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第七章:燃ゆる想いを 箏のしらべに

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 「今日は妻の命日でな。息を引き取ったの
もちょうどこれくらいの時刻じゃった。握り
締めた手がいつまでも温かくての。こんな日
が必ず来るとわかっていたはずなのに、いざ
その瞬間を迎えれば、自分の覚悟がどれほど
甘いものだったか……思い知らされたわ」

 組んでいた腕を解き、右京が右手を広げる。

 何も言えずにその手を覗き込めば、そこに
は、爪輪の糸が解れぼろぼろとなった生田の
箏爪。いったい、どれほど長い月日が流れれ
ばここまで朽ちるのだろう?

 箏爪は象牙が変色し、黄色くなっていた。

 「……それ、奥さまのですよね?」

 我ながら間の抜けたことを訊いてしまった
と、内心、自嘲の笑みを浮かべながら古都里
が訊ねると、右京は深い笑みを向けてくれる。

 そうして包むように、大切そうに掌にある
箏爪を握ると、彼は穏やかに言った。

 「妻は心から『箏』を愛しておってな。
誰と比べるでもなく、ただ純粋に箏を弾くこ
とを愉しみ、その音色を一人でも多くの民に
聴かせてやりたいと願っておった。だがその
願いはついに叶えてやれなくての。あの時代、
箏の音は宮廷人だけのもので、民衆には楽器
を嗜む余裕も耳にする機会もなかったのじゃ。
箏や三味線が普及し民衆の間で馴染みのある
音色となったのは、戦国の世が終わり、時代
が江戸に移ってからじゃった」


――箏の音は宮廷人だけのもの。


 いったい、右京の妻はいつの時代を生きて
いたのだろう?

 そんな疑問を抱きつつ、古都里は彼の話に
耳を傾けた。

 「飛炎と共に『天狐の森』の看板を掲げた
のもその頃じゃ。ようやく妻の願いを叶える
ことが出来る。その悦びを胸に、儂は箏の師
範として数えきれないほど多くの弟子を育て
てきた。だがの、儂にとっての師範はいまも
昔も妻一人じゃ。儂の弾く箏の音は、妻の箏
の音。だから儂が絃を弾き続ける限り、妻の
魂は常に儂の傍にある。もう何度目の命日と
なるか……数えることをやめて久しいが、
こうして箏爪を手に妻の好きな花を眺めるだ
けで、心はあの頃に戻れる。出会った瞬間、
恋に落ちたあの晩に戻れるのじゃ」

 右京の妻に対する想いは、深く、深く。

 その想いの深さを知らされた古都里の心は、
なぜか不思議なほどに澄んでいた。


――ここまで愛せるものなのだ。


 同じ時を生きられない、人と妖であっても。

 そう思えば心の内は憧れにも似た感情で満
たされて、誠の『永遠の愛』を貫く彼を誇り
にすら思う。

 古都里は洗濯物を抱き締めたまま、ほぅ、
と満たされた息を吐いた。

 「先生にとっての『師』は、奥さまだった
んですね。自分がこの世を去っても、その箏
の音を受け継いで弾き続けてくれる人がいる。
それって、凄く幸せなことだと思います。
だって先生がいる限り、奥さまが生きた証は
永遠に消えないんですから。箏の音色として、
人の心に生き続けるんですから」
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