21 / 105
【ゆづると恭介】
しおりを挟むその店を見つけたのは、ほんの偶然だった。
仕事帰り。
いつもより遅い電車に乗り込んで席に座る。
心地よく体を揺らす電車の振動と走行音が、
疲れた体を眠りに導いてくれて、
俺はまもなく眠りに落ちてしまった。
-----ガタン
扉の開く音に、はっ、として目を覚ます。
見慣れぬホームの、見慣れぬ駅名が視界に
飛び込んでくる。俺は弾かれたように躰を
起こし、ドアの隙間から飛び降りた。
「どこだ、ここは?」
息をついて、駅の看板を見上げる。
どうやら、ひとつ先の駅らしい。
俺は胸を撫で下ろして、ゆっくりと
改札をくぐり抜けた。初めて降りたその駅の、
線路沿いを歩き出す。ふと、暑苦しさを感じて
ジャケットのボタンを外すと、心地よい風が
汗ばんだシャツをすっと撫でた。
昨夜も、ほとんど眠れなかった。
だから、うっかり寝過ごしてしまった。
いつもと違う風景を歩くハメになった理由を、
ぼんやりと考えながら、俺は何気なく視線を
線路の向こうに移した。そして、足を止めた。
人気のない暗い通りの真ん中に、明るい光に
照らされたレトロな看板があった。
じっと眼を凝らしてみれば、それは小さな
BARの看板のようで……
俺は、その光に導かれるように線路を渡った。
「へぇ」
看板の前に立った俺は、古びたレンガ造りの階段を
見下ろした。重厚感のある木目のドアが、橙色の
ライトに照らされている入り口は、隠れ家のような
雰囲気を醸し出している。
幸い、今日は金曜の夜で、明日も明後日も
特別な用はない。時計の針は10時を過ぎたところで、
無論、終電など気にする必要もなかった。
一杯飲んでいくか。
----コツコツコツ
背後を急ぎ足で歩く女性の足音を聞きながら、
俺はその古い階段を下りた。
-----カラン
想像していたよりも重い扉を押し開ける。
薄暗い店内は、落ち着いたジャズピアノが流れる、
心地よい空間だった。
「いらっしゃいませ」
カウンター席の向こうで、マスターらしき男性が
こちらを向く。店の奥へ足を進めると、
「お好きな席へどうぞ」
と、また声がかかった。
小さく頷いてカウンターの端から2番目の席に座る。
店内の造りに合わせたモダンなカウンターチェアーが、
くるりと回って前を向かせた。
「決まったら声をかけてください」
白髪交じりの口髭が良く似合うマスターが、
二つ折りのメニューを差し出す。
そのメニューを開くことなく「ハイボール、濃い目で」
と、注文をすると、淡くはにかんで、お手拭きと
ナッツをテーブルに置いた。
感じのいい店だな。俺は店内の観察を始めた。
オレンジの照明が控えめに視界を包む店内は、
雑多な感じがなく、すっきりとしている。
それほど広くはない空間にカウンターが6席。
奥にテーブル席が3つ。
それでも、息苦しさを感じないのは、
地下のわりに、天井が高めにとってあるからだろう。
-----クスクス
カウンターの一番壁側にいる、恋人らしき二人から
楽しそうな笑い声が聞こえる。
身を寄せ合うその姿から視線をさらに
こちらに移すと、真紅のカーディガンを羽織った、
髪の長い女性が独り、グラスを傾けていた。
-----常連、かな。
彼女の姿はカウンターに溶け込んでいて、
違和感がない。残念ながら、さらりと垂らされた
長い髪に隠れてしまって、その女性の顔は見えなかったが、
細身のワンピースがスタイルの良さを際立たせていて、
白い二の腕からは、どきりとするほど色気が漂っていた。
0
お気に入りに追加
21
あなたにおすすめの小説
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
貴妃エレーナ
無味無臭(不定期更新)
恋愛
「君は、私のことを恨んでいるか?」
後宮で暮らして数十年の月日が流れたある日のこと。国王ローレンスから突然そう聞かれた貴妃エレーナは戸惑ったように答えた。
「急に、どうされたのですか?」
「…分かるだろう、はぐらかさないでくれ。」
「恨んでなどいませんよ。あれは遠い昔のことですから。」
そう言われて、私は今まで蓋をしていた記憶を辿った。
どうやら彼は、若かりし頃に私とあの人の仲を引き裂いてしまったことを今も悔やんでいるらしい。
けれど、もう安心してほしい。
私は既に、今世ではあの人と縁がなかったんだと諦めている。
だから…
「陛下…!大変です、内乱が…」
え…?
ーーーーーーーーーーーーー
ここは、どこ?
さっきまで内乱が…
「エレーナ?」
陛下…?
でも若いわ。
バッと自分の顔を触る。
するとそこにはハリもあってモチモチとした、まるで若い頃の私の肌があった。
懐かしい空間と若い肌…まさか私、昔の時代に戻ったの?!
皇太子夫妻の歪んだ結婚
夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。
その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。
本編完結してます。
番外編を更新中です。
本日、私の大好きな幼馴染が大切な姉と結婚式を挙げます
結城芙由奈@12/27電子書籍配信
恋愛
本日、私は大切な人達を2人同時に失います
<子供の頃から大好きだった幼馴染が恋する女性は私の5歳年上の姉でした。>
両親を亡くし、私を養ってくれた大切な姉に幸せになって貰いたい・・・そう願っていたのに姉は結婚を約束していた彼を事故で失ってしまった。悲しみに打ちひしがれる姉に寄り添う私の大好きな幼馴染。彼は決して私に振り向いてくれる事は無い。だから私は彼と姉が結ばれる事を願い、ついに2人は恋人同士になり、本日姉と幼馴染は結婚する。そしてそれは私が大切な2人を同時に失う日でもあった―。
※ 本編完結済。他視点での話、継続中。
※ 「カクヨム」「小説家になろう」にも掲載しています
※ 河口直人偏から少し大人向けの内容になります
あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます
おぜいくと
恋愛
「あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます。さようなら」
そう書き残してエアリーはいなくなった……
緑豊かな高原地帯にあるデニスミール王国の王子ロイスは、来月にエアリーと結婚式を挙げる予定だった。エアリーは隣国アーランドの王女で、元々は政略結婚が目的で引き合わされたのだが、誰にでも平等に接するエアリーの姿勢や穢れを知らない澄んだ目に俺は惹かれた。俺はエアリーに素直な気持ちを伝え、王家に代々伝わる指輪を渡した。エアリーはとても喜んでくれた。俺は早めにエアリーを呼び寄せた。デニスミールでの暮らしに慣れてほしかったからだ。初めは人見知りを発揮していたエアリーだったが、次第に打ち解けていった。
そう思っていたのに。
エアリーは突然姿を消した。俺が渡した指輪を置いて……
※ストーリーは、ロイスとエアリーそれぞれの視点で交互に進みます。
余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました
結城芙由奈@12/27電子書籍配信
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】
私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。
2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます
*「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
※2023年8月 書籍化
五歳の時から、側にいた
田尾風香
恋愛
五歳。グレースは初めて国王の長男のグリフィンと出会った。
それからというもの、お互いにいがみ合いながらもグレースはグリフィンの側にいた。十六歳に婚約し、十九歳で結婚した。
グリフィンは、初めてグレースと会ってからずっとその姿を追い続けた。十九歳で結婚し、三十二歳で亡くして初めて、グリフィンはグレースへの想いに気付く。
前編グレース視点、後編グリフィン視点です。全二話。後編は来週木曜31日に投稿します。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる