ミコ―龍の子の祭り―

遠堂瑠璃

文字の大きさ
上 下
24 / 28

二十四. 上弦の月

しおりを挟む
 門番の第一声に、夜の神殿は俄に騒めき立った。
 牙星きばぼしが戻って来た。
 門番の聲《こえ》より先に下に辿り着いたタケルは、眼前に立つ牙星の姿を見据えた。
 その真っ直ぐに向けられた眼差しは、あの日のまま変わらぬようでありながら、更に強い光を宿していた。両の眼《まなこ》は紅蓮の炎のように、桜散る闇に映えた。衣は処々破れて風を孕み、漆黒の髪はざんばらに煽られている。女人のように美しい相貌は、僅かに精悍さを得たように思えた。

 牙星は、堂々と構えたまま眼差しを据えている。
 そのなりは荒れ果ててはいたが、気高さはそのままに。タケルと同じ程だった身の丈は、だいぶ高くなったように窺えた。
 その華奢な肢体から迸る雷電のような鋭い気に、兵たちは罪人である牙星を捕らえる事すら忘れていた。
 
 まもなく、牙星の母である龍貴妃りゅうきひも駆けつけた。夜着に絹の羽織だけの姿で現れた龍貴妃は、眼前の我が子を青ざめた顔で凝視した。その体は、小刻みに震えている。
 すっかり痩せ細ってしまった龍貴妃の姿は、夜の闇の中で一層痛々しく見えた。
 そんな龍貴妃の姿を目にしても、牙星は動じるどころか表情すら変える事もなかった。

 タケルは、背後に現れた気配にはっとして振り向いた。上弦の月明かりに照らされた、細い影。
 呵真凪と並んで現れたのは、仮の皇帝である守人もりびとだった。二人は、震えながら立ち尽くす龍貴妃の隣に並んだ。守人と正式に婚姻を結んだ後には、この呵真凪が龍貴妃の名を継ぐ事となる。
 松明に照らされ、黒い影がみっつ並んで地面に落ちる。

 牙星の紅の眼が、一瞬別の光を帯びた。
 守人の眼。牙星に向けられた、瓜二つの紅の眼。その双眸そうぼうは、感情すら浮かべず虚ろに牙星を見詰めている。
 牙星と守人。
 対峙したふたつの眼差しが、寸分違わず重なり合う。

「な、何をしている! お前たち、牙星様を捕らえるのだ!」

 大臣の聲に、我に返った兵たちは一斉に牙星を取り囲んだ。牙星を捕らえるべく、幾つもの豪傑兵の腕が伸びる。牙星は身を翻すと、瞬時にそれを交わした。
 それを再び取り押さえようとした兵士の眼前から、弾けるように牙星の姿が消え失せる。
 兵士たちは、驚いて頭上を振り仰いだ。

 上弦の月を背に、浮かび上がる黒い影。高く飛び上がった牙星の姿が、月と重なった。
 一同は、呆気に取られて木偶の坊のように立ち尽くした。
 次々飛びかかってくる兵士たちを、牙星は人とは思えぬ身のこなしで、いとも容易く交わしていく。すばしっこい野性の獣を相手にしているようだった。
 時も経たぬうちに、百の兵たちはすでに息が上がっていた。

「役立たず共が!」
 
 大臣は、苛立ちに歯を食い縛る。
 地べたにへたり込んだ兵たちの真ん中に、牙星は凛と構えて立っていた。

「……儂は、このような雑魚共を相手にしに来たのではない」
 その一言に、顔を真っ赤にした大臣の口元がわなわなと震えた。

 牙星の眼差しが、更に鋭い光を帯びた。殺気にも似た、剣の刃のような閃き。その視線は、迷う事なく一点に向けられている。牙星の眼が捉えるは、己と同じ姿形をした童子。

「牙星様、今のご自分の立場をわきまえて頂きたい。あなたは今、先の皇帝であるお父上の命を奪った、この世で一番の罪人なのですぞ」
 
 怒りを噛み締め、押さえた口調で大臣が云った。そんな言葉になど耳を貸さず、牙星の視線は獲物を定めた豹のように、守人から動く事はなかった。

「とにかく、我々の役目は、あなたを捕らえる事なのです!」

 言葉が終わると同時に、大臣は剣を構えて牙星に飛びかかった。だが、その程度の動きを交わす事など牙星には造作もない。目標物を失った大臣の太い体は、不様に地面につんのめった。
 
 牙星は大臣など相手にもせず、再び守人を見据えた。

「儂は、今宵はっきりとお前の気を覚えた。次にその気を感じた時には、迷わずこの剣でお前を斬る」

 牙星の凛と通る聲は、月夜の静寂に溶けた。
 桜霞の月光に映えるその姿は幻影のようでありながら、威風堂々とした存在感は肌からもはっきりと伝わってくる。

 この感覚を、もう見失いはしない。タケルは今、強く誓った。
 
 牙星が、身を翻す。その姿は、瞬時に闇に紛れた。
 牙星の気配が動いた刹那、タケルは迷わず駆け出していた。手繰るように、牙星の気配を追いかけていく。タケルの名を誰かが呼んだが、決して振り返らなかった。
 風の音のような、抑揚のない聲。それは、空耳であったのかもしれない。

 タケルは、牙星の気配を手繰って走った。夜の草原。道を照らすものは、月の明かりしかない。視覚はほとんど頼りにならない闇道を、タケルは感覚だけを頼りに牙星を追い続けた。後を追ってくる者はない。
 星が瞬いている。何処までも同じ空。
 タケルはまるで、疲れる事を忘れたかのように只ひたすら走った。牙星を追う為に、風の速度を手に入れて。


 突然、牙星の気配が動きを止めた。タケルが、一瞬遅れて足を止める。その瞬間、全身が思い出したように熱を帯びた。火照った皮膚から、じわり汗が吹き出す。その汗を拭う事もせずに、タケルは立ち尽くした。
 静かに草原を駆け抜ける、風の音。

「足が速くなったな」
 
 タケルは、はっとした。正面に見える、月明かりの少年の姿。

「けれど、儂に追いつくには、まだまだだな」
 
 そう云って牙星は、悪戯っぽく笑った。
 目の前に立つ懐かしい牙星の表情は、何ひとつ変わってはいなかった。
 タケルは、嬉しさと走り続けた為の鼓動で、胸が苦しかった。聲が上手く出てこない。

「何だ、タケル。暫く会わんうちに、言葉を忘れたのか」 

 何も喋ろうとしないタケルに、牙星が業を煮やす。
 タケルは、一度唾を呑もうとした。喉が張り付いたようで、上手くいかなかった。
 牙星はそんなタケルの様子を、黙って見ている。

「……元気だった?」

 やっと絞り出した聲は、酷く掠れていた。その聲を聞き、牙星が吹き出す。

「何だ、暫く離れていたうちに、タケルはすっかり爺だな!」
 
 感動で言葉も続かないタケルを前に、牙星は腹を抱えて笑い続けた。
              
             ◆

 一晩中歩き続け、タケルと牙星はふたつの山を越えた。牙星の足ならば軽々越えられる距離であったが、タケルと一緒ではそうもいかない。
 牙星は、タケルを追い返そうとはしなかった。タケルを置き去りにするような事もせずに、共に歩幅を合わせて歩いていた。

 そして夜が明ける頃、二人はようやく牙星の隠れ棲む洞窟のある山まで辿り着いた。
 洞窟の中は伽藍として、珍しく老夫の姿がなかった。

「安心して休め。ここには追っ手も来ん」

 そう云うと牙星は、枯草を敷き詰めただけの地べたに仰向けになった。タケルもそれに習い、牙星の隣に寝転ぶ。
 疲れの所為せいか、横になった途端激しい睡魔が襲ってきた。時を空ける事なく、タケルは眠りの底へ落ちた。

                  
 どれ程経った頃だろうか。
 タケルは泥のような眠りから覚め、ゆっくり目蓋を開いた。
 薄暗い空間。ここが洞窟なのだと思い出す。まだぼんやりとした視界の先に、何かがあった。
 タケルは幾度か眼をしばたたかせ、焦点を合わせた。じわりと、暗さに眼が慣れてくる。

 眼前に見えたのは、伸び放題の頭髪と髭に埋もれた人間の顔だった。異様に爛々とした眼が、じっとタケルを覗き込んでいる。

「わっ!」

 タケルは、ぎょっとして飛び起きた。腰を下ろした体勢のまま、僅かに後ずさる。
 老夫は血走った眼を見開いたまま、タケルを凝視している。

「……お前は、龍神様の……」
 老夫の髭に埋もれた口から洩れた言葉に、タケルの心臓が波打った。

「……お前のその眼は、龍の眼……」

 老夫が、にじり寄るようにタケルに近づく。その老夫のただならぬ様子に、タケルは身を硬くした。老夫の枯れた手が、震えながらタケルに伸びる。
 その時だった。

「貴様、タケルに何をしている!」

 洞窟の入り口から、鋭い聲がした。何処からか戻って来た牙星が走り寄り、老夫の手を払い除けた。

「タケルは儂と同じ、神殿に棲む者だ! 貴様のような者が気安く触れるでない!」

 牙星の怒声が、洞窟に谺した。


「……お前は、聖龍神様の御子ではないのか」

 牙星の聲の余韻が消え去った後、老夫が静かに云った。
 タケルは老夫の言葉に、眼を見開いた。老夫は恐ろしいまでにタケルを凝視していた。
「……まさか、こんな処で出会うとはな」

 この老夫は、何かを知っている。老夫の言葉に、タケルは察した。


「……あなたは、僕の」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

あの日、さようならと言って微笑んだ彼女を僕は一生忘れることはないだろう

まるまる⭐️
恋愛
僕に向かって微笑みながら「さようなら」と告げた彼女は、そのままゆっくりと自身の体重を後ろへと移動し、バルコニーから落ちていった‥ ***** 僕と彼女は幼い頃からの婚約者だった。 僕は彼女がずっと、僕を支えるために努力してくれていたのを知っていたのに‥

婚約者の浮気を目撃した後、私は死にました。けれど戻ってこれたので、人生やり直します

Kouei
恋愛
夜の寝所で裸で抱き合う男女。 女性は従姉、男性は私の婚約者だった。 私は泣きながらその場を走り去った。 涙で歪んだ視界は、足元の階段に気づけなかった。 階段から転がり落ち、頭を強打した私は死んだ……はずだった。 けれど目が覚めた私は、過去に戻っていた! ※この作品は、他サイトにも投稿しています。

余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました

結城芙由奈 
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】 私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。 2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます *「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています ※2023年8月 書籍化

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

忘れられた妻

毛蟹葵葉
恋愛
結婚初夜、チネロは夫になったセインに抱かれることはなかった。 セインは彼女に積もり積もった怒りをぶつけた。 「浅ましいお前の母のわがままで、私は愛する者を伴侶にできなかった。それを止めなかったお前は罪人だ。顔を見るだけで吐き気がする」 セインは婚約者だった時とは別人のような冷たい目で、チネロを睨みつけて吐き捨てた。 「3年間、白い結婚が認められたらお前を自由にしてやる。私の妻になったのだから飢えない程度には生活の面倒は見てやるが、それ以上は求めるな」 セインはそれだけ言い残してチネロの前からいなくなった。 そして、チネロは、誰もいない別邸へと連れて行かれた。 三人称の練習で書いています。違和感があるかもしれません

処理中です...