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第七章:燃ゆる想いを 箏のしらべに

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 初めての定期演奏会を終えた翌日は日曜と
いうこともあり、箏のお稽古はお休みだった。

 古都里は室内で一晩陰干しした着物を延珠
に手伝ってもらいながら丁寧に畳むと、それ
を箪笥に仕舞い、ベランダいっぱいに広げた
洗濯物を取り込みに向かった。

 ゆったりとした穏やかな時間が一日を運ぶ。

 夏の匂いが僅かに混ざり始めた風に後れ毛
を預ければ、降り注ぐ陽射しは暖かく無意識
のうちに頬が緩んでしまう。

 古都里はすっかり乾いた洗濯物をハンガー
から外すと、それを両手に抱え、ベランダの
戸口でサンダルを脱いだ。

 取り込んだ洗濯物を応接間のテーブルの上
で畳んでゆく。けれどふとその手を止めると、
古都里は手にしていた右京の肌着を見つめた。

 そうして躊躇いながらもそっと白いそれに
頬を寄せる。目を閉じれば、お日様の匂いに
混ざって仄かに彼の匂いが鼻孔をくすぐって
くれる。

 瞬間、ひとつの想いが胸を焦がして古都里
は小さく息をついた。


――やっぱり、彼が好きだ。


 その気持ちはついこの間見つけたばかりだ
というのに、どうすればいいだろう?

 一秒ごとに胸の中で膨らんでしまって、も
う心に留めておけないほど大きくなっている。

 それでも右京への想いを押し留めなければ
と思うのは、きっと叶うはずないという悲し
い予感があるからで。そしてもう一つ、口に
してしまえば何かが変わってしまうような、
いままでのように箏曲の師範と一弟子として
笑い合えないような……そんな不安もあって
古都里はどうすることも出来なかった。


――それでも、好きでいよう。


 目を開けると、古都里は誓いのように思う。

 この想いは届かぬまま、いつか枯れてしま
うかも知れないけれど。彼が奥さんを忘れら
れる日は、永遠に来ないかも知れないけれど。

 彼に出会えただけで、幸せなのだ。

 あの日、あの場所で出会えたから、自分の
世界は色を取り戻し、再び箏に触れることが
出来た。

 あの日、あの場所で出会えなければ、いま
もまだ悲しみの中で立ち止まったまま、おそ
らくは、母も笑うことは出来なかっただろう。

 右京と出会ったことですべてが動き始めた。

 これ以上の幸せは、自分の身に余るような
気がする。

 「ただ想うだけなら、誰も傷つけないしね」

 ちら、と延珠の顔を思い浮かべながら独り
言ちると古都里は残りの洗濯物を畳み、それ
を手に右京の部屋へ向かった。




 階段を下りて長い廊下を歩き始めるとキッ
チンから香しい出汁の香りと共に、トントン、
と食材を刻む軽やかな音が聞こえた。

 狐月と延珠が夕食を拵えているのだろう。
 この匂い。今夜は筑前煮だろうか?

 そんなことを思いながら、廊下の奥にある
右京の部屋へと向かう。そうして、部屋の前
に立った古都里は、おや、と首を傾げた。
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