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第二話
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「もうっ、どうしてちゃんと膨らまないのかしら!」
しばらくたって、休日。私は王都の親戚の屋敷を借りて、アップルパイを焼く練習をしていた。
リチャード様に雨が降った次の日の地面のようなパイを渡すわけにはいかないからだ。
「生地を強く押さえすぎなんですよ。せっかく作った層が全部潰れてしまっています」
「生地を畳んでいるときに言って」
「言いましたとも!」
私のお菓子作りに付き合ってくれているメイドのマリーが叫ぶ。
「そうだったかしら?」
「集中しすぎて耳に入っていなかったのでしょう。いつものことです」
私は作業台の上に並んだアップルパイ三号を苦い顔で見つめる。
食べられるレベルだけれど、美味しくはないだろう。
リチャード様は美味しくないものを渡しても、美味しいと嘘をついて食べるのが分かっている。
以前食事したレストランで頼んだシチューに、彼が大嫌いなマッシュルームが山ほど入っていたのに残さず食べていた。飲み物で流し込むのを見ていた。
だから心から美味しいと思うものを渡したい。「このアップルパイ、おいしいね」じゃなくて、昔一緒にアップルパイを食べたときみたいに、綺麗な感想を言うのも忘れて丸ごと全部食べるくらい美味しくなくちゃ。
「難しいのよ。もう一回やるわ」
「手を冷やしたほうがよろしいですよ。バターが溶けたら台無しです」
「分かってるわ」
そうして休日を使ってアップルパイの練習を繰り返し三十個を超えた頃、ようやく納得できる見た目のアップルパイを完成させることができた。
結局練習している間にバザーのクッキーも買いにきてくれて、たくさんの生徒の前で仲良し婚約者のふりをすることになった。そしてわざわざメッセージカードと花束が私の部屋に届いたので、私の学友がうっとりした顔をしていた。
花束なんて領地にいたときは一度ももらったことがないけれど。
王都に来てから花束ばかり贈ってくださるようになった。リチャード様らしくない。
入学前は、使い道がよく分からない外国の置物や、字も読めない本、綺麗で使いにくい文房具など、彼は田舎ではあまり見ることがない小物を見つけると私に送ってくれていた。メッセージカードにはいつも「これはなんだと思う?」と書かれていて、次に会うときまでに私は自分の人脈と知識を総動員して考えたものだ。
メッセージカードの筆跡は変わらない。
「おいしかった。ありがとう」という無難なメッセージは誰かに見られることを想定しているからだろうか。焼き時間を短めにして少ししっとりさせたけれど、結局クッキーだから口の中の水分を奪うもので好みじゃないはずなのに。
気遣いをする優しさは昔からあるけれど、前はもっと感情を隠すのが下手だった。
美味しいものを食べたときの目の輝きと、無理しているときは全然違うから、何が好きなのかすぐ分かるのだ。
*
「おいしいよ」
残暑の日差しを避けた庭で、リチャード様が綺麗に微笑んだ。
私の両親、彼の両親、そして叔父が集まり会食してから、私と彼は庭で二人いつものように話をして、アップルパイを食べてもらった。
綺麗にカットされたパイをフォークで掬い、小さなひとくちを上品に口にする。
ゆっくり会話を楽しみながら口に運ばれていくアップルパイ。
色や形は菓子職人と同じレベルとはいえない。でも綺麗にできた。
私もひと口食べてみて、甘さとシナモンの香りがちょうどよく、りんごのフィリングの歯ごたえやパイのサクッとした軽い食感の組み合わせは私が今まで作った中では最上級の出来だったと思う。
でもこれじゃダメだった。
リチャード様は、用意されたひと切れを食べ終え、それで満足そうだった。
おいしいよ、と他のものを食べたときと同じように微笑むだけだ。目がきらきら輝くことはない。
作ったものを美味しく食べてもらったのだからそれでいいはずなのに、なんだか鼻の頭がつんとする。ゆっくり息を吸って少し上を向いた。
「クロエ?」
「すみません、ちょっと、気分が悪いかも……」
「大丈夫? 陽がないと寒かったかな。中に戻ろうか」
「大丈夫です」
涙が出そうかも。
リチャード様は立ち上がって私にジャケットをかけてくれた。
寒いわけじゃないからいらないけれどそのまま受け取る。
彼は優しいし、律儀でいい人だ。それにすごく努力家。
王都の学院を一緒に見学して、憧れてこの学校に入ったのだ。せっかくリチャード様が監督生になるために努力しているのに、私は昔の彼を懐かしむばかりで、心から応援していない。
父の領地にいた頃みたいに気軽な関係に戻りたくて、このアップルパイが魔法を解くんじゃないかと期待していたのだ。
彼は悪い魔法で完璧な別人に作り替えられたのではなくて、自分で望んで、努力して変わっただけ。解くべき呪いなんてそこにはない。
「すみません、やっぱり、食べすぎたみたいでお腹が痛くて、今日はもう私は離席させてください」
頭を下げると涙が滲んでしまって、顔をあげられない。
目を合わせないように叔父の屋敷に駆け込んで、人に見られないように涙を拭った。
部屋の一つで休んでいると、しばらくして母が入ってきた。
「あなたが食べ過ぎるなんて珍しいわね。大丈夫? 消化にいいハーブティーをもらってきたわよ」
のんびりした母の声に苦笑いする。
「ありがとう。食事が美味しかったのにそのあとデザートも食べたせいよ」
「あなたの作ったアップルパイね。私も食べたかったわ」
「あとで食べて。ねぇお母様」
母が首を傾げる。私と同じ茶色い髪のグリーンの瞳。落ち着いた色合いは母みたいに年齢を重ねればよく似合って美しい印象になるのだろうか。私は同じような顔で同じ色の髪と瞳なのに、どうして地味な印象になるんだろう。
鏡を見て自分の容姿にうっとりするくらい美人だったら、私の考えも少し変わったのだろうか。
「……私たちの婚約って、見直しすることはない?」
「え?」
母は私の顔をまじまじと見つめる。
「リチャードとの婚約の話? なぁに、喧嘩したの?」
「喧嘩なんてしてないわ。ただ、その、私たちの婚約は、近くにいるっていうだけの理由で決まったのでしょう? ……ちょっと言ってみただけよ。忘れて」
母があまりに戸惑った顔をするので、慌てて首を横に振った。
母に先に話すのはだめだ。まず父に手紙で相談して、それからリチャード様のご両親との間で話をまとめてもらって、結論が出てから私が本人と会話するのがいい。
母は私の隣に座って手を握った。
「結婚前は色々不安になることもあるわよね。お母様も不安になったわ。でも大丈夫。ちゃんと家族になって、一緒に過ごせばその不安もなくなるの。マリッジブルーにはちょっと早すぎるけど、それだけ結婚が楽しみということでしょ?」
「ええ」
何度も頷くと、ようやく母は安心した顔をした。
慎重に話を進めないと、母が一番動揺するかも。とにかくまずは父に手紙を書いて、それを母の目に触れないように父に渡してもらう必要がある。
しばらくたって、休日。私は王都の親戚の屋敷を借りて、アップルパイを焼く練習をしていた。
リチャード様に雨が降った次の日の地面のようなパイを渡すわけにはいかないからだ。
「生地を強く押さえすぎなんですよ。せっかく作った層が全部潰れてしまっています」
「生地を畳んでいるときに言って」
「言いましたとも!」
私のお菓子作りに付き合ってくれているメイドのマリーが叫ぶ。
「そうだったかしら?」
「集中しすぎて耳に入っていなかったのでしょう。いつものことです」
私は作業台の上に並んだアップルパイ三号を苦い顔で見つめる。
食べられるレベルだけれど、美味しくはないだろう。
リチャード様は美味しくないものを渡しても、美味しいと嘘をついて食べるのが分かっている。
以前食事したレストランで頼んだシチューに、彼が大嫌いなマッシュルームが山ほど入っていたのに残さず食べていた。飲み物で流し込むのを見ていた。
だから心から美味しいと思うものを渡したい。「このアップルパイ、おいしいね」じゃなくて、昔一緒にアップルパイを食べたときみたいに、綺麗な感想を言うのも忘れて丸ごと全部食べるくらい美味しくなくちゃ。
「難しいのよ。もう一回やるわ」
「手を冷やしたほうがよろしいですよ。バターが溶けたら台無しです」
「分かってるわ」
そうして休日を使ってアップルパイの練習を繰り返し三十個を超えた頃、ようやく納得できる見た目のアップルパイを完成させることができた。
結局練習している間にバザーのクッキーも買いにきてくれて、たくさんの生徒の前で仲良し婚約者のふりをすることになった。そしてわざわざメッセージカードと花束が私の部屋に届いたので、私の学友がうっとりした顔をしていた。
花束なんて領地にいたときは一度ももらったことがないけれど。
王都に来てから花束ばかり贈ってくださるようになった。リチャード様らしくない。
入学前は、使い道がよく分からない外国の置物や、字も読めない本、綺麗で使いにくい文房具など、彼は田舎ではあまり見ることがない小物を見つけると私に送ってくれていた。メッセージカードにはいつも「これはなんだと思う?」と書かれていて、次に会うときまでに私は自分の人脈と知識を総動員して考えたものだ。
メッセージカードの筆跡は変わらない。
「おいしかった。ありがとう」という無難なメッセージは誰かに見られることを想定しているからだろうか。焼き時間を短めにして少ししっとりさせたけれど、結局クッキーだから口の中の水分を奪うもので好みじゃないはずなのに。
気遣いをする優しさは昔からあるけれど、前はもっと感情を隠すのが下手だった。
美味しいものを食べたときの目の輝きと、無理しているときは全然違うから、何が好きなのかすぐ分かるのだ。
*
「おいしいよ」
残暑の日差しを避けた庭で、リチャード様が綺麗に微笑んだ。
私の両親、彼の両親、そして叔父が集まり会食してから、私と彼は庭で二人いつものように話をして、アップルパイを食べてもらった。
綺麗にカットされたパイをフォークで掬い、小さなひとくちを上品に口にする。
ゆっくり会話を楽しみながら口に運ばれていくアップルパイ。
色や形は菓子職人と同じレベルとはいえない。でも綺麗にできた。
私もひと口食べてみて、甘さとシナモンの香りがちょうどよく、りんごのフィリングの歯ごたえやパイのサクッとした軽い食感の組み合わせは私が今まで作った中では最上級の出来だったと思う。
でもこれじゃダメだった。
リチャード様は、用意されたひと切れを食べ終え、それで満足そうだった。
おいしいよ、と他のものを食べたときと同じように微笑むだけだ。目がきらきら輝くことはない。
作ったものを美味しく食べてもらったのだからそれでいいはずなのに、なんだか鼻の頭がつんとする。ゆっくり息を吸って少し上を向いた。
「クロエ?」
「すみません、ちょっと、気分が悪いかも……」
「大丈夫? 陽がないと寒かったかな。中に戻ろうか」
「大丈夫です」
涙が出そうかも。
リチャード様は立ち上がって私にジャケットをかけてくれた。
寒いわけじゃないからいらないけれどそのまま受け取る。
彼は優しいし、律儀でいい人だ。それにすごく努力家。
王都の学院を一緒に見学して、憧れてこの学校に入ったのだ。せっかくリチャード様が監督生になるために努力しているのに、私は昔の彼を懐かしむばかりで、心から応援していない。
父の領地にいた頃みたいに気軽な関係に戻りたくて、このアップルパイが魔法を解くんじゃないかと期待していたのだ。
彼は悪い魔法で完璧な別人に作り替えられたのではなくて、自分で望んで、努力して変わっただけ。解くべき呪いなんてそこにはない。
「すみません、やっぱり、食べすぎたみたいでお腹が痛くて、今日はもう私は離席させてください」
頭を下げると涙が滲んでしまって、顔をあげられない。
目を合わせないように叔父の屋敷に駆け込んで、人に見られないように涙を拭った。
部屋の一つで休んでいると、しばらくして母が入ってきた。
「あなたが食べ過ぎるなんて珍しいわね。大丈夫? 消化にいいハーブティーをもらってきたわよ」
のんびりした母の声に苦笑いする。
「ありがとう。食事が美味しかったのにそのあとデザートも食べたせいよ」
「あなたの作ったアップルパイね。私も食べたかったわ」
「あとで食べて。ねぇお母様」
母が首を傾げる。私と同じ茶色い髪のグリーンの瞳。落ち着いた色合いは母みたいに年齢を重ねればよく似合って美しい印象になるのだろうか。私は同じような顔で同じ色の髪と瞳なのに、どうして地味な印象になるんだろう。
鏡を見て自分の容姿にうっとりするくらい美人だったら、私の考えも少し変わったのだろうか。
「……私たちの婚約って、見直しすることはない?」
「え?」
母は私の顔をまじまじと見つめる。
「リチャードとの婚約の話? なぁに、喧嘩したの?」
「喧嘩なんてしてないわ。ただ、その、私たちの婚約は、近くにいるっていうだけの理由で決まったのでしょう? ……ちょっと言ってみただけよ。忘れて」
母があまりに戸惑った顔をするので、慌てて首を横に振った。
母に先に話すのはだめだ。まず父に手紙で相談して、それからリチャード様のご両親との間で話をまとめてもらって、結論が出てから私が本人と会話するのがいい。
母は私の隣に座って手を握った。
「結婚前は色々不安になることもあるわよね。お母様も不安になったわ。でも大丈夫。ちゃんと家族になって、一緒に過ごせばその不安もなくなるの。マリッジブルーにはちょっと早すぎるけど、それだけ結婚が楽しみということでしょ?」
「ええ」
何度も頷くと、ようやく母は安心した顔をした。
慎重に話を進めないと、母が一番動揺するかも。とにかくまずは父に手紙を書いて、それを母の目に触れないように父に渡してもらう必要がある。
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