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前篇
【淫婦という汚名の裏で】
しおりを挟むこの大逆事件は明治時代、百年余り前の話になる。
いまの日本で大逆事件と言って、すぐに何のことだか頭に浮かぶ人は少なくなっているだろう。明治四十三年、その年に接近したハレー彗星の長い尾が不吉をもたらすと、当時の世間で噂になった。
そんな彗星の淡い光芒のように日本の近代史を横切った、幸徳秋水や菅野須賀子らをめぐる血気に満ちた不運な青年たちが主人公の事件だが、それは近代国家として体裁を整えた時代の為政者たちによって捏造された茶番劇だった。
しかし、その茶番劇は笑うに笑えぬ、なんとも不思議で不気味な事件だった。当時、事件に対して口ごもったり、沈黙を守った知識人、文化人たちは等しくこの不吉で不気味な事件に衝撃を受けた。
そして、この事件は日本という国家の青年期と言える「明治」を事実上で終焉させて、昭和二十年の破局へと至るレールの上をひた走る発端であったのではないかとおもう。
一九一〇年、爆裂弾による明治天皇暗殺計画をしたとして、政府が多くの社会主義者やアナキストを検挙する思想弾圧事件があった。のちに大逆事件と呼ばれるものだ。
翌年には被告となった二十六名のうち二十四名が死刑判決を受けることになる。幸徳秋水、宮下太吉、内山愚童ら十二名は判決どおり処刑され、十二名が無期懲役に減刑されたのだが、処刑された中にいた唯一の女性である菅野須賀子にスポットを当てて、ここで大逆事件について語りたい。
通称スガと呼ばれた須賀子は、当時の世間から淫婦や姦婦という好奇の視線が注がれた。というのも夫である荒畑寒村が獄中にいる間に、幸徳秋水のもとへ走ると恋愛関係に陥ったためである。
秋水は主義者としての同志である須賀子との関係に非難を受けると、自由恋愛こそ無政府の原点であると主張したという。秋水は妻の千代子と離別すると、活動拠点の平民社とした質素な宅で須賀子と同棲を始めた。
事件の前年、秋水が須賀子を苦心しながら出版していた『自由思想』の編集名義人にすると、平民社のメンバーからも非難を受けるようになる。
秋水は非難を振り払って『自由思想』を出版したのだが、すぐに発禁処分を受けた。須賀子は病床にいたが新聞紙法違反で検挙されると、東京監獄に入ることになる。
このとき千葉監獄に収容されていた荒畑寒村のもとには、須賀子から一方的な離縁状が届いた。
怒り心頭になった寒村は、出獄するとすぐに拳銃を入手。二人を射殺しようとして、兵糧攻めで平民社をたたむと友人である小泉三申の世話で湯河原の天野屋という温泉宿に隠棲する秋水と須賀子を追いかけた。
しかし、須賀子は莫大な罰金を払えず換金刑で下獄していて、秋水も所用のため上京をしていたため、荒畑の復讐は未遂に終わった。
このような一連の「不倫スキャンダル」は世間の好奇と揶揄、指弾の的になるのだが、それは男性社会の一方的な偏見であろう。須賀子は女性解放運動の魁であり、自由恋愛の唱導者であった。
いまわしい過去を断ち切るために牟婁新報の記者になったころは『肘鉄砲』というコラムで「結婚を急ぐなかれ、売買結婚に甘んずるなかれ」と、世にはびこる貞操論や良妻賢母思想に挑んでいる。
では須賀子の忌まわしい過去とは何だったのか。彼女が淫婦、姦婦と中傷されるには、妖しいフェロモンを漂わせる美女だったのが少なからず要因だったろう。そして、そのフェロモンこそは忌まわしい過去によって濃密に蓄えられたのではなかろうか。
話が逸れるが、そのエピソードは菅野須賀子という女性を理解するうえで欠くことができない。そこで少々詳しく記そうかとおもう。
火のように寂しい須賀子という女の幼年期は、かすかな幸福感のともなう遠い靄の中にあった。
父は鉱山技師で、明治十四年生まれの彼女が少女だったころまでは家業も隆盛だった。しかし、生母が早逝して父が後添えが迎えることで須賀子の人生は暗転する。
数えで十六のとき、須賀子は自宅で酒臭い見知らぬ男に犯される。しかし継母は、そんな彼女を慰め労わるどころか、淫蕩の血が流れていると責めさえした。
実は須賀子を襲った酔漢は彼女のことを疎ましくおもった義母が、そそのかして手はずを整えていたものだったのだ。須賀子はそのことをのちに知って絶望する。
やがて父は事業を失敗すると中気で倒れてしまい、彼女は十七で東京の下町にある商家へと嫁がされる。気に染まぬ結婚ではあったが、義母のもとにいるよりはと了承した。
しかし須賀子は、その嫁ぎ先でも稀な不幸に見舞われる。少々頭の弱い夫を、実の母親は性の慰みものとして夜毎のように寝床へと誘うのを知ったのである。
須賀子は逃げるように嫁ぎ先を出ると、その足で大阪へと向かった。小学校の高等科までしか行っていない彼女だったが、筆で口に糊する志を立てて、大阪文壇の重鎮だった宇田川文海の内弟子になる。
しかし当時、女性が弟子になるというのは情婦たるを意味するものでもあった。
幕末のころ斬られたという刀傷が顎から唇にかけて残る文海は、須賀子に文章修業をさせながら「おまえは彦根屏風の女の顔をしとる」と言っては、指先で着物の裾を割って白い柔肌を愛おしんだという。「彦根屏風の女の顔」とは娼婦の顔という意味だ。
そして二年間を三十五も年上の男の愛玩に収まった見返りに、須賀子は京都で新聞記者の職を得ることになった。
ようやく文海のもとから離れられた須賀子だったが、京都でも彼女は男と女の関係に振り回されてしまう。
須賀子とは腹違いだった兄は家を嫌って早くから自活していた。京都の立命館で事務の仕事をしていた兄は、たびたび須賀子を誘い出しては酒の相手をさせるのだが、どうにも彼女の持つ妖しい魅力に抗うことができず、半ば無理やりに関係を持ってしまう。
須賀子は悩み苦しんだ。なぜ自分は男に翻弄されてしまうのかと。
そんなこころのひび割れをなんとか堪える術を求めて、あるとき彼女は東京の新聞『萬朝報』の身の上相談に投稿をしたことがあった。
ちょうどその欄の担当だった堺枯川の「往来で狂犬に咬まれたようなもの。忘れなさい」という言葉に須賀子は生きる勇気をもらうと同時に、それからは折にふれ枯川に相談を持ちかけて、次第に彼の持つ社会主義思想に傾倒することになった。
男運のよい悪いを超える何か……。須賀子にはそれを引き寄せてしまう生得の魅力があったのだ。
やがて彼女は異母兄が勤める立命館へ談話取材に赴いた際に知り合った館長の中川小十郎とも関係を持ってしまう。邪恋の嫉妬に狂った異母兄は、兄妹で通じたことを世間の明るみに出すと脅し、かつ身も世もなく自分のもとに来てほしい懇願をした。
須賀子は明治三十八年の秋、もつれた糸のような男女関係を清算しようと、枯川に客地で就職する周旋方を依頼する。枯川は紀州田辺の牟婁新報という小さな新聞社を紹介した。
彼女はその社主であった毛利柴庵とも関係を持ってしまうが、そのおかげか毛利は自分が県政の汚職事件にからんだ官吏侮辱罪で下獄する間だけでもと、熱心に彼女を誘った。
火のように寂しい女、菅野須賀子。
須賀子は満三十年に足らない生涯で二人の男と運命的な出会いをし、抗い難い不思議な力で彼らの人生を左右する。その一人が幸徳秋水で、のちに夫となるもう一人の男が荒畑寒村なのだが、荒畑とは紀州田辺の地で職場の同僚として邂逅した。
やがて、それぞれの歯車は噛み合う相手を探し当てたように組み、ぎしりと音を立てて廻りだすのだった。
つづく
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