112 / 122
第七章:燃ゆる想いを 箏のしらべに
108
しおりを挟む
右京がいない。
部屋の障子は開け放たれていて、中を覗け
ば誰もいない和室に夕刻に染まり始めた淡い
陽射しだけが射し込んでいる。
どこかへ出掛けたのだろうか?
文机に洗濯物を置いておこうと部屋に足を
踏み入れた古都里は、けれどその瞬間ピタリ
と足を止めた。
さわ、と背後から流れてきた緩やかな風が
首筋を撫でる。
不思議に思って振り返れば、右京の部屋の
向かいにある『開かずの間』の障子が半分ほ
ど開いている。どきりと鼓動を鳴らしながら
も古都里はそうっと忍び寄り、部屋を覗いた。
すると開け放たれた障子の向こう、広縁の
縁柱に背を預け、右京が庭を眺めている。
その頭にはピンとした白い耳と天井に向か
って伸びる、同色の四本の尾。
――妖狐の姿の右京がそこにいた。
古都里はその妖美な姿に心を奪われつつも、
恐る恐る彼に声を掛けた。
「……あのぅ、先生?」
腕を組み、庭を眺めていた右京が古都里を
向く。向けられた表情はどことなく愁いの色
が見て取れて、一瞬、古都里は声を掛けたこ
とを後悔してしまう。何となく続ける言葉を
見つけられずにいると、右京はやんわりと目
を細めた。
「洗濯物か?」
「はい。あの、お部屋の文机に置いておく
ので……」
そう言いかけた古都里を右京が手招きする。
古都里は遠慮がちに頷くと、床の間に立て
掛けてある朽ち果てた箏を横目に捉えながら、
右京の傍に立った。
そして庭に目を向けた古都里は、「わぁ」
と声を漏らした。
「綺麗なお庭ですね。あの薄い青紫のお花
は、竜胆ですか?」
決して広くはないけれど、社寺の庭園のよ
うに手入れの施された庭を見、古都里は問い
かける。石灯篭や周囲に点在する庭石、蹲を
彩るように漏斗状の青紫の花が可憐に咲いて
いた。右京はその問いに頷くと、穏やかな声
で言った。
「ハルリンドウじゃよ。玄関のアプローチ
にも咲いておるじゃろう?妻が好きな花でな。
春に、秋に、咲くように家のあちこちに植え
てある」
「そうなんですね。竜胆は秋のお花だと思
ってたから、玄関に咲いているのを見て不思
議に思っていたんです。でも……なんか素敵
ですね。奥さまの好きなお花が家のあちこち
に咲いてるなんて」
上擦ることなく、自然に言えただろうか?
古都里は手にしていた洗濯物を、きゅ、と
握り締める。右京の口から『妻』という言葉
が紡がれただけで、その花が『妻』の好きな
花だと聞いただけで、胸はきりきりと痛みを
訴えていた。
右京は庭に目を向けたまま緩く息を吐くと、
ひどく遠い声で言った。
部屋の障子は開け放たれていて、中を覗け
ば誰もいない和室に夕刻に染まり始めた淡い
陽射しだけが射し込んでいる。
どこかへ出掛けたのだろうか?
文机に洗濯物を置いておこうと部屋に足を
踏み入れた古都里は、けれどその瞬間ピタリ
と足を止めた。
さわ、と背後から流れてきた緩やかな風が
首筋を撫でる。
不思議に思って振り返れば、右京の部屋の
向かいにある『開かずの間』の障子が半分ほ
ど開いている。どきりと鼓動を鳴らしながら
も古都里はそうっと忍び寄り、部屋を覗いた。
すると開け放たれた障子の向こう、広縁の
縁柱に背を預け、右京が庭を眺めている。
その頭にはピンとした白い耳と天井に向か
って伸びる、同色の四本の尾。
――妖狐の姿の右京がそこにいた。
古都里はその妖美な姿に心を奪われつつも、
恐る恐る彼に声を掛けた。
「……あのぅ、先生?」
腕を組み、庭を眺めていた右京が古都里を
向く。向けられた表情はどことなく愁いの色
が見て取れて、一瞬、古都里は声を掛けたこ
とを後悔してしまう。何となく続ける言葉を
見つけられずにいると、右京はやんわりと目
を細めた。
「洗濯物か?」
「はい。あの、お部屋の文机に置いておく
ので……」
そう言いかけた古都里を右京が手招きする。
古都里は遠慮がちに頷くと、床の間に立て
掛けてある朽ち果てた箏を横目に捉えながら、
右京の傍に立った。
そして庭に目を向けた古都里は、「わぁ」
と声を漏らした。
「綺麗なお庭ですね。あの薄い青紫のお花
は、竜胆ですか?」
決して広くはないけれど、社寺の庭園のよ
うに手入れの施された庭を見、古都里は問い
かける。石灯篭や周囲に点在する庭石、蹲を
彩るように漏斗状の青紫の花が可憐に咲いて
いた。右京はその問いに頷くと、穏やかな声
で言った。
「ハルリンドウじゃよ。玄関のアプローチ
にも咲いておるじゃろう?妻が好きな花でな。
春に、秋に、咲くように家のあちこちに植え
てある」
「そうなんですね。竜胆は秋のお花だと思
ってたから、玄関に咲いているのを見て不思
議に思っていたんです。でも……なんか素敵
ですね。奥さまの好きなお花が家のあちこち
に咲いてるなんて」
上擦ることなく、自然に言えただろうか?
古都里は手にしていた洗濯物を、きゅ、と
握り締める。右京の口から『妻』という言葉
が紡がれただけで、その花が『妻』の好きな
花だと聞いただけで、胸はきりきりと痛みを
訴えていた。
右京は庭に目を向けたまま緩く息を吐くと、
ひどく遠い声で言った。
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
積みかけアラフォーOL、公爵令嬢に転生したのでやりたいことをやって好きに生きる!
ぽらいと
ファンタジー
アラフォー、バツ2派遣OLが公爵令嬢に転生したので、やりたいことを好きなようにやって過ごす、というほのぼの系の話。
悪役等は一切出てこない、優しい世界のお話です。
転生令嬢は庶民の味に飢えている
柚木原みやこ(みやこ)
ファンタジー
ある日、自分が異世界に転生した元日本人だと気付いた公爵令嬢のクリステア・エリスフィード。転生…?公爵令嬢…?魔法のある世界…?ラノベか!?!?混乱しつつも現実を受け入れた私。けれど…これには不満です!どこか物足りないゴッテゴテのフルコース!甘いだけのスイーツ!!
もう飽き飽きですわ!!庶民の味、プリーズ!
ファンタジーな異世界に転生した、前世は元OLの公爵令嬢が、周りを巻き込んで庶民の味を楽しむお話。
まったりのんびり、行き当たりばったり更新の予定です。ゆるりとお付き合いいただければ幸いです。
カクテルBAR記憶堂~あなたの嫌な記憶、お引き取りします~
柚木ゆず
キャラ文芸
――心の中から消してしまいたい、理不尽な辛い記憶はありませんか?――
どこかにある『カクテルBAR記憶堂』という名前の、不思議なお店。そこではパワハラやいじめなどの『嫌な記憶』を消してくれるそうです。
今宵もまた心に傷を抱えた人々が、どこからともなく届いた招待状に導かれて記憶堂を訪ねるのでした――
あなたの隣で初めての恋を知る
ななもりあや
BL
5歳のときバス事故で両親を失った四季。足に大怪我を負い車椅子での生活を余儀なくされる。しらさぎが丘養護施設で育ち、高校卒業後、施設を出て一人暮らしをはじめる。
その日暮らしの苦しい生活でも決して明るさを失わない四季。
そんなある日、突然の雷雨に身の危険を感じ、雨宿りするためにあるマンションの駐車場に避難する四季。そこで、運命の出会いをすることに。
一回りも年上の彼に一目惚れされ溺愛される四季。
初めての恋に戸惑いつつも四季は、やがて彼を愛するようになる。
表紙絵は絵師のkaworineさんに描いていただきました。
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
【完結】転生少女は異世界でお店を始めたい
梅丸
ファンタジー
せっかく40代目前にして夢だった喫茶店オープンに漕ぎ着けたと言うのに事故に遭い呆気なく命を落としてしまった私。女神様が管理する異世界に転生させてもらい夢を実現するために奮闘するのだが、この世界には無いものが多すぎる! 創造魔法と言う女神様から授かった恩寵と前世の料理レシピを駆使して色々作りながら頑張る私だった。
~後宮のやり直し巫女~私が本当の巫女ですが、無実の罪で処刑されたので後宮で人生をやり直すことにしました
深水えいな
キャラ文芸
国を統べる最高位の巫女、炎巫。その炎巫候補となりながら身に覚えのない罪で処刑された明琳は、死の淵で「お前が本物の炎巫だ。このままだと国が乱れる」と謎の美青年・天翼に言われ人生をやり直すことに。しかし巫女として四度人生をやり直すもののうまくいかず、次の人生では女官として後宮入りすることに。そこで待っていたのは後宮で巻き起こる怪事件と女性と見まごうばかりの美貌の宦官、誠羽で――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる