……なんとお呼びすればいいのでしょう?」

「今まで通り、死神でいいわ。あたしに……あたしたちに名前は意味がないもの」

「あらあら……これは失礼をしました。それでは、死神様――」

 サチエは姿勢を変えて右腕だけで少女身体を支えると、後頭部を左手で撫で始めた。そして少女に慈しむような眼差しを注ぎながら、柔和な笑みを浮かべた。

「青空に出来なかった分も含めて、たーくさん、いいこいいこと抱っこをして差し上げますね。それと……子守歌なんかも、歌ってさしあげましょうか?」

「ホント!? 歌って歌って」

 パッと顔を輝かせながら強請る少女に、微笑みを浮かべたサチエは囁くように歌い始めた。

「ねーんねーんころーりぃよー……」

 江戸時代から伝わる子守歌を口ずさむサチエの姿が、腕の中の少女と一緒に、徐々に薄くなっていった。
 やがて歌声もしなくなったとき、二人は現世から完全に消え去っていた。
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