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【ゆづると恭介】

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その店を見つけたのは、ほんの偶然だった。

仕事帰り。

いつもより遅い電車に乗り込んで席に座る。

心地よく体を揺らす電車の振動と走行音が、

疲れた体を眠りに導いてくれて、

俺はまもなく眠りに落ちてしまった。


-----ガタン


扉の開く音に、はっ、として目を覚ます。

見慣れぬホームの、見慣れぬ駅名が視界に

飛び込んでくる。俺は弾かれたように躰を

起こし、ドアの隙間から飛び降りた。

「どこだ、ここは?」

息をついて、駅の看板を見上げる。

どうやら、ひとつ先の駅らしい。

俺は胸を撫で下ろして、ゆっくりと

改札をくぐり抜けた。初めて降りたその駅の、

線路沿いを歩き出す。ふと、暑苦しさを感じて

ジャケットのボタンを外すと、心地よい風が

汗ばんだシャツをすっと撫でた。

昨夜も、ほとんど眠れなかった。

だから、うっかり寝過ごしてしまった。

いつもと違う風景を歩くハメになった理由を、

ぼんやりと考えながら、俺は何気なく視線を

線路の向こうに移した。そして、足を止めた。


人気のない暗い通りの真ん中に、明るい光に

照らされたレトロな看板があった。

じっと眼を凝らしてみれば、それは小さな

BARの看板のようで……

俺は、その光に導かれるように線路を渡った。

「へぇ」

看板の前に立った俺は、古びたレンガ造りの階段を

見下ろした。重厚感のある木目のドアが、橙色の

ライトに照らされている入り口は、隠れ家のような

雰囲気を醸し出している。

幸い、今日は金曜の夜で、明日も明後日も

特別な用はない。時計の針は10時を過ぎたところで、

無論、終電など気にする必要もなかった。

一杯飲んでいくか。


----コツコツコツ


背後を急ぎ足で歩く女性の足音を聞きながら、

俺はその古い階段を下りた。

-----カラン

想像していたよりも重い扉を押し開ける。

薄暗い店内は、落ち着いたジャズピアノが流れる、

心地よい空間だった。

「いらっしゃいませ」

カウンター席の向こうで、マスターらしき男性が

こちらを向く。店の奥へ足を進めると、

「お好きな席へどうぞ」

と、また声がかかった。

小さく頷いてカウンターの端から2番目の席に座る。

店内の造りに合わせたモダンなカウンターチェアーが、

くるりと回って前を向かせた。


「決まったら声をかけてください」

白髪交じりの口髭が良く似合うマスターが、

二つ折りのメニューを差し出す。

そのメニューを開くことなく「ハイボール、濃い目で」

と、注文をすると、淡くはにかんで、お手拭きと

ナッツをテーブルに置いた。

感じのいい店だな。俺は店内の観察を始めた。

オレンジの照明が控えめに視界を包む店内は、

雑多な感じがなく、すっきりとしている。

それほど広くはない空間にカウンターが6席。

奥にテーブル席が3つ。

それでも、息苦しさを感じないのは、

地下のわりに、天井が高めにとってあるからだろう。

-----クスクス

カウンターの一番壁側にいる、恋人らしき二人から

楽しそうな笑い声が聞こえる。

身を寄せ合うその姿から視線をさらに

こちらに移すと、真紅のカーディガンを羽織った、

髪の長い女性が独り、グラスを傾けていた。

-----常連、かな。

彼女の姿はカウンターに溶け込んでいて、

違和感がない。残念ながら、さらりと垂らされた

長い髪に隠れてしまって、その女性の顔は見えなかったが、

細身のワンピースがスタイルの良さを際立たせていて、

白い二の腕からは、どきりとするほど色気が漂っていた。
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