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第17話 あと味は甘く
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「気にしなくていいけど、てか、気にしてほしくないけど、なんだろ……あーもう、なんて言やいいか分かんねぇ」
そんな切り出しで、相田主任はゆっくりと話した。
「――相手、間違えてんだろ」
「すみません……」
「いや、謝んなくていいんだよ。ただ、ほら……まさかそんな、あるわけないって、思うじゃん、普通」
至って軽めに、でも重たい言葉。
言わんとしていることは分かる。そして、濁すようにゆっくりな口調は、言葉を選んでいるよう。それとも自身が置かれている状況に戸惑っているような。
「渚さん、俺の話を聞いてもらえますか」
切り出せば、主任の肩が少し上がる。
「……あぁ、いいよ」
姿勢はそのまま。少し怯むようだったけど、穏やかな返事だった。
「俺、渚さんのこと、もう五年も前から。ずっと」
一息に告げる。
静かな間が差し込み、それに耐えきれないから続けて話す。
「渚さんに助けてもらってから、ずっと。自分でもよく分からなくて、悩んで、でも、止められなかったんです。気持ちを殺しても上手くできない。そんな目で渚さんを見てる自分が嫌になってきて……絶対に知られたくなかったんです。だから、言えなかった」
「それは、やっぱり、元カノに散々振り回されて捨てられたから? 言い方悪いけどさ、要するに、それで男に走ったってこと?」
「……だと思います。でも、多分、どっちでもいいんです。どっちにも向くんですよ、俺は」
ひどい言い方をしている。わざとそんな風に言えば、彼は「サイテー」とおどけるように笑った。
「そっかぁ……うわぁ、どっちにも向くのかぁ……ぜいたくなヤツ」
「今は渚さんなんですけどね」
空気は少しだけ和らいだ。でも、互いに顔を合わせない。羞恥はあれどそれは汚いものではなく、くすぐったい気恥ずかしさ。
「……正直に言うとさ、すげー引いたしショックだった」
言い方には少し、厳しいものがある。でも、彼はまっすぐに正直に話してくれた。
「そりゃ、受け入れられることじゃねぇよ。嫌だよ。それに、その感覚がよく分からないし……でもさぁ、昨日あれからずっと考えたんだよ。それでよくよく思えば、嬉しいことなんだよなぁって……さすがに男は対象外だから無理だけど」
彼は照れくさそうに笑いながら言う。
「まぁ、それはそうだろうなぁと思いますよ。だって、渚さんの好みはかわいい系の清純派な女の子だし」
「そうそう」
「でも、付き合ってる彼女はさっぱりして飾り気がない。優しくて気さくで、渚さんよりも料理上手な人」
「自分の好みとは違う人を好きになっちゃうんだねぇ……不思議なことに」
「意外だと思いましたよ。まぁ、こっちはそれどころじゃなかったんですけど」
「――壱夜、ごめんな」
突然に、主任はしおらしく言った。目の端から見てみると、彼の顔は憂さを浮かべている。
「いや、謝らないでくださいよ。むしろ、こっちが悪いんだから……」
「お前だって悪くないだろ。悪いことはないよ。ただ、どうしようもないだけ」
どうしようもない、と言ってくれるだけまだいいのかもしれない。
やっぱり、主任は超絶お人好しで、人を信用しすぎで、誰よりも優しくて、厳しくて、かっこいい。好きになってしまえば、手放すのが惜しいくらい。
羽崎さんは、そんな話をしてくれた。静かな部署で、冷めたコーヒーを飲んで、ケーキを食べながら。全部を。区切りをつけて、ぽつぽつと。
「全部分かってて、ずっと好きだった。でも、だからって俺のになるわけじゃないし、いつまでもこのままでいてもいいとか、そんなことを思ってたこともあったけど、いざ、渚さんに好きな人ができて、結婚したいって人ができて、すごく辛かった」
主任からもらったケーキは、イチゴのショートとチョコ。前に主任に話した、私たちの好きなお菓子が入っていた。
「俺、こっちがいいです」
羽崎さんはチョコケーキを取った。
「生クリームのじゃなくて?」
「このショートケーキ、甘すぎだから……あぁ、でも、山藤さんがチョコがいいって言うなら」
「いや、いいよ。じゃあ、ショートケーキもらうね」
甘党な彼が言うくらいなんだから、よほど甘いんだろう。
一口食べると確かに甘くて甘くて。びっくりするくらいに。
「……甘いでしょ」
チョコケーキを食べる羽崎さんが笑う。私は目を瞬かせて返した。
「あっま」
「あぁ、やっぱり。渚さん、何かある度にいつもこれを買ってきてたんだよ、昔」
「へぇぇ」
「久しぶりにここのケーキを見たなぁ。そう言えば、俺が就職してからはケーキを食べることもなくてさ」
「そうなんだ」
「まぁ、お互い忙しくなったってのもあったけどね」
思い出すように言う彼の口は寂しそう。
私はお皿を羽崎さんに向けた。
「一口、食べる?」
「いや……でも」
「いらないならいいよ。食べちゃうから」
意地悪に言ってお皿を引き返す。
「待って、いる! 食べる!」
慌てて私のお皿に手を伸ばすから、その動作が面白くて笑っちゃう。つられて彼も笑う。そして、三角形の欠けたてっぺんにさくっとフォークを入れた。
「あっま」
一口運んで、すぐに言う。その文句に、私は呆れて笑った。
「よく言うよ。羽崎さん、甘党なくせに」
「だって、甘すぎだよ。これ以上ないくらい。ごまかしようがないくらい甘いし」
苦笑して自分のチョコケーキに戻っていく。フォークで切ったチョコの断層がとろけて柔らかい。
私もショートケーキを食べる。一口。また一口。生クリームが舌で溶けてなくなれば、その度に寂しくなった。無性に。そして、甘さに慣れたら、また一口欲しくなる。
彼は、いつもどんな思いでこのケーキを食べていたんだろう。甘いもので気持ちをごまかさなきゃいけないくらい止められなかったのに、それが今では、呆気なく終わりを迎えている。
一通りケーキを堪能したら、羽崎さんが息をついた。
そして、また主任との話をする。
「俺が復学したのと、渚さんが就職したのが同じで、祝い事とかなんでもない時も、いつもこればっかり買ってきてた。久しぶりに食べたけど、全然変わってない」
私は手を止めずに話を聞いた。
甘すぎなケーキをむさぼって、どれだけ隠し続けてきたかが分かる。分かりすぎて、悲しくなるから甘さに頼ってしまう。
「……渚さん、俺とはずっと変わらず友達でいてくれるって。今まで通り変わらず、先輩と後輩で。上司と部下で。それでいいかって訊かれた」
「なんて答えたの?」
「もちろん、そのままがいいって言ったよ」
彼は、照れくさそうに、そして寂しげに静かな声で言った。
「もう吹っ切れる。多分。しばらくはまだきついだろうけど、もう大丈夫だと、思う」
「やせ我慢しなくていいんだよ?」
「してないよ」
それは嘘だ。
じっと見ていると、彼は観念したように目を伏せた。
「……やせ我慢、してるけど、今まで散々情けなかった分、せめて強がらせてよ」
渋々といった様子で言う。そのふてくされた顔に、私はようやく安心した。
「良かったぁ……仕事辞めるって言われたらどうしようかと思った」
「それ、渚さんにも言われたよ。確かにちょっとは悩んだけどね。契約切れるまでは頑張るよ」
「そこは契約延長してもいいんだけど」
「うーん……やりたいことが見つかるまでは、それでもいいかな」
やりたいことが見つかるまで、か……それまでに私は彼に振り向いてもらわないといけない。いつまで気持ちが続くかは分からないけど。
「ねぇ、羽崎さん」
私は唇を舐めながら切り出した。
今ここで聞いてもいいのか、迷っている。なんて言えばいいんだろう。口を開いたものの言葉が続かない。
すると、彼は思い当たるように視線を漂わせた。
「山藤さん」
まったく言葉が出ない私の代わりに、彼が口を開く。
「渚さんのことは諦めてるけど、やっぱりまだ、誰とも付き合う気はないんだ。まだ、怖い。だから、もう少し山藤さんのことを知ってから、でも、いい、ですか?」
言いにくそうに、申し訳なさそうに言う。恥ずかしそうにも見えた。
だから、思わず吹き出してしまう。
「なんで笑うの」
「ごめんごめん。なんか、気が抜けちゃって……ふふふっ」
笑う私に、彼はすごく不満そう。むくれて、チョコケーキを頬張った。
「分かりました。羽崎さんがそう言ってくれるなら、私も頑張る」
「頑張るって何を?」
「好きになってもらうために頑張るの」
残ったケーキを一口で頬張る。イチゴの冷たさと甘酸っぱさが心地いい。
ごくんと飲み込んで、フォークを置いた。
「羽崎さんの契約が切れるまで、何度でも振り向かせるから。逃げないでね」
私も強がりだ。でも、気持ちはまったく冷めてない。むしろ、これからだと燃えている。
彼は面食らったように目を開かせていたけど、私が笑うから、それにつられて笑ってくれた。
あぁ。やっぱり、その笑顔が一番好き。
***
六月は何かと忙しく、商店街のイベントが終わったら夏祭りやバザーなどの打ち合わせが控えている。
大きな仕事が終わってものんびりはできなくて、みんなバタバタと慌ただしい。
「羽崎さん、ポスター貼りの手伝い、よろしくね!」「あ、あとチラシ! 刷り上がったから先方に持っていかないと!」「あー! やばい! 開発部に連絡するの忘れてた!」
結局、日常は変わらずで、指導係が終わっても私は羽崎さんを頼っていた。その度に彼は涼しい顔で私の頼みを聞いてくれる。
ただ……
「だから前もって手配しときましょうって言ったじゃないですか」
小言が増えた。
「山藤さんは要領が悪いんですよ。相田主任は手際よかったって聞きましたけど」
「……なんで主任が出てくるのよ」
ついムキになって言ってやる。すると彼は負けじと言い返してきた。
「前年の担当だし、手本にするべき上司だから。それに、残業は嫌なんで」
チクチクと刺すような言葉には敵わない。言い返せない。
そんなとき、私は耳を塞いで逃げ出すしかない。
「あ、ちょっと、待った! 山藤さん!」
物理的に逃げる。羽崎さんの呆れた声が耳の隙間から聴こえるけど無視。廊下に出れば、花島さんとすれ違う。
「山藤さん、どこ行くの?」
「ちょっと休憩!」
「花島さん、捕まえて。まだ仕事終わってないのに!」
慌てる羽崎さんに、花島さんが「はぁ?」と声を上げる。それを掻い潜って逃げた。
給湯室に駆けこむ。先客がいた。
「あら、南帆だ。お疲れ様ー」
聖の姿があった。今日は黒縁の眼鏡をかけている。
「お、お疲れ様……」
壁に張り付くようにして隠れる。そんな私の様子を聖は楽しげに見ていた。
「仕事、まだ落ち着きそうにないの?」
「うん……夏は夏でまたイベントがあるし、料理教室もあるし、前倒しでバザーの準備もしなきゃだし、羽崎さんがうるさいし……忙しい」
「あはは。忙しいのはいいことだ」
聖は盛大に笑った。そして、私にもコーヒーを作ってくれる。
「それよりもまずはナギ主任の結婚式だねー」
「ねー。こんなに忙しいってのに、主任ってば呑気だよねー、まったくもう」
「文句のわりには、顔が笑ってる」
鋭いツッコミ。バレたなら仕方ない。私は「えへへ」とにやけた。
「だって、そりゃあ楽しみじゃない。出海さんのウエディングドレス、すごく見たいし」
「だねぇ……まぁ、それもなんだけどさ」
聖が少し声を落とす。私の耳元に口を寄せた。
「羽崎くんとはあれからどうなの?」
「………」
この話、何度目だろうか。
私は黙り込んで笑うだけ。進展はない。だって、毎日が忙しすぎる。
聖は不満そうに眼鏡の奥の目を私にじっと向けた。私はコーヒーに目を落とした。
「進展なし、か。あーあ。早くくっついちゃえばいいのに」
聖のもどかしげな声。それを私は笑い飛ばす。
「そうも言ってらんないよ。向こうのペースに合わせたいし。やっぱり、困らせたくないもん」
「ふうん? あたしはワガママになってもいいと思うけどなぁ……無理して大人になる必要ないのに」
彼女の言葉に、私は口の端を結んだ。熱いマグカップを手のひらで揉む。
大人かぁ……大人になりたいとは思ってたけど、まさか、こんな形で大人になっていたとは。大人になっているんだろうか。
「まぁ、南帆がそうしたいんならそれでいいよ」
聖はコーヒーをすすった。私もカップに口をつける。苦い……
「あぁ、ごめん。砂糖足んなかった?」
「うーん……まぁ、でも、飲めなくはない」
苦いけど、今はこれくらいが丁度いい気がする。聖は、いつでも私の味方だ。本当にありがたい。
「ありがとね、聖」
「ん? コーヒー? 別についでじゃん」
「いや、違くて。いつもだよ」
「うーん? なんか気持ち悪いなあー。でも、まぁ、あたしがやることはお節介ばっかだけどねぇ」
「ほんとにね」
いろいろと気にかけてくれる人がいるだけ、私も救われる。苦いコーヒーも飲めるようになったし……
そうやって和んでいると、ワイドパンツのポケットが振動した。突っ込んでいたスマホの表示は羽崎さん。うわぁ……怒られそう。
「……はぁーい」
恐る恐る出てみる。
『山藤さん、さっさと戻って下さいよ。今日中に配るチラシの仕分けをしないとなんだから』
めちゃくちゃ怒っていらっしゃる……。
「ちょっと休憩してるだけじゃん」
『それならいいけど。ちゃんと戻ってきてくださいね』
彼は少しだけ声を和らげて一方的に切った。通話が切れた画面を私は虚しく見つめておく。
「……こりゃ、まだまだ前途多難だねぇ」
ニヤニヤと笑う聖。私はスマホを乱暴にポケットに押し込むと、苦いコーヒーを一気に飲み干した。カンッとマグカップをシンクに置く。
「それでも、まだ諦めないからね!」
私の諦めの悪さを甘く見ないで欲しい。
ひとまず、早く企画部へ戻ろう。
***
七月。地域の夏祭りイベントに顔を出すことが多くなり、私はろくに羽崎さんと顔を合わせることがなくなった。
花島さんとコンビを組むことが多くなり、また、羽崎さんは滝田部長と一緒に営業の練習をするようになった。どうやら部長によく怒られているらしく、いつもへこんで帰ってくる。
「やっぱり、営業向いてない……」
デスクで呆然とする彼を帰りがけに見ることも、ここ数日では恒例になった。
そんな時、甘いアメを投げてよこすのが、やっぱり相田主任だ。
「へこむなよー。お前、結構頑張ってるって。無理しなくていいんだよ。いつも俺や山藤に言ってるように、ちょっとくらい態度でかくていいんだから」
……あんまりフォローになってない気がする。
すると、羽崎さんは暗い目で笑った。
「悪意が見える……」
「えっ! そんなことないよ? え、なんで?」
「冗談です」
羽崎さんは薄く笑って、席を立った。カバンを持って、ふらりと部署を出ようとする。
「あれ? もう帰るの?」
主任が持っていたチョコの箱を振って引き止めた。
それをちらりと見て、羽崎さんは暗い表情のままで返す。
「お疲れ様でしたー」
「お、お疲れ様!」
慌てて私が言うと、彼は小さく会釈して出ていった。見送る主任の手がブラブラ揺れる。そして、拗ねたように言った。
「……うーん、あいつの扱いが難しくなったな」
「前からああじゃないんですか」
私が見る彼の姿は、大体あんな感じだ。
でも、主任から見る羽崎さんはそうじゃないらしい。
「うん。前はさ、甘い物をちらつかせたら機嫌治ってた」
……なんか、思い当たるフシがあって笑えない。
「羽崎さんだっていい大人なんだから、お菓子でつられるわけないじゃないですか」
「山藤はつられるのになぁ」
「……そのチョコ、私がもらってもいいですか」
いいよ、と言われる前に箱をかすめ取る。主任は呆れて笑って、椅子に座った。
「やっぱり、まだ心配ですか?」
チョコの箱をビリリっと勢いよく破って訊く。すると、主任は「そうだねぇ」とのんびり返した。
「山藤のことだってまだ心配だよ。まったく、お前らはいつになったら独り立ちするんだ」
「このままじゃ結婚なんてできないー、とか?」
「いや、するけどね、結婚はします」
すかさず返ってくる言葉には迷いがない。
「あーあ、主任がどんどん遠くなっていくなぁ……」
「なんでお前が寂しそうなんだよ」
「羽崎さんならまだしも? でも、私だって、主任のこと好きだったんですよ。それに、どうせ結婚できないだろうって思ってたし」
チョコを口に放り込む。可愛くない言い方だから怒られるかな、と思っていたら、主任は頬杖をついて苦笑していた。余裕で鈍感な笑顔が憎たらしい。
「ま、結婚しても俺はなんにも変わらないよ」
かっこよく締めようとする。そんな主任に、私は悔しくチョコを噛みながら言った。
「いや、ダメでしょ。経理部に入り浸るのはもうやめたほうがいいですよ。でなきゃ、すぐ出海さんに言いつけますからね」
スマホを振ってみせる。ここには出海さんの連絡先も入っているのだ。
余裕な笑顔だった主任の頬が、分かりやすく引きつる。
「善処しまーす……」
目を逸して自分のデスクに逃げた。
これは、確かにしばらくはこのままかもしれない。
***
八月に入れば、少しは落ち着いてきた。でも、夏休み期間だからいつどんなイベントや仕事が入るか分からない。
そんな中、相田主任と出海さんの結婚式が行われた。以前、主任がプロデュースしたレストランを貸し切っての披露宴。食事も美味しく、お酒も美味しくて……結局テーブルに座ったままで過ごしていた。
「いやいや、昨日の結婚式、一番面白かったのはやっぱり、南帆がブーケトスで受け取った時でしょ」
出海さんのドレスとか、余興とか、部長のスピーチとか、そういう話題で盛りだくさんなはずなのに、何故かその話が持ち上がる。
聖の言葉に、花島さんが大きく頷いた。
「あれは面白かった、笑った」
「嘘でしょ、花島さんまで……なんか、裏切られた気分」
「だって、あんだけ狙いに行って、つまづいて頭の上に落ちるとか。いやぁ、山藤さん、持ってるわぁ」
花島さんが感心げに言うと、聖も肩を震わせながら頷いた。
あぁ、もう。最悪。その場面を全員に見られたのが最悪。
式はそれから何の問題もなく終わった。ハプニングと言えば、確かに私のことだけだ。
「羽崎くんも笑ってたね」
聖からの証言に、私はもう顔が上げられない。本当に最悪。
でも、笑ってたんならちょっとは安心かも。いや、安心してどうする。
「まー、南帆は頑張るとろくなことがないからねー」
「ひじりんまで酷い……」
頑張るとろくなことがないなんて。だったら頑張らなきゃいいのか。ん? 頑張るのを頑張らなければいい? あれ? なんか、わけわかんなくなってきた……
「南帆、電話鳴ってるよ」
言われるまで気づかなかった。スマホの画面を見ると、通知が出ている。羽崎さんからだ。
「はーい」
『もしもし。山藤さん、サボりですか』
出てすぐの第一声がそれって。
「休憩中!」
『早く帰ってきてくださいよ。明日のポスティング、確認したいことがあるので』
私の反論がサラリとかわされる。悔しい。
「分かったよ。すぐ行く」
『お願いします』
むくれて言えば、彼の声は少しだけ和らいだ。
うーん、よく考えたら私じゃなくてもいいのでは。
いや、全然いいんだけども。
そんな不思議さを感じながら通話を切る。
「ごめん、私、ちょっと戻るね」
「うん、お疲れ様ー」
聖の声と、花島さんの手が私を見送る。それに手を振り返して早足で企画部へ戻った。
彼は黙々とダンボールからリーフレットを出して、ポケットティッシュと一緒にビニールへ詰める作業をしていた。
「あ、お帰りなさい」
電話の時よりは穏やかだ。ふわんとした笑顔を見せてくれる。
「ただいま……誰もいないんだ」
部署には部長も満川さんも主任もいない。花島さんはまだ給湯室だし。
「いませんね。だから、山藤さんを呼んだんです」
「え」
「確認したいことがあったので」
事務的に言われる。
まあ、そうですよね……はぁ。なんか変に期待しちゃってるところ、私は本当に懲りない。
涼しく快適なエアコンの下で、定時もそろそろな時間に作業はまったく進んでない。
「これ、明日朝イチで持っていくの?」
「いえ。昼からなんですけど、朝はルートの確認でつぶれそうだし」
「ふうん? 手伝おっか?」
席について、頬杖をついて訊いてみる。
すると、彼は頼りなく眉を下げた。
「お願いします」
「はーい」
一人でやるつもりだったのかな。なんか、あんまり進んでないし、残業は確定コースな量だし。
昨日の今日で、ちょっとは気分が沈んでいるのかもしれない。
だって、羽崎さんは残業が嫌いだ。私に口うるさく言うくらいに。
趣味はないくせに、早く帰って何をしてるのかと言えば、映画を観たりテレビを観たり。たまにゲームをしたり。
でも、四駅は遠い自宅まで歩いて帰ってるから、インドアってわけじゃないらしい。昔はバスケットボールをしてたし。
彼についてはまだ知っている。お酒は普段は飲まない。コーヒーはブラック。ジャケットをよく着るし、何着かバリエーションがあるし、重めの色が似合う。スマホのカバーは黒。アクセサリーや時計はつけない。カバンや財布は無名のメーカーだからブランド品に頓着ない。髪の毛にはムースを使ってる。文字がキレイだと喜ぶ。誕生日は七月十一日。血液型はA型。
羽崎さんは、よく笑うし、よく怒るし、泣くし、焦ると黙り込むし、優柔不断で、自分に自信がなくて、真面目で、口うるさくて、子供っぽくて、気が利いて、優しい。
知れば知るほど、もっと聞きたいとねだってしまうから、彼は「また今度」と焦らす。
あぁ、ダメだな。話がしたいのに、どんな話題を持ち出そうか悩んでしまう。昨日の話はなんとなく避けたいし。それに、頑張るとろくなことがないからね……。
「山藤さん、」
唐突に羽崎さんが声をかけてくる。
見ると、彼は作業の手を止めないまま、視線も下向きだった。
「あの、今日……」
「へ?」
口ごもる彼に、私は何かを待ちわびる。
その時だった。
「お疲れ様ー! ただいまー! あっちぃ!」
外から帰ってきた主任に邪魔された。
「アイス買ってきたよー!」
「主任、うるさい!」
タイミングが悪すぎる!
私の文句に、主任は目を丸くして驚いた。
「はぁ? なんだよ、それ! アイスやんねーぞ!」
「アイスは欲しいです」
室内が涼しくても、冷たいものは欲しい季節。窓は熱気を持っている。特に今年は猛暑だし。
って、そんなことより、
「羽崎さん、さっき、なんて?」
振り向くと、彼はふいっと顔を背けた。
「なんでもない」
そう言いながら、手元にあった付箋を取った。ペンで何かを書いている。
そして、私に見せてきた。
『今日、一緒に帰れますか?』
「えっ?」
息を飲んで、声を上げかける。すかさず、羽崎さんが口に指を当てて黙らせる。そして、気にするように主任を見た。
なるほど、主任にバレたくないらしい。
私はこくこくと頷いた。
「おい、アイス溶けるって。早くきて!」
主任がうるさい。羽崎さんはいたずらっぽく笑って、席を立った。
その後ろを私もついていく。
***
アイスを食べて、しばらくして、部長と満川さんも帰ってきて、定時が過ぎた。
その頃にはポスティングのノベルティも出来上がってて、私と羽崎さんは同時に席を立つ。
残業で残っているのは満川さんと花島さん。給湯室でサボっていたのがバレて怒られている花島さんに、無言のエールを送って部署を出る。
廊下に出て、エレベーターを降りるまで、私たちは無言だった。
彼は何を考えてるんだろう。知りたい。知りたくてたまらない。気が気じゃない。
ちょこちょこと小走りで追いかけて、会社を出る。
真夏の夕方は、暑い。容赦ないオレンジから逃げるように、自販機を通り過ぎて、歩いていく。けど、その歩調がだんだん遅くなっていく。横に並んでしまった。
「えーっと、羽崎さん?」
さすがに無言でいるのは居心地が悪い。
見上げてみると、彼の横顔はいつの間にか陽に焼けていた。
「山藤さん、話があるんだ」
車の音に紛れそうな声。
でも、すぐに道路は静かになる。立ち止まって、陽に焼けた顔を落とすように私を見る。
「――待たせてごめん」
それは静かに紡がれた言葉。私は目を開いて、息を止める。
「あれからずっと考えてた。でも、うまく消化できなくて、結局、渚さんの結婚式まで答えが出せなかった。本当にごめん」
「や、それは……えっと……」
いきなりのことに、心が怯んでいる。まさか、こんなに突然、話をしてくれるなんて思わなかった。
口が渇く。当然、夏のせいじゃないだろう。
「あれから、山藤さんをずっと見てたよ。知ろうと思って」
「うん……」
「仕事はきちんとしてるけど、事務作業は苦手だし、すぐサボるし、お菓子を見るとすぐ買っちゃうし、チョコが好きだし、走るとつまづくし、頑張るとミスするし、おまけに昨日はブーケトスで転ぶし」
「う……」
「やっぱり危なっかしいなって」
「………」
かっこ悪いな、私。そんな風に見られている。
「まだまだ知らないけど、もっと知ろうと思ったよ。目を離したら転ぶだろうから」
「うーん……? いやぁ、そんなことはないと思う……よ」
「あるよ。だって、最初に会った時もここで転んでたし」
私は俯いていた顔を上げた。一方、彼は様子を窺うように私を見ていた。その距離は近い。
真剣な目と言葉に捕まる。目が離せなくなってしまう。
ずっと見ていれば、彼は恥ずかしいのか目を逸らしてしまった。その逃げ方は、ずるい。
私は彼の腕を引っ張った。再び、視線がぶつかった。
「ねぇ。つまり、それはどういうこと?」
「え? いや、だから……えーっと……」
意地悪な言い方をしてるのはわざと。ちゃんと聞かせてほしいから。すると、彼はいきなり私の肩を掴んで引き寄せた。今度は私が面食らってバランスを崩す。ポスンと、彼の胸に顔が埋まった。
「だから、俺と付き合ってくださいって言ってるの」
ボソボソと小さな声が近い。その顔は見せてくれない。私を自分の胸に押さえつけるから見せてくれない。でも、絶対に強張った表情だってことが予想できる。
「山藤さんがいなかったら、ダメだった。いてくれないと困る。それに山藤さんなら、怖くないから。本当に。これだけは間違いないから。すごく感謝してるよ」
だんだんと頭が惚けてきた。彼の熱で惚ける。
アイスの甘さを思い出して、喉に残ってて、鼻の奥が痛くなって、感情が沸き立つように涙があふれる。
泣いてる私に気づいたのか、彼は手を離さなかった。温かい熱が頭から伝って、またさらに泣けてくる。しがみつくように触れても、彼はそれを許してくれる。
「山藤さん、あの、泣かないで」
泣きじゃくる私に、段々と羽崎は戸惑いでおろおろした。それがおかしくて、泣きながらも吹き出した。
「ごめん……やっぱり好きだなぁって思って……」
鼻をすすって彼から離れて、私は泣き顔を見せないように指で涙をすくい取る。せっかくのメイクが台無しになってる気がする。でも、安心の方が強くてどうでもいい。気を抜くと座り込んでしまいそう。それを堪えて私は照れくさく笑った。すると、強張っていた羽崎さんの顔も緩んでいく。
少し苦くて、だんだん甘く、そんな空気にいつまでも浸っていたくなる。
「……ご飯、食べに行こうか」
「えぇ? 今?」
「嫌?」
「嫌じゃないけど」
「じゃあ、行こうよ。ゆっくり話をしよう。今日は居酒屋はダメだけど」
そう言って、私の手を引いて歩いていく。その後ろをついていって、次第に肩が並んでいく。
「山藤さんの好きなものいっぱい食べていいから」
彼の声は柔らかいけど、少し固い。でも、手を離そうとしない。だから私も強く握り返す。
それは強く焦がれていたもの。そして、触れれば触れるほど思いは膨らんでいく。
「私の好きなもの、他に何知ってるの?」
「チョコ以外に? ビールとハイボールと、肉が好きだよね。昨日見てた」
可愛げのない私の好物を口に出されれば恥ずかしさで顔が熱くなる。
「わざと言ってる?」
「わざと言ってる。いつも俺を困らせる仕返し」
「サイテー」
言ってやると、彼の横顔が笑った。目をキュッと細めて屈託なく笑う。それをずっと見ていたいと思った。
距離ができないように。彼が揺らがないように。もっと好きになってもらえるように。
いろんな思いが交差していくけど、ただ今だけは繋いだ指を離したくないと、彼の温度を感じながら願った。
~END~
そんな切り出しで、相田主任はゆっくりと話した。
「――相手、間違えてんだろ」
「すみません……」
「いや、謝んなくていいんだよ。ただ、ほら……まさかそんな、あるわけないって、思うじゃん、普通」
至って軽めに、でも重たい言葉。
言わんとしていることは分かる。そして、濁すようにゆっくりな口調は、言葉を選んでいるよう。それとも自身が置かれている状況に戸惑っているような。
「渚さん、俺の話を聞いてもらえますか」
切り出せば、主任の肩が少し上がる。
「……あぁ、いいよ」
姿勢はそのまま。少し怯むようだったけど、穏やかな返事だった。
「俺、渚さんのこと、もう五年も前から。ずっと」
一息に告げる。
静かな間が差し込み、それに耐えきれないから続けて話す。
「渚さんに助けてもらってから、ずっと。自分でもよく分からなくて、悩んで、でも、止められなかったんです。気持ちを殺しても上手くできない。そんな目で渚さんを見てる自分が嫌になってきて……絶対に知られたくなかったんです。だから、言えなかった」
「それは、やっぱり、元カノに散々振り回されて捨てられたから? 言い方悪いけどさ、要するに、それで男に走ったってこと?」
「……だと思います。でも、多分、どっちでもいいんです。どっちにも向くんですよ、俺は」
ひどい言い方をしている。わざとそんな風に言えば、彼は「サイテー」とおどけるように笑った。
「そっかぁ……うわぁ、どっちにも向くのかぁ……ぜいたくなヤツ」
「今は渚さんなんですけどね」
空気は少しだけ和らいだ。でも、互いに顔を合わせない。羞恥はあれどそれは汚いものではなく、くすぐったい気恥ずかしさ。
「……正直に言うとさ、すげー引いたしショックだった」
言い方には少し、厳しいものがある。でも、彼はまっすぐに正直に話してくれた。
「そりゃ、受け入れられることじゃねぇよ。嫌だよ。それに、その感覚がよく分からないし……でもさぁ、昨日あれからずっと考えたんだよ。それでよくよく思えば、嬉しいことなんだよなぁって……さすがに男は対象外だから無理だけど」
彼は照れくさそうに笑いながら言う。
「まぁ、それはそうだろうなぁと思いますよ。だって、渚さんの好みはかわいい系の清純派な女の子だし」
「そうそう」
「でも、付き合ってる彼女はさっぱりして飾り気がない。優しくて気さくで、渚さんよりも料理上手な人」
「自分の好みとは違う人を好きになっちゃうんだねぇ……不思議なことに」
「意外だと思いましたよ。まぁ、こっちはそれどころじゃなかったんですけど」
「――壱夜、ごめんな」
突然に、主任はしおらしく言った。目の端から見てみると、彼の顔は憂さを浮かべている。
「いや、謝らないでくださいよ。むしろ、こっちが悪いんだから……」
「お前だって悪くないだろ。悪いことはないよ。ただ、どうしようもないだけ」
どうしようもない、と言ってくれるだけまだいいのかもしれない。
やっぱり、主任は超絶お人好しで、人を信用しすぎで、誰よりも優しくて、厳しくて、かっこいい。好きになってしまえば、手放すのが惜しいくらい。
羽崎さんは、そんな話をしてくれた。静かな部署で、冷めたコーヒーを飲んで、ケーキを食べながら。全部を。区切りをつけて、ぽつぽつと。
「全部分かってて、ずっと好きだった。でも、だからって俺のになるわけじゃないし、いつまでもこのままでいてもいいとか、そんなことを思ってたこともあったけど、いざ、渚さんに好きな人ができて、結婚したいって人ができて、すごく辛かった」
主任からもらったケーキは、イチゴのショートとチョコ。前に主任に話した、私たちの好きなお菓子が入っていた。
「俺、こっちがいいです」
羽崎さんはチョコケーキを取った。
「生クリームのじゃなくて?」
「このショートケーキ、甘すぎだから……あぁ、でも、山藤さんがチョコがいいって言うなら」
「いや、いいよ。じゃあ、ショートケーキもらうね」
甘党な彼が言うくらいなんだから、よほど甘いんだろう。
一口食べると確かに甘くて甘くて。びっくりするくらいに。
「……甘いでしょ」
チョコケーキを食べる羽崎さんが笑う。私は目を瞬かせて返した。
「あっま」
「あぁ、やっぱり。渚さん、何かある度にいつもこれを買ってきてたんだよ、昔」
「へぇぇ」
「久しぶりにここのケーキを見たなぁ。そう言えば、俺が就職してからはケーキを食べることもなくてさ」
「そうなんだ」
「まぁ、お互い忙しくなったってのもあったけどね」
思い出すように言う彼の口は寂しそう。
私はお皿を羽崎さんに向けた。
「一口、食べる?」
「いや……でも」
「いらないならいいよ。食べちゃうから」
意地悪に言ってお皿を引き返す。
「待って、いる! 食べる!」
慌てて私のお皿に手を伸ばすから、その動作が面白くて笑っちゃう。つられて彼も笑う。そして、三角形の欠けたてっぺんにさくっとフォークを入れた。
「あっま」
一口運んで、すぐに言う。その文句に、私は呆れて笑った。
「よく言うよ。羽崎さん、甘党なくせに」
「だって、甘すぎだよ。これ以上ないくらい。ごまかしようがないくらい甘いし」
苦笑して自分のチョコケーキに戻っていく。フォークで切ったチョコの断層がとろけて柔らかい。
私もショートケーキを食べる。一口。また一口。生クリームが舌で溶けてなくなれば、その度に寂しくなった。無性に。そして、甘さに慣れたら、また一口欲しくなる。
彼は、いつもどんな思いでこのケーキを食べていたんだろう。甘いもので気持ちをごまかさなきゃいけないくらい止められなかったのに、それが今では、呆気なく終わりを迎えている。
一通りケーキを堪能したら、羽崎さんが息をついた。
そして、また主任との話をする。
「俺が復学したのと、渚さんが就職したのが同じで、祝い事とかなんでもない時も、いつもこればっかり買ってきてた。久しぶりに食べたけど、全然変わってない」
私は手を止めずに話を聞いた。
甘すぎなケーキをむさぼって、どれだけ隠し続けてきたかが分かる。分かりすぎて、悲しくなるから甘さに頼ってしまう。
「……渚さん、俺とはずっと変わらず友達でいてくれるって。今まで通り変わらず、先輩と後輩で。上司と部下で。それでいいかって訊かれた」
「なんて答えたの?」
「もちろん、そのままがいいって言ったよ」
彼は、照れくさそうに、そして寂しげに静かな声で言った。
「もう吹っ切れる。多分。しばらくはまだきついだろうけど、もう大丈夫だと、思う」
「やせ我慢しなくていいんだよ?」
「してないよ」
それは嘘だ。
じっと見ていると、彼は観念したように目を伏せた。
「……やせ我慢、してるけど、今まで散々情けなかった分、せめて強がらせてよ」
渋々といった様子で言う。そのふてくされた顔に、私はようやく安心した。
「良かったぁ……仕事辞めるって言われたらどうしようかと思った」
「それ、渚さんにも言われたよ。確かにちょっとは悩んだけどね。契約切れるまでは頑張るよ」
「そこは契約延長してもいいんだけど」
「うーん……やりたいことが見つかるまでは、それでもいいかな」
やりたいことが見つかるまで、か……それまでに私は彼に振り向いてもらわないといけない。いつまで気持ちが続くかは分からないけど。
「ねぇ、羽崎さん」
私は唇を舐めながら切り出した。
今ここで聞いてもいいのか、迷っている。なんて言えばいいんだろう。口を開いたものの言葉が続かない。
すると、彼は思い当たるように視線を漂わせた。
「山藤さん」
まったく言葉が出ない私の代わりに、彼が口を開く。
「渚さんのことは諦めてるけど、やっぱりまだ、誰とも付き合う気はないんだ。まだ、怖い。だから、もう少し山藤さんのことを知ってから、でも、いい、ですか?」
言いにくそうに、申し訳なさそうに言う。恥ずかしそうにも見えた。
だから、思わず吹き出してしまう。
「なんで笑うの」
「ごめんごめん。なんか、気が抜けちゃって……ふふふっ」
笑う私に、彼はすごく不満そう。むくれて、チョコケーキを頬張った。
「分かりました。羽崎さんがそう言ってくれるなら、私も頑張る」
「頑張るって何を?」
「好きになってもらうために頑張るの」
残ったケーキを一口で頬張る。イチゴの冷たさと甘酸っぱさが心地いい。
ごくんと飲み込んで、フォークを置いた。
「羽崎さんの契約が切れるまで、何度でも振り向かせるから。逃げないでね」
私も強がりだ。でも、気持ちはまったく冷めてない。むしろ、これからだと燃えている。
彼は面食らったように目を開かせていたけど、私が笑うから、それにつられて笑ってくれた。
あぁ。やっぱり、その笑顔が一番好き。
***
六月は何かと忙しく、商店街のイベントが終わったら夏祭りやバザーなどの打ち合わせが控えている。
大きな仕事が終わってものんびりはできなくて、みんなバタバタと慌ただしい。
「羽崎さん、ポスター貼りの手伝い、よろしくね!」「あ、あとチラシ! 刷り上がったから先方に持っていかないと!」「あー! やばい! 開発部に連絡するの忘れてた!」
結局、日常は変わらずで、指導係が終わっても私は羽崎さんを頼っていた。その度に彼は涼しい顔で私の頼みを聞いてくれる。
ただ……
「だから前もって手配しときましょうって言ったじゃないですか」
小言が増えた。
「山藤さんは要領が悪いんですよ。相田主任は手際よかったって聞きましたけど」
「……なんで主任が出てくるのよ」
ついムキになって言ってやる。すると彼は負けじと言い返してきた。
「前年の担当だし、手本にするべき上司だから。それに、残業は嫌なんで」
チクチクと刺すような言葉には敵わない。言い返せない。
そんなとき、私は耳を塞いで逃げ出すしかない。
「あ、ちょっと、待った! 山藤さん!」
物理的に逃げる。羽崎さんの呆れた声が耳の隙間から聴こえるけど無視。廊下に出れば、花島さんとすれ違う。
「山藤さん、どこ行くの?」
「ちょっと休憩!」
「花島さん、捕まえて。まだ仕事終わってないのに!」
慌てる羽崎さんに、花島さんが「はぁ?」と声を上げる。それを掻い潜って逃げた。
給湯室に駆けこむ。先客がいた。
「あら、南帆だ。お疲れ様ー」
聖の姿があった。今日は黒縁の眼鏡をかけている。
「お、お疲れ様……」
壁に張り付くようにして隠れる。そんな私の様子を聖は楽しげに見ていた。
「仕事、まだ落ち着きそうにないの?」
「うん……夏は夏でまたイベントがあるし、料理教室もあるし、前倒しでバザーの準備もしなきゃだし、羽崎さんがうるさいし……忙しい」
「あはは。忙しいのはいいことだ」
聖は盛大に笑った。そして、私にもコーヒーを作ってくれる。
「それよりもまずはナギ主任の結婚式だねー」
「ねー。こんなに忙しいってのに、主任ってば呑気だよねー、まったくもう」
「文句のわりには、顔が笑ってる」
鋭いツッコミ。バレたなら仕方ない。私は「えへへ」とにやけた。
「だって、そりゃあ楽しみじゃない。出海さんのウエディングドレス、すごく見たいし」
「だねぇ……まぁ、それもなんだけどさ」
聖が少し声を落とす。私の耳元に口を寄せた。
「羽崎くんとはあれからどうなの?」
「………」
この話、何度目だろうか。
私は黙り込んで笑うだけ。進展はない。だって、毎日が忙しすぎる。
聖は不満そうに眼鏡の奥の目を私にじっと向けた。私はコーヒーに目を落とした。
「進展なし、か。あーあ。早くくっついちゃえばいいのに」
聖のもどかしげな声。それを私は笑い飛ばす。
「そうも言ってらんないよ。向こうのペースに合わせたいし。やっぱり、困らせたくないもん」
「ふうん? あたしはワガママになってもいいと思うけどなぁ……無理して大人になる必要ないのに」
彼女の言葉に、私は口の端を結んだ。熱いマグカップを手のひらで揉む。
大人かぁ……大人になりたいとは思ってたけど、まさか、こんな形で大人になっていたとは。大人になっているんだろうか。
「まぁ、南帆がそうしたいんならそれでいいよ」
聖はコーヒーをすすった。私もカップに口をつける。苦い……
「あぁ、ごめん。砂糖足んなかった?」
「うーん……まぁ、でも、飲めなくはない」
苦いけど、今はこれくらいが丁度いい気がする。聖は、いつでも私の味方だ。本当にありがたい。
「ありがとね、聖」
「ん? コーヒー? 別についでじゃん」
「いや、違くて。いつもだよ」
「うーん? なんか気持ち悪いなあー。でも、まぁ、あたしがやることはお節介ばっかだけどねぇ」
「ほんとにね」
いろいろと気にかけてくれる人がいるだけ、私も救われる。苦いコーヒーも飲めるようになったし……
そうやって和んでいると、ワイドパンツのポケットが振動した。突っ込んでいたスマホの表示は羽崎さん。うわぁ……怒られそう。
「……はぁーい」
恐る恐る出てみる。
『山藤さん、さっさと戻って下さいよ。今日中に配るチラシの仕分けをしないとなんだから』
めちゃくちゃ怒っていらっしゃる……。
「ちょっと休憩してるだけじゃん」
『それならいいけど。ちゃんと戻ってきてくださいね』
彼は少しだけ声を和らげて一方的に切った。通話が切れた画面を私は虚しく見つめておく。
「……こりゃ、まだまだ前途多難だねぇ」
ニヤニヤと笑う聖。私はスマホを乱暴にポケットに押し込むと、苦いコーヒーを一気に飲み干した。カンッとマグカップをシンクに置く。
「それでも、まだ諦めないからね!」
私の諦めの悪さを甘く見ないで欲しい。
ひとまず、早く企画部へ戻ろう。
***
七月。地域の夏祭りイベントに顔を出すことが多くなり、私はろくに羽崎さんと顔を合わせることがなくなった。
花島さんとコンビを組むことが多くなり、また、羽崎さんは滝田部長と一緒に営業の練習をするようになった。どうやら部長によく怒られているらしく、いつもへこんで帰ってくる。
「やっぱり、営業向いてない……」
デスクで呆然とする彼を帰りがけに見ることも、ここ数日では恒例になった。
そんな時、甘いアメを投げてよこすのが、やっぱり相田主任だ。
「へこむなよー。お前、結構頑張ってるって。無理しなくていいんだよ。いつも俺や山藤に言ってるように、ちょっとくらい態度でかくていいんだから」
……あんまりフォローになってない気がする。
すると、羽崎さんは暗い目で笑った。
「悪意が見える……」
「えっ! そんなことないよ? え、なんで?」
「冗談です」
羽崎さんは薄く笑って、席を立った。カバンを持って、ふらりと部署を出ようとする。
「あれ? もう帰るの?」
主任が持っていたチョコの箱を振って引き止めた。
それをちらりと見て、羽崎さんは暗い表情のままで返す。
「お疲れ様でしたー」
「お、お疲れ様!」
慌てて私が言うと、彼は小さく会釈して出ていった。見送る主任の手がブラブラ揺れる。そして、拗ねたように言った。
「……うーん、あいつの扱いが難しくなったな」
「前からああじゃないんですか」
私が見る彼の姿は、大体あんな感じだ。
でも、主任から見る羽崎さんはそうじゃないらしい。
「うん。前はさ、甘い物をちらつかせたら機嫌治ってた」
……なんか、思い当たるフシがあって笑えない。
「羽崎さんだっていい大人なんだから、お菓子でつられるわけないじゃないですか」
「山藤はつられるのになぁ」
「……そのチョコ、私がもらってもいいですか」
いいよ、と言われる前に箱をかすめ取る。主任は呆れて笑って、椅子に座った。
「やっぱり、まだ心配ですか?」
チョコの箱をビリリっと勢いよく破って訊く。すると、主任は「そうだねぇ」とのんびり返した。
「山藤のことだってまだ心配だよ。まったく、お前らはいつになったら独り立ちするんだ」
「このままじゃ結婚なんてできないー、とか?」
「いや、するけどね、結婚はします」
すかさず返ってくる言葉には迷いがない。
「あーあ、主任がどんどん遠くなっていくなぁ……」
「なんでお前が寂しそうなんだよ」
「羽崎さんならまだしも? でも、私だって、主任のこと好きだったんですよ。それに、どうせ結婚できないだろうって思ってたし」
チョコを口に放り込む。可愛くない言い方だから怒られるかな、と思っていたら、主任は頬杖をついて苦笑していた。余裕で鈍感な笑顔が憎たらしい。
「ま、結婚しても俺はなんにも変わらないよ」
かっこよく締めようとする。そんな主任に、私は悔しくチョコを噛みながら言った。
「いや、ダメでしょ。経理部に入り浸るのはもうやめたほうがいいですよ。でなきゃ、すぐ出海さんに言いつけますからね」
スマホを振ってみせる。ここには出海さんの連絡先も入っているのだ。
余裕な笑顔だった主任の頬が、分かりやすく引きつる。
「善処しまーす……」
目を逸して自分のデスクに逃げた。
これは、確かにしばらくはこのままかもしれない。
***
八月に入れば、少しは落ち着いてきた。でも、夏休み期間だからいつどんなイベントや仕事が入るか分からない。
そんな中、相田主任と出海さんの結婚式が行われた。以前、主任がプロデュースしたレストランを貸し切っての披露宴。食事も美味しく、お酒も美味しくて……結局テーブルに座ったままで過ごしていた。
「いやいや、昨日の結婚式、一番面白かったのはやっぱり、南帆がブーケトスで受け取った時でしょ」
出海さんのドレスとか、余興とか、部長のスピーチとか、そういう話題で盛りだくさんなはずなのに、何故かその話が持ち上がる。
聖の言葉に、花島さんが大きく頷いた。
「あれは面白かった、笑った」
「嘘でしょ、花島さんまで……なんか、裏切られた気分」
「だって、あんだけ狙いに行って、つまづいて頭の上に落ちるとか。いやぁ、山藤さん、持ってるわぁ」
花島さんが感心げに言うと、聖も肩を震わせながら頷いた。
あぁ、もう。最悪。その場面を全員に見られたのが最悪。
式はそれから何の問題もなく終わった。ハプニングと言えば、確かに私のことだけだ。
「羽崎くんも笑ってたね」
聖からの証言に、私はもう顔が上げられない。本当に最悪。
でも、笑ってたんならちょっとは安心かも。いや、安心してどうする。
「まー、南帆は頑張るとろくなことがないからねー」
「ひじりんまで酷い……」
頑張るとろくなことがないなんて。だったら頑張らなきゃいいのか。ん? 頑張るのを頑張らなければいい? あれ? なんか、わけわかんなくなってきた……
「南帆、電話鳴ってるよ」
言われるまで気づかなかった。スマホの画面を見ると、通知が出ている。羽崎さんからだ。
「はーい」
『もしもし。山藤さん、サボりですか』
出てすぐの第一声がそれって。
「休憩中!」
『早く帰ってきてくださいよ。明日のポスティング、確認したいことがあるので』
私の反論がサラリとかわされる。悔しい。
「分かったよ。すぐ行く」
『お願いします』
むくれて言えば、彼の声は少しだけ和らいだ。
うーん、よく考えたら私じゃなくてもいいのでは。
いや、全然いいんだけども。
そんな不思議さを感じながら通話を切る。
「ごめん、私、ちょっと戻るね」
「うん、お疲れ様ー」
聖の声と、花島さんの手が私を見送る。それに手を振り返して早足で企画部へ戻った。
彼は黙々とダンボールからリーフレットを出して、ポケットティッシュと一緒にビニールへ詰める作業をしていた。
「あ、お帰りなさい」
電話の時よりは穏やかだ。ふわんとした笑顔を見せてくれる。
「ただいま……誰もいないんだ」
部署には部長も満川さんも主任もいない。花島さんはまだ給湯室だし。
「いませんね。だから、山藤さんを呼んだんです」
「え」
「確認したいことがあったので」
事務的に言われる。
まあ、そうですよね……はぁ。なんか変に期待しちゃってるところ、私は本当に懲りない。
涼しく快適なエアコンの下で、定時もそろそろな時間に作業はまったく進んでない。
「これ、明日朝イチで持っていくの?」
「いえ。昼からなんですけど、朝はルートの確認でつぶれそうだし」
「ふうん? 手伝おっか?」
席について、頬杖をついて訊いてみる。
すると、彼は頼りなく眉を下げた。
「お願いします」
「はーい」
一人でやるつもりだったのかな。なんか、あんまり進んでないし、残業は確定コースな量だし。
昨日の今日で、ちょっとは気分が沈んでいるのかもしれない。
だって、羽崎さんは残業が嫌いだ。私に口うるさく言うくらいに。
趣味はないくせに、早く帰って何をしてるのかと言えば、映画を観たりテレビを観たり。たまにゲームをしたり。
でも、四駅は遠い自宅まで歩いて帰ってるから、インドアってわけじゃないらしい。昔はバスケットボールをしてたし。
彼についてはまだ知っている。お酒は普段は飲まない。コーヒーはブラック。ジャケットをよく着るし、何着かバリエーションがあるし、重めの色が似合う。スマホのカバーは黒。アクセサリーや時計はつけない。カバンや財布は無名のメーカーだからブランド品に頓着ない。髪の毛にはムースを使ってる。文字がキレイだと喜ぶ。誕生日は七月十一日。血液型はA型。
羽崎さんは、よく笑うし、よく怒るし、泣くし、焦ると黙り込むし、優柔不断で、自分に自信がなくて、真面目で、口うるさくて、子供っぽくて、気が利いて、優しい。
知れば知るほど、もっと聞きたいとねだってしまうから、彼は「また今度」と焦らす。
あぁ、ダメだな。話がしたいのに、どんな話題を持ち出そうか悩んでしまう。昨日の話はなんとなく避けたいし。それに、頑張るとろくなことがないからね……。
「山藤さん、」
唐突に羽崎さんが声をかけてくる。
見ると、彼は作業の手を止めないまま、視線も下向きだった。
「あの、今日……」
「へ?」
口ごもる彼に、私は何かを待ちわびる。
その時だった。
「お疲れ様ー! ただいまー! あっちぃ!」
外から帰ってきた主任に邪魔された。
「アイス買ってきたよー!」
「主任、うるさい!」
タイミングが悪すぎる!
私の文句に、主任は目を丸くして驚いた。
「はぁ? なんだよ、それ! アイスやんねーぞ!」
「アイスは欲しいです」
室内が涼しくても、冷たいものは欲しい季節。窓は熱気を持っている。特に今年は猛暑だし。
って、そんなことより、
「羽崎さん、さっき、なんて?」
振り向くと、彼はふいっと顔を背けた。
「なんでもない」
そう言いながら、手元にあった付箋を取った。ペンで何かを書いている。
そして、私に見せてきた。
『今日、一緒に帰れますか?』
「えっ?」
息を飲んで、声を上げかける。すかさず、羽崎さんが口に指を当てて黙らせる。そして、気にするように主任を見た。
なるほど、主任にバレたくないらしい。
私はこくこくと頷いた。
「おい、アイス溶けるって。早くきて!」
主任がうるさい。羽崎さんはいたずらっぽく笑って、席を立った。
その後ろを私もついていく。
***
アイスを食べて、しばらくして、部長と満川さんも帰ってきて、定時が過ぎた。
その頃にはポスティングのノベルティも出来上がってて、私と羽崎さんは同時に席を立つ。
残業で残っているのは満川さんと花島さん。給湯室でサボっていたのがバレて怒られている花島さんに、無言のエールを送って部署を出る。
廊下に出て、エレベーターを降りるまで、私たちは無言だった。
彼は何を考えてるんだろう。知りたい。知りたくてたまらない。気が気じゃない。
ちょこちょこと小走りで追いかけて、会社を出る。
真夏の夕方は、暑い。容赦ないオレンジから逃げるように、自販機を通り過ぎて、歩いていく。けど、その歩調がだんだん遅くなっていく。横に並んでしまった。
「えーっと、羽崎さん?」
さすがに無言でいるのは居心地が悪い。
見上げてみると、彼の横顔はいつの間にか陽に焼けていた。
「山藤さん、話があるんだ」
車の音に紛れそうな声。
でも、すぐに道路は静かになる。立ち止まって、陽に焼けた顔を落とすように私を見る。
「――待たせてごめん」
それは静かに紡がれた言葉。私は目を開いて、息を止める。
「あれからずっと考えてた。でも、うまく消化できなくて、結局、渚さんの結婚式まで答えが出せなかった。本当にごめん」
「や、それは……えっと……」
いきなりのことに、心が怯んでいる。まさか、こんなに突然、話をしてくれるなんて思わなかった。
口が渇く。当然、夏のせいじゃないだろう。
「あれから、山藤さんをずっと見てたよ。知ろうと思って」
「うん……」
「仕事はきちんとしてるけど、事務作業は苦手だし、すぐサボるし、お菓子を見るとすぐ買っちゃうし、チョコが好きだし、走るとつまづくし、頑張るとミスするし、おまけに昨日はブーケトスで転ぶし」
「う……」
「やっぱり危なっかしいなって」
「………」
かっこ悪いな、私。そんな風に見られている。
「まだまだ知らないけど、もっと知ろうと思ったよ。目を離したら転ぶだろうから」
「うーん……? いやぁ、そんなことはないと思う……よ」
「あるよ。だって、最初に会った時もここで転んでたし」
私は俯いていた顔を上げた。一方、彼は様子を窺うように私を見ていた。その距離は近い。
真剣な目と言葉に捕まる。目が離せなくなってしまう。
ずっと見ていれば、彼は恥ずかしいのか目を逸らしてしまった。その逃げ方は、ずるい。
私は彼の腕を引っ張った。再び、視線がぶつかった。
「ねぇ。つまり、それはどういうこと?」
「え? いや、だから……えーっと……」
意地悪な言い方をしてるのはわざと。ちゃんと聞かせてほしいから。すると、彼はいきなり私の肩を掴んで引き寄せた。今度は私が面食らってバランスを崩す。ポスンと、彼の胸に顔が埋まった。
「だから、俺と付き合ってくださいって言ってるの」
ボソボソと小さな声が近い。その顔は見せてくれない。私を自分の胸に押さえつけるから見せてくれない。でも、絶対に強張った表情だってことが予想できる。
「山藤さんがいなかったら、ダメだった。いてくれないと困る。それに山藤さんなら、怖くないから。本当に。これだけは間違いないから。すごく感謝してるよ」
だんだんと頭が惚けてきた。彼の熱で惚ける。
アイスの甘さを思い出して、喉に残ってて、鼻の奥が痛くなって、感情が沸き立つように涙があふれる。
泣いてる私に気づいたのか、彼は手を離さなかった。温かい熱が頭から伝って、またさらに泣けてくる。しがみつくように触れても、彼はそれを許してくれる。
「山藤さん、あの、泣かないで」
泣きじゃくる私に、段々と羽崎は戸惑いでおろおろした。それがおかしくて、泣きながらも吹き出した。
「ごめん……やっぱり好きだなぁって思って……」
鼻をすすって彼から離れて、私は泣き顔を見せないように指で涙をすくい取る。せっかくのメイクが台無しになってる気がする。でも、安心の方が強くてどうでもいい。気を抜くと座り込んでしまいそう。それを堪えて私は照れくさく笑った。すると、強張っていた羽崎さんの顔も緩んでいく。
少し苦くて、だんだん甘く、そんな空気にいつまでも浸っていたくなる。
「……ご飯、食べに行こうか」
「えぇ? 今?」
「嫌?」
「嫌じゃないけど」
「じゃあ、行こうよ。ゆっくり話をしよう。今日は居酒屋はダメだけど」
そう言って、私の手を引いて歩いていく。その後ろをついていって、次第に肩が並んでいく。
「山藤さんの好きなものいっぱい食べていいから」
彼の声は柔らかいけど、少し固い。でも、手を離そうとしない。だから私も強く握り返す。
それは強く焦がれていたもの。そして、触れれば触れるほど思いは膨らんでいく。
「私の好きなもの、他に何知ってるの?」
「チョコ以外に? ビールとハイボールと、肉が好きだよね。昨日見てた」
可愛げのない私の好物を口に出されれば恥ずかしさで顔が熱くなる。
「わざと言ってる?」
「わざと言ってる。いつも俺を困らせる仕返し」
「サイテー」
言ってやると、彼の横顔が笑った。目をキュッと細めて屈託なく笑う。それをずっと見ていたいと思った。
距離ができないように。彼が揺らがないように。もっと好きになってもらえるように。
いろんな思いが交差していくけど、ただ今だけは繋いだ指を離したくないと、彼の温度を感じながら願った。
~END~
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