72 / 104
第六章:蛍の苦悩
71
しおりを挟む
どきりと、心臓が鳴った。自分に向けられた笑みが、
いつか見たそれと同じだったからだ。あの日、視察に
行ったレストランで、「心に想う人はいないのか」と訊いた
自分に、彼はいまと同じ笑みを向けた。
胸が締め付けられるような、深い、深い笑みだった。
-----それがいま、自分に向けられている。
蛍里は信じられない思いで、彼の眼差しを受け止めた。
専務が蛍里を向く。繋いでいた手が離され、その手が
蛍里の頬に添えられる。あの日、自分を守ってくれた手だ。
「あなたが惹かれているのは、詩乃守人だけですか?
僕には惹かれていない?僕は上司としてではなく、
一人の男として、ずっとあなたを見ていたのに……」
その言葉を聞いた瞬間、蛍里は心が震えるのを
止められなかった。
-----彼を好きに、なってはいけない。
-----彼に好きだと、言ってはいけない。
頭ではそう思うのに、彼の告白を前に小さな理性は
あっという間に掻き消されてしまう。蛍里は、彼の手に
自分の手を重ね合わせた。そうして、言った。
「わたしも……好きです。専務のこと。だから……っ」
----あなたを忘れるために、彼に会いに来たんです。
そう、告げるはずだった蛍里の唇は、彼の唇に塞がれ
ていた。抱き寄せられた腕の中で、それでも、あらがう
ことなどできるはずもない。蛍里は彼の広い背を抱き締め、
その温もりを、その想いを、必死に受け止めた。
互いに求め合った唇が、やがて離れてゆく。
濡れた唇をひんやりとした風が撫でて、その唇を庇う
ように、彼の指がそっとなぞった。蛍里は小さく首を振る。
彼に触れられて嬉しいのに、やはり、その想いのままに
求めることは赦されない。-----彼には、婚約者がいる。
「やっぱり……だめです。こんな……」
蛍里は彼から目を逸らして、泣きそうな声で言った。
こつりと、専務の額が合わせられる。彼の息が、まだ
濡れたままの唇にかかる。
「……どうして?」
「だって、専務は……結婚しなきゃならないじゃないですか」
「好きでもないのに?」
どうしてそんなことを言わせるのかと、責めたかった。
こんな時に、こんな時だから、結子から聞いたことを
思い出してしまう。蛍里は目に涙を溜めて、彼を睨んだ。
「でも、その人と……ホテルに行ったじゃないですか。
なのに、そんな言い方……」
その言葉に彼は目を見開き、やがて眉間にシワを寄せる。
「どうしてそんなことまで……」
知っているのか?と言いたいのだろう。当たり前だ。
蛍里は一度、躊躇うように唇を噛んだ。
「谷口さんが……偶然、ホテルで専務を見たって……」
涙声でそう言った蛍里に、小さなため息をついて、
専務が口元に笑みを浮かべる。
いつか見たそれと同じだったからだ。あの日、視察に
行ったレストランで、「心に想う人はいないのか」と訊いた
自分に、彼はいまと同じ笑みを向けた。
胸が締め付けられるような、深い、深い笑みだった。
-----それがいま、自分に向けられている。
蛍里は信じられない思いで、彼の眼差しを受け止めた。
専務が蛍里を向く。繋いでいた手が離され、その手が
蛍里の頬に添えられる。あの日、自分を守ってくれた手だ。
「あなたが惹かれているのは、詩乃守人だけですか?
僕には惹かれていない?僕は上司としてではなく、
一人の男として、ずっとあなたを見ていたのに……」
その言葉を聞いた瞬間、蛍里は心が震えるのを
止められなかった。
-----彼を好きに、なってはいけない。
-----彼に好きだと、言ってはいけない。
頭ではそう思うのに、彼の告白を前に小さな理性は
あっという間に掻き消されてしまう。蛍里は、彼の手に
自分の手を重ね合わせた。そうして、言った。
「わたしも……好きです。専務のこと。だから……っ」
----あなたを忘れるために、彼に会いに来たんです。
そう、告げるはずだった蛍里の唇は、彼の唇に塞がれ
ていた。抱き寄せられた腕の中で、それでも、あらがう
ことなどできるはずもない。蛍里は彼の広い背を抱き締め、
その温もりを、その想いを、必死に受け止めた。
互いに求め合った唇が、やがて離れてゆく。
濡れた唇をひんやりとした風が撫でて、その唇を庇う
ように、彼の指がそっとなぞった。蛍里は小さく首を振る。
彼に触れられて嬉しいのに、やはり、その想いのままに
求めることは赦されない。-----彼には、婚約者がいる。
「やっぱり……だめです。こんな……」
蛍里は彼から目を逸らして、泣きそうな声で言った。
こつりと、専務の額が合わせられる。彼の息が、まだ
濡れたままの唇にかかる。
「……どうして?」
「だって、専務は……結婚しなきゃならないじゃないですか」
「好きでもないのに?」
どうしてそんなことを言わせるのかと、責めたかった。
こんな時に、こんな時だから、結子から聞いたことを
思い出してしまう。蛍里は目に涙を溜めて、彼を睨んだ。
「でも、その人と……ホテルに行ったじゃないですか。
なのに、そんな言い方……」
その言葉に彼は目を見開き、やがて眉間にシワを寄せる。
「どうしてそんなことまで……」
知っているのか?と言いたいのだろう。当たり前だ。
蛍里は一度、躊躇うように唇を噛んだ。
「谷口さんが……偶然、ホテルで専務を見たって……」
涙声でそう言った蛍里に、小さなため息をついて、
専務が口元に笑みを浮かべる。
0
お気に入りに追加
101
あなたにおすすめの小説
Perverse
伊吹美香
恋愛
『高嶺の花』なんて立派なものじゃない
ただ一人の女として愛してほしいだけなの…
あなたはゆっくりと私の心に浸食してくる
触れ合う身体は熱いのに
あなたの心がわからない…
あなたは私に何を求めてるの?
私の気持ちはあなたに届いているの?
周りからは高嶺の花と呼ばれ本当の自分を出し切れずに悩んでいる女
三崎結菜
×
口も態度も悪いが営業成績No.1で結菜を振り回す冷たい同期男
柴垣義人
大人オフィスラブ
純真~こじらせ初恋の攻略法~
伊吹美香
恋愛
あの頃の私は、この恋が永遠に続くと信じていた。
未成熟な私の初恋は、愛に変わる前に終わりを告げてしまった。
この心に沁みついているあなたの姿は、時がたてば消えていくものだと思っていたのに。
いつまでも消えてくれないあなたの残像を、私は必死でかき消そうとしている。
それなのに。
どうして今さら再会してしまったのだろう。
どうしてまた、あなたはこんなに私の心に入り込んでくるのだろう。
幼いころに止まったままの純愛が、今また動き出す……。
ただいま冷徹上司を調・教・中!
伊吹美香
恋愛
同期から男を寝取られ棄てられた崖っぷちOL
久瀬千尋(くぜちひろ)28歳
×
容姿端麗で仕事もでき一目置かれる恋愛下手課長
平嶋凱莉(ひらしまかいり)35歳
二人はひょんなことから(仮)恋人になることに。
今まで知らなかった素顔を知るたびに、二人の関係は近くなる。
意地と恥から始まった(仮)恋人は(本)恋人になれるのか?
隠れオタクの女子社員は若社長に溺愛される
永久保セツナ
恋愛
【最終話まで毎日20時更新】
「少女趣味」ならぬ「少年趣味」(プラモデルやカードゲームなど男性的な趣味)を隠して暮らしていた女子社員・能登原こずえは、ある日勤めている会社のイケメン若社長・藤井スバルに趣味がバレてしまう。
しかしそこから二人は意気投合し、やがて恋愛関係に発展する――?
肝心のターゲット層である女性に理解できるか分からない異色の女性向け恋愛小説!
誘惑の延長線上、君を囲う。
桜井 響華
恋愛
私と貴方の間には
"恋"も"愛"も存在しない。
高校の同級生が上司となって
私の前に現れただけの話。
.。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚
Иatural+ 企画開発部部長
日下部 郁弥(30)
×
転職したてのエリアマネージャー
佐藤 琴葉(30)
.。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚
偶然にもバーカウンターで泥酔寸前の
貴方を見つけて…
高校時代の面影がない私は…
弱っていそうな貴方を誘惑した。
:
:
♡o。+..:*
:
「本当は大好きだった……」
───そんな気持ちを隠したままに
欲に溺れ、お互いの隙間を埋める。
【誘惑の延長線上、君を囲う。】
嫁にするなら訳あり地味子に限る!
登夢
恋愛
ブランド好きの独身エリートの主人公にはほろ苦い恋愛の経験があった。ふとしたことがきっかけで地味な女子社員を部下にまわしてもらったが、地味子に惹かれた主人公は交際を申し込む。悲しい失恋をしたことのある地味子は躊躇するが、公私を分けてデートを休日に限る約束をして交際を受け入れる。主人公は一日一日を大切にしたいという地味子とデートをかさねてゆく。
貧乏大家族の私が御曹司と偽装結婚⁈
玖羽 望月
恋愛
朝木 与織子(あさぎ よりこ) 22歳
大学を卒業し、やっと憧れの都会での生活が始まった!と思いきや、突然降って湧いたお見合い話。
でも、これはただのお見合いではないらしい。
初出はエブリスタ様にて。
また番外編を追加する予定です。
シリーズ作品「恋をするのに理由はいらない」公開中です。
表紙は、「かんたん表紙メーカー」様https://sscard.monokakitools.net/covermaker.htmlで作成しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる