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第四話:過去の話 - ②

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 次の日の朝、クララはあまり眠れないまま朝日を迎えた。
 急にイヴァンが研究棟に行ってしまったのは、クララが自分の泣いた理由を彼に上手く説明できず、拒否したように感じられてしまったのかもしれないと思う。初夜と同じ失敗をした後悔が溢れてくる。
 しかし朝食を食べ終えると、その後悔もだんだんイヴァンに対しての怒りに変わってきた。

(今まで全くそんなそぶりもなかったのに、いきなり口付けなんてされたらびっくりもするわよ。それで逃げるなんて、記憶を失っても結局あの人は同じじゃないの)

 記憶があってもなくても同じような行動を取ると考えると、同じ人物だと言うことを強く意識することになる。記憶を失う前の彼との関係を尊重したいと思っていた自分の気持ちもくだらないものに思えてくる。

(いいじゃない、別に。前のイヴァン様に義理立てもいらないわよ。そもそも本人なわけでしょ? 今夜研究棟にでも乗り込んで押し倒してやろうかしら)

 一人で朝食を食べながらヤケクソになって計画を立てていると、メイドが入ってきて来客を告げた。

「ローレンス様がいらっしゃっています」
「ローレンス様が?」
「はい。それと……」

 メイドは一度言葉を切った。

「イヴァン様が、お戻りです」

 クララは中途半端な位置に止まっていたカトラリーをテーブルに戻した。

「そうなの。お二人を応接室にお通しして」



 記憶を失ったと告げられたときと同じ応接室で、クララはローレンスとイヴァンと向き合って座っている。
 イヴァンはソファの端に腰掛け、ずっと扉の方を見ている。

「おかえりなさいませ、イヴァン様。昨日は随分お忙しかったのですね。いつものようにお部屋を訪れたらご不在で、驚きました」
「……」
「ほら、イヴァン」
「……」
「ちゃんと説明しないと。言わないなら僕から言っていい?」
「だめだ! 自分で言う」

 イヴァンは部屋の広さに見合わない声量で叫ぶと、クララと向き合った。睨みつけるように彼女を見て、ゆっくり口を開いた。

「……記憶が戻った」
「なんですって!? それは、……ええと、おめでとうございます」
「ああ」

 部屋に沈黙が落ちる。
 イヴァンは「それで」「あー」「つまり」などの意味のない言葉を繰り返していた。そしてローレンスを睨んだ。

「お前は関係ないのだから出ていけ」
「君、夜中の2時に叩き起こしておいてそれ?」
「協力には感謝している。もう十分だ」
「お礼を言えるようになったのはえらいね。全く、じゃあ最初から一人で帰ってくればいいのに。移動時間が無駄になった」
「帰りは空間魔法で飛ばしてやる」
「結構だよ。そんな安定してない魔法で帰るより、馬車のほうが安全だ。まぁいいや、とにかく帰るから、ちゃんと全部話して仲直りするんだよ」

 イヴァンは無言で、頷きも否定もせずローレンスに邪魔そうな目を向けていた。

「じゃあ、クララ様、僕はこれで」

 ローレンスは立ち上がって、お辞儀をすると部屋を出て行った。
 応接室にイヴァンと二人で残され、クララは夫の姿をよく観察した。

 外見は変わっていない。毛先が切りっぱなしの長い黒髪に、美しい青い瞳。昨日のような甘さはそこになく、不安げである。

「クララ」
「はい」
 
 低い声で名前を呼ばれて、クララは姿勢を正した。

「記憶を失っている間、手助けをしてくれたことに感謝している」
「何もしておりませんわ。無事に記憶が戻ってよかったですね」

 クララにはそれが自分の本音なのか分からなかった。
 記憶を戻してイヴァンと話をしたいという気持ちはあった。ちゃんと戻ったことには安堵している。

 しかし彼の親しみのこもった視線が消えて、また不機嫌そうで気まずい空気が満ちていることに対しては、残念な思いと、やっぱりそうかという思いを抱いてしまう。
 ここしばらく過ごした時間には意味がなかったような気がする。虚無感もあり、心の底から嬉しいかと言われると分からない。
 記憶がないまま関係を深めるのは躊躇っていたのに、今は記憶が戻ったことに複雑な感情を抱えている。クララは自分が結局何を望んでいたのか分からなくなってしまった。

「しっかり元に戻ったのですから、さすがですね」
「いや……記憶はいずれにしろ三週間程度で戻るようになっていた」
「えっ、そうなんですか?」

 それならいよいよ、過去を思い出そうとして奔走した時間は無駄ということだ。

(まぁ、結果、戻ったならよかったわ。また新しく関係を作ればいいのよ)

 一度できると分かったから、多少の気まずさならまた乗り越えられるはずだ。クララは気を取り直して笑顔を作った。
 半年間が無駄になっても頑張れたのだから、たった三週間が無駄になったことなんて、なんでもない。

 イヴァンが顔をこわばらせた。

「本当に、すまなかったと思っている」
「実験に予想外の結果が出るのは当たり前のことでしょう。失敗はないとおっしゃっていたじゃないですか」
「実験の話はそうだが、人間関係はそうはいかない」

 クララは目を見開いた。

「あなたは、わたしとの関係を、失敗だと思っているんですね」

 つい声が低くなる。イヴァンは一瞬だけ迷子の子供のように不安げになったが、すぐ落ち着いた表情に戻った。

「私は、君との、その……関係を、築きたいとは思っていたが……」

 イヴァンの声はだんだん小さくなっていき、最後は聞き取れないほどになってしまった。クララは耳を澄ませて前のめりになった。
 イヴァンは咳払いして、聞き取れる声でもう一度話した。

「君が、君が……本来、しないような、作り笑いをさせてしまうことが、申し訳なくて、関わりを持つことが怖かった」
「え?」

 クララは首をかしげた。イヴァンの話の筋が見えないのだ。

「どういうことですか? 最初の夜にわたしがあなたを拒んだから、距離ができたのではなくて?」

 クララの記憶では、行為中の痛みにクララが耐えられずに思わず彼の身体を思いきり押してしまって、そのせいで彼との関係が拗れることになった。作り笑いの話はなんのことかよく分からない。

「最初の夜、作法を知らずに負担をかけたのは悪かった。君は痛みに耐えて、どのように続けるか話をしようとした。その後もずっと私といるときには無理をさせているのが分かっていた」
「ちょっと待ってください。わたしはイヴァン様との結婚を嫌だと思ったことなどありませんし、きっかけは父の意見ですけれど、自分で望んで結婚いたしました。無理なんてしていません」

 イヴァンはクララの言葉を信じていないように見えた。

 クララは立ち上がって、イヴァンの様子を見ながら彼の横に座った。

「イヴァン様が、わたしと関係を築きたいと思ってくださっていたことが嬉しいです。これからは、普通の夫婦として、わたしとやり直していただけますか」

 イヴァンの手に自分の手を重ねた。拒否はされないが、イヴァンの顔は晴れない。

「そういう顔だ。学院にいたときは、そんな顔はしなかった」
「学院ですって? わたしのことをご存知でしたの?」
「ああ」

 クララは学生時代のことを頭に思い描いた。

 魔法学院にいる間は、友人に囲まれてずっと楽しかった。
 だが、父に頼み込んで、本来両親が望む道を逸れた反面、卒業したらちゃんと両親が望む娘として振る舞うと決めていた。
 頑張っても実を結ばなかった魔法の勉強は捨てて、父の望んだ人と結婚して、子供を産んで、幸せな母になるところを見せるつもりでいた。
 だからこそイヴァンとの夫婦仲を改善することは必須であり急務だった。

 責任もなく、ただ好きなことをしていたときと、全く同じ表情で過ごすなんて、そんなことはできるわけがない。

「ウィリアムズ先生から、私が”時間を巻き戻す魔法”を求めている話を聞いただろう」
「ええ」

 クララは大きく頷いた。

「私には異母兄弟の弟がいる。昔、私が彼の顔に魔法で火傷を負わせてしまったことがあるんだ。それを消すために、時間を巻き戻す魔法がほしいと思っていた」
「そうなんですか」
「ああ。私は、弟を傷つけた罪悪感から逃げるために、魔法にのめり込んでいたところがある。だがそれは言い訳で、……私は、魔法が好きなんだ。君と同じだ」

 強く注がれていたイヴァンの視線が、少しだけ和らいだ。

「君が、そんな話を、いつか友人たちとしていた。魔法を学ぶ理由は、好きだからだと言っていた」

 クララは友人たちとの会話を思い出そうとしたが、いつそんな話をしたのかは覚えていない。

「とにかく、君のことはその言葉で印象に残って、在学期間が被っていたひと月はよく目で追っていた。名前は知らなかったから、結婚式で顔を合わせたときは本当に驚いた」

 噂を聞くばかりだった遠い存在のイヴァンが、学生時代から自分のことを知っていたことに驚いて、クララの口からは言葉が出ない。
 その間にイヴァンの話は続いた。

「私と結婚することが全く嬉しそうではないのは分かった。その上、夜には泣かせてしまうし、どうしたらいいか分からず……そうしているうちにひと月近く経って、さすがにこのままでは関係の修復も難しくなってしまうと思った。そこで、心理的な障害になっている思い出にまつわる負の感情を抑制できないかと考えた」
「なるほど……?」
「自分の行動が、過去の思い出を振り返って、君の笑顔を比較したり、また泣かせてしまうことを想像したりして、制限されていることに気づいた。そこで、この過去の出来事に紐づく感情を抑制することで、関係性を再構築する行動が取れるのではないかと仮説を立てた」
「はぁ」
「実践できるレベルの魔法にするにはそこから半年近く時間がかかることになり……ついに完成した」
「なるほど、それで失敗して記憶を丸ごと失ったということなんですね」

 イヴァンは固まった。

「ごめんなさい……実験に失敗はないですよね」
「いや、君の言うとおり、失敗した。そもそも、ひと月の間何もできずに悩んだ挙句、訳のわからない手段に逃げた時点で決断にも失敗している。君に居心地の悪い思いをさせたはずだ。悪かった」

 イヴァンは深く頭を下げた。

「訳のわからない手段って……」

 クララはイヴァンの言葉を繰り返した。
 なんとなく事情は把握したつもりだ。
 イヴァンもクララと同じように、相手が自分との結婚を望んでいないのではないかと心配していて、初夜をきっかけにますます話しかけづらくなってしまった。
 
 半年間、悩んでいたのは一緒だった。

 クララの考えた解決策は、力技でひたすらイヴァンに話しかけようとすること。
 イヴァンの解決策は、全く新しい魔法を編み出すこと。しかも人の認知や記憶に関する非常に高度な魔法だ。そんなことより、一言「一緒にお茶でもどうだ」とでも言ってくれれば、解決したのに。
 
 悩んでいたことがとてもくだらなく思えてきて、笑うしかない気がしてきた。

「ふふ……」

 クララの笑い声で、イヴァンが顔を上げた。

「ごめんなさい、新しい魔法は大発見なのに、きっかけがくだらない夫婦喧嘩みたいなものだなんて、おかしくって」
「重要な問題だ」
「そうですね。わたしたちにとっては……イヴァン様、先ほどの話ですと、三週間経ったら元に戻るということは、可逆式の魔法が成功したということですか?」

 イヴァンは首を横に振った。

「いや、これは常に情報を切断するような魔法をかけ続けて、三週間でそれが消えるようにと仕組んだだけだ。記憶を失った状態と、保っている状態を行き来したわけではない」
「そうなんですか。難しいですね」
「結果が同じなら、できるだけ結果が安定して実績も多く、簡単な方法のほうがいい。時間を戻したいのは私の贖罪としての自己満足だ。時間を戻す魔法で治せば、弟を火傷させた事実ごとなかったことになるような気がして……愚かな考えだと思う」

 少しの間、部屋に沈黙が落ちる。
 励ましの言葉がすぐ出てこなくて、クララはイヴァンの手を握ることしかできない。

「君のことも、新しい魔法を作るより、向き合う努力をするべきだった」

 彼が顔を上げたとき、ちょうどノックの音が聞こえた。

「どうした」

 イヴァンが声をかけると、扉が開いてメイドが入ってきた。

「その、……フレミング子爵がいらっしゃいました。イヴァン様のご家族だとおっしゃっていますが」
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