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第六章:蛍の苦悩

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どきりと、心臓が鳴った。自分に向けられた笑みが、

いつか見たそれと同じだったからだ。あの日、視察に

行ったレストランで、「心に想う人はいないのか」と訊いた

自分に、彼はいまと同じ笑みを向けた。

胸が締め付けられるような、深い、深い笑みだった。




-----それがいま、自分に向けられている。




蛍里は信じられない思いで、彼の眼差しを受け止めた。

専務が蛍里を向く。繋いでいた手が離され、その手が

蛍里の頬に添えられる。あの日、自分を守ってくれた手だ。

「あなたが惹かれているのは、詩乃守人だけですか?

僕には惹かれていない?僕は上司としてではなく、

一人の男として、ずっとあなたを見ていたのに……」

その言葉を聞いた瞬間、蛍里は心が震えるのを

止められなかった。



-----彼を好きに、なってはいけない。



-----彼に好きだと、言ってはいけない。



頭ではそう思うのに、彼の告白を前に小さな理性は

あっという間に掻き消されてしまう。蛍里は、彼の手に

自分の手を重ね合わせた。そうして、言った。

「わたしも……好きです。専務のこと。だから……っ」



----あなたを忘れるために、に会いに来たんです。



そう、告げるはずだった蛍里の唇は、彼の唇に塞がれ

ていた。抱き寄せられた腕の中で、それでも、あらがう

ことなどできるはずもない。蛍里は彼の広い背を抱き締め、

その温もりを、その想いを、必死に受け止めた。

互いに求め合った唇が、やがて離れてゆく。

濡れた唇をひんやりとした風が撫でて、その唇を庇う

ように、彼の指がそっとなぞった。蛍里は小さく首を振る。

彼に触れられて嬉しいのに、やはり、その想いのままに

求めることは赦されない。-----彼には、婚約者がいる。

「やっぱり……だめです。こんな……」

蛍里は彼から目を逸らして、泣きそうな声で言った。

こつりと、専務の額が合わせられる。彼の息が、まだ

濡れたままの唇にかかる。

「……どうして?」

「だって、専務は……結婚しなきゃならないじゃないですか」

「好きでもないのに?」

どうしてそんなことを言わせるのかと、責めたかった。

こんな時に、こんな時だから、結子から聞いたことを

思い出してしまう。蛍里は目に涙を溜めて、彼を睨んだ。

「でも、その人と……ホテルに行ったじゃないですか。

なのに、そんな言い方……」

その言葉に彼は目を見開き、やがて眉間にシワを寄せる。

「どうしてそんなことまで……」

知っているのか?と言いたいのだろう。当たり前だ。

蛍里は一度、躊躇うように唇を噛んだ。

「谷口さんが……偶然、ホテルで専務を見たって……」

涙声でそう言った蛍里に、小さなため息をついて、

専務が口元に笑みを浮かべる。
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