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5. 接吻

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「海って、特別な場所だよね」

 波の音に紛れるように、貴女は云った。

「細胞の奥がざわざわする。本能が疼く」

 疼く。
 貴女の口から洩れたその言葉は何か別の事を連想させて、僕は僅かに身を硬くした。貴女から視線を逸らし、波打ち際に眼を落とす。
 白と紺の色彩を乗せた波が押し寄せる度に、砂浜は濃い色に染められる。その延長線上には、淡い雲をかぶった空が広がっている。何処までも、何処までも。

 空は果てなく続いているのに、僕と貴女はその果てに辿り着く事はできない。
 貴女と僕の時間は、限られている。その時間が終われば、僕たちは別々の日常へ戻る。互いを相入れない、別々の時間へ。
 貴女は、僕の知らない誰かが待つ場所へ帰る。僕の心を置き去りにして。
 僕が追いかける事のできない場所へ。


 ここに居てよ。ずっと、僕の隣に。
 貴女を好きだと告げた僕を、貴女は受け入れてくれた。
 なのにずっと置き去りのままにするのはどうして?
 貴女の中に踏み入れさせてくれないのはどうして?

 僕はこんなにも貴女を欲している。
 貴女に、本気の恋をしている。


「ねえ、次はいつ会える?」

 それなのに、毎回こんな事を訊ねなきゃいけない。そうしなければ、貴女を繋ぎ止められない。
 貴女はスマホでシフトスケジュールを確認する。そんな貴女を、僕はただじっと見詰める。
 画面をチェックする眼差しが、何故だかあどけなく見えた。
 何も知らない、無垢な少女みたいに。
 まだ誰のものにもなる前の、貴女を見た気がした。


 不意に、僕の中のたがが外れた。押さえていた言葉が、するりと口をついていた。


「ねえ、帰らないでよ」


 貴女は画面に落としていた眼を上げて、僕を見た。
 驚いたというよりも、不思議そうに。真っ直ぐに向けられた貴女のふたつの瞳が、僕の形を映し込む。

「僕のものになってよ」

 僕は立て続けに心を吐き出す。まるで駄々をごねる子供みたいだと思った。
 けど、もう止まらない。


「僕は本気で、貴女の事が好きだ」


 潮風が、僕の言葉を浚っていく。
 貴女は一切表情を動かさずに僕を見ていた。額に零れた前髪が風に揺れる。
 僕を映す黒い瞳が、僅かに動いた。

「私も、本気で貴方の事が好き」


 潮の匂いを孕んで、貴女の言葉が風に流れていく。僕の鼓膜に触れたその言葉を、風が浚っていく。
 貴女の黒い瞳は、僕を映したまま動かない。

「けど貴女は、僕の知らない誰かのものだ」

 波の音が、僕の言葉の間を通り過ぎる。
 
 貴女は黙っていた。
 黒い瞳は、物も云わずに僕を映していた。

 僕と貴女は、互いの眼を重ね合わせていた。ただそうして、互いの存在と波の音だけを感じていた。


「……誰かのものになった後だって、恋をする事はあるでしょ」


 大きな波が、砂浜を打ちつける。

 僕を映した貴女の瞳に、淡い光が射し込んでいた。その光に透かされた貴女の瞳の奥に、空いたままになった心の隙間を見た。
 空っぽの心の隙間。
 貴女がなくしてしまったものがおさまっていた場所。
 もう、埋まらない場所。
 そのするりと抜け落ちたまま空洞になった場所に、雨粒のような憂いがポツリポツリと忍び込んでいた。

 それに気づいた瞬間、何故だか貴女を失ってしまうような恐さを覚えた。
 貴女を失う事に、僕は酷く怯えていた。
 他の何を失うよりも。
 
 まるで体の一部をもぎ取られる程に、貴女を失う事が恐い。
 貴女と出会う前の自分なんて思い出せない。それ程に、貴女は僕の全てなんだ。

 だから僕は、無我夢中で貴女に追いすがった。
 貴女を求めた。
 確かな、そこに存在する貴女を。


 僕は初めて、欲望のままに貴女に触れた。刹那、僕の中で堪えていた何かが弾けた。

 唇が触れ合った瞬間、貴女は身を硬くした。
 触れる、そんな優しいものではなかったかもしれない。
 貴女を離すまいときつく肩を掴んだまま、甘く柔らかな唇に僕は食らいつく。
 自分の欲望だけを押しつけた。貴女の心を思いやる余裕なんてなかった。
 貴女を全身で欲して、全身で求める。頭の芯で理性が溶けて、思考が欲望に呑まれていく。
 呼吸が追いつかない程に口づける。
 熱に浮かされたまま、体が欲するままに。心が求めるままに。

 歯が触れる甘怠い衝撃。濡れた唇と舌先が重なる。
 僕はすがりつくように、貴女の舌に自分の舌を絡める。僕の独りよがりな舌の動きに、貴女の舌はいつの間にか応じていた。
 貴女の熱い息が、僕の鼻先に吹きかかる。自分の息づかいが耳の奥で響く。まるで自分じゃなく、別の生き物みたいに。

 もう波の音も届かない。二人の耳に聞こえているのは、互いの息づかいと重ね合わせた口の中で響く小さな水音だけだった。

 貴女を、僕の中に刻みつける。
 唇、舌の感覚、息の熱さ、体温、触れた髪の指触り。今感じる限りの、貴女の全てを。ひとつひとつを、零さず刻みつける。
 いずれ消えてしまう貴女を。僕の世界から去ってしまう貴女を。

 本当は判っているから。いつ去っていってしまってもおかしくない存在なんだって、本当は全部判っているから。
 繋ぎ止めておく事なんてできない。
 知っているから。
 貴女が云わなくたって、僕はちゃんと知っているから。

 知っていたから、恐かった。判っていたから、怯えていた。
 貴女がいつ居なくなってしまうのか。もうこれっきりかもしれない。もう次はないかもしれない。いつでも心の裏側では子犬みたいにびくびくしていた。
 貴女がくれる約束に、必死にしがみついていた。

 けど、貴女は僕のものじゃない。
 ちゃんと知っているんだ。

 だからせめて、今だけは僕のものになって。
 僕だけの、一生忘れられない貴女でいて。
 僕は覚えているから。貴女がいつか日常の生活の中で僕の事なんて欠片すらなくすっかり忘れてしまっても、僕は貴女の事をずっと覚えているから。
 こうして束の間に求め合った事も、一緒に非日常を過ごした事も、貴女の笑う顔も声も、全部全部忘れないから。

 僕の中に刻みつけた貴女は、間違いなく僕だけのものだから。二人だけの非日常の中に居た、誰も知らない僕だけの貴女。
 生身の貴女とは寄り添う事はきっとできないけれど、一緒に居た時間の中で刻みつけた貴女は、他の誰の中にも居ない。
 僕だけの貴女。

 そうだよね……?
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