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第四話【最終話】

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 彼の熱を受けとめて、そのあともう一度して、二人で湯浴みして。
 マチルダは夕飯を作りながら、いつもと違う順番で夕方を過ごすのはなんて素晴らしいのだろうと思っていた。

 緩む頬を緩みっぱなしにしながら、カイルが好きなチーズ入りのハンバーグを焼いている。

「マチルダ」
「ひゃあ!」

 後ろから急に抱きしめられて、マチルダは悲鳴を上げた。

「ごめんね、びっくりした?」
「びっくりしたけど大丈夫! 嬉しいわ。あ、そうだ……薬を飲まなきゃ。それに、リリアーナ様にはお礼をしなきゃ!」

 マチルダは、テーブルに置きっぱなしになっている瓶に視線を投げた。恋する気持ちがリセットされてもまたすぐ恋に落ちることが分かったし、カイルの気持ちも言葉で知ることができたし、リリアーナにも感謝しなければならないと思った。

「それにしても、カイル、どうやってリリアーナ様にお会いできたの? なかなかお約束もできない方だと聞いていたけれど」
「リリアーナ様の幼馴染が、僕の学生時代の友人なんだ。それにいつも発注をくれる騎士で、頻繁に連絡を取ってる」
「そうなのね」

 マチルダはカイルの手を握って、彼の榛色の瞳を見つめた。

「いつもわたしのことを助けてくれてありがとう」
「ううん」
「わたしはカイルに助けてもらっただけなのに、あなたがわたしにひと目惚れしてくれたなんて知らなかった」

 指を絡ませるようにして甘えると、カイルは軽く目を見開いた。

「あー……」
「どうしたの?」
「いや、えーと、僕が君を初めて見たのは薬局で仕事をしていたときじゃないよ。その前の仕事」
「その前?」

 マチルダは、薬局で勤める前は、魔法律事務所の事務員をしていた。知人の紹介で入った会社だけれど、人と話すことがほぼなく、厳密な仕事ぶりを求められる職場が合わず、その上クライアントや上長から仕事と関係のないアプローチを受けることが多くて、それを同僚にも誤解されて、困って退職してしまったのだ。

 しかしそこで働いていたときに、カイルと顔を合わせた覚えはない。マチルダは一度会った人の顔はたいてい覚えているので、もし一度でも挨拶をしたなら、薬局で再会したときに初対面だとは思わなかったはずだ。

「僕のお客様が、修理代を払えなくなって、その対応をそこの事務所にお願いするって言ったんだよね。それで話をしにいったんだけど……」
「そうなのね。ごめんなさい、気づかなくて」
「いや、全然……ちゃんと顔も合わせてないよ。そこで君と同僚が話しているのを聞いて」

 マチルダは顔を引き攣らせた。
 あの事務所の同僚は、マチルダにあたりがキツかった。色々と誤解を受けていたので、その会話を聞かれたとしたらいい話題ではなかったはずだ。

「そのとき君は話の途中で多分上長に呼ばれて、部屋を出ていったと思うんだけど、笑顔だったから印象に残ってた。でもそのあと、僕が建物の外に出たら、君が一人で泣いてるのを見てしまって……知らない人に声をかけられても怖いかなと思って何もできなかったんだけど、なんとなく気になってて」

 マチルダの表情がまた固まった。
 大人として恥ずかしいから、いつもは家の外で泣かないようにしていた。マチルダが職場で泣いたのは一回だけだ。

 一生懸命対応処理した仕事にミスがあることが発覚したのだが、それは別の同僚がマチルダに誤った資料を渡していたからだと分かった。しかもそれがわざとだと知って、とてつもなく虚しくなったのだ。
 ちょっと誤解を受けて嫌味を言われても、真面目に仕事をしていれば認めてもらえるものだと思っていた。
 それも求められていないのだと思ったらなんのためにこの場所にいるのか分からなくなってしまって、そのあとすぐ退職届を出してしまった。

「そのあと何度か事務所に行く用事があったけど、二度と会えなくて、幻だったのかと思ってた。そしたらある日、街中で君を見かけたんだよ。制服を見て祖母が通っている薬局だなって分かったんだ。だから頼まれてもいないのに祖母に付き添って、君に話しかけました」

 マチルダは突然の告白に驚いてしまって、口をぽかんと開けて何も言えなかった。

「一生言わないつもりだったけど、マチルダを不安にさせるくらいなら、ストーカーだったってバラすほうがいいのかなと思って。怖い? 大丈夫?」

 マチルダは何度も頷いた。その程度でストーカーを名乗るなんて、カイルは甘すぎる。

「大丈夫! わたしもカイルのことをストーカーして、何度も偶然を装って鉢合わせたから!」
「そうなの?」
「ええ、街で偶然会ったことなんて一度もないわ」
「そっか、じゃあ……お互い様だからいいかな?」

 カイルが軽く笑った。
 眉を下げて、困っているようにも見えるその笑い方が、マチルダは大好きで、また自分の胸がときめくのを感じた。

「僕は結構、こうしたほうがいいかなって思っても、やらない理由ばかり考えちゃうんだ。だから君が目が合うと笑いかけて、声をかけたら楽しそうにしてくれることに、勇気をもらって、すごく助けられてたよ」

 カイルは少し身を屈めて、マチルダに軽い口付けをした。

「これからは、自分からもっと動くね。今までの分もたくさん返せるように」

 離れた唇がもう一度重なった。
 カイルがマチルダの手を取って、ぎゅっと握る。

 急に増えたスキンシップに、マチルダの心はいっぱいいっぱいになる。顔から火が出るんじゃないかというくらいに熱くなって、彼女の目には涙が滲んだ。

 彼女の潤んだ目のきわを、カイルの親指が優しく拭った。お互いに吸い寄せられるように唇が重なる直前で、雰囲気を壊すような乱暴な音がした。

 ドンドンドンドン、と力任せに扉をたたき続ける音だ。

「な、何⁉︎」

 マチルダは不安げにカイルを見上げた。夫がマチルダを庇うように移動したことに嬉しくなってまたどきどきしてしまう。

「確認してくる」
「危ないわ」
「とりあえず覗き窓から見るだけだから大丈夫」

 カイルは迷うことなく扉に近寄り、玄関の覗き窓から客人の顔を確認した。
 そしてすぐに鍵を開けた。

「カイル……⁉︎」
「カイルお前、殺すぞ!」

 王宮の騎士団と思われる赤髪の男が、暴言を吐いて部屋の中に侵入してきた。
 マチルダが悲鳴を上げると、その男――ダニエルが眉を顰めた。

「やべ、すまん、怖がらせるつもりはなかったんだが、あんたの旦那は悪魔に魂を売ってるんだ。これは男二人の問題だから黙っててくれ。別に物理的に傷つけようだなんて考えてない。殺すとは思ったが」
「物理的に傷つけずに殺すってことは社会的に?」
「比喩だよ。うるせぇな! 変なもの飲ませやがって殺すぞ」
「変なものは飲ませてない。リリアーナ様が作った薬で安全性は保証されているよ」

 カイルが落ち着いて回答すると、ダニエルは目を細めてカイルを睨んだ。

「自白剤を飲ませていいのは騎士団の尋問専門の部隊だけだって法律で決まってるんだ。この犯罪者」
「その法律で定義されている自白剤とは機序が違うから僕とリリアーナ様が罰せられることはない。心の底から言いたくないことは口から出ないようになってる。そんなことより、ちゃんと言えたの? 僕はリリアーナ様に彼女が一番欲しいものを渡す代わりに呪いを解いてもらうことを了承してもらったから、君がちゃんとしてくれないと困るんだよ」

 ダニエルは口を大きく開けて、閉じた。そしてまた開いた。

「一番欲しいものって……」
「彼女だけを心から愛してくれる人。告白した?」
「したよ! 馬鹿、余計なことするな!
俺は次のリリアーナの誕生日に告白するつもりで計画練ってたのにお前のせいで台無しだろうが! とは言っても当日誘えてなかったし去年も同じことを考えてたけどできなかったから、感謝するべきかもしれないけどお礼は言いたくないんだよ!」

 カイルはダニエルの叫び声を聞いて、目を丸くしていた。
 マチルダは、どうやら自分は男性を紹介しなくてもよさそうだと悟った。

「すごい効果だね。さすがリリアーナ様……どういたしまして」
「黙れ。それでお前のほうはちゃんと解決したのか!」
「うん、おかげさまで。……多分君は本気で怒っているんだろうけど、口からは気遣いの言葉が出てくるなんてすごく不思議だ。どういう仕組みなのか本当に気になるな」

 カイルがダニエルをじっと見つめると、ダニエルは気味が悪そうに顔を顰めた。

 カイルはものの仕組みを知るのが好きだ。まるで仕事で直す魔導具を見つめるように、ダニエルを見つめている。

「カイル」

 マチルダはカイルの手を後ろから握った。

「もう遅いから、お話するなら中でゆっくりしていただいたら? 夕飯を三人で食べてもいいし」

 この提案には、ダニエルが首を横に振った。

「いや、そこまで世話になるつもりで来てない。顔見て文句言いたかっただけだ。夜に邪魔して悪かったな。一人だけ涼しい顔してほんとにムカつくなお前!」

 ダニエルはもう一度カイルを睨んだ。

「お幸せにな!」

 幸せを祈っている顔には見えないが、そんなことを言って、出て行った。カイルがダニエルの背中に向かって叫ぶ。

「君もね!」
「うるせぇんだよ、まだ返事もらってねぇよ!」

 ダニエルの怒鳴り声が夜の空に響く。扉が閉まると、カイルは声を出して笑い出した。

「はぁ、おかしい。リリアーナ様はダニエルのことは悪く思ってないはずなんだ。きっと近いうちに結婚式の招待状が届くよ」

 マチルダは、夫が声を出して笑うところをあまり見たことがない。それに、友人から「悪魔に魂を売っている」なんて言われるような性格をしていることも知らなかった。
 マチルダの前ではいつも優しくて、控えめで、人のいい夫だ。ちょっとだけ仕事にのめり込みすぎているところはある。

 カイルと目が合った。目が合うと彼はいつも優しく微笑んでくれる。
 マチルダはその表情が大好きでとても幸せな気持ちになるが、今日はいつも以上にドッと心臓が跳ねてしまった。

 そういえばまだ薬を飲んでいなかったのだと思い出して、薬瓶に目を向けると、その視界を遮るようにカイルが手を伸ばした。

「薬を飲む前にちょっとだけ……」

 カイルがマチルダの手を取ってその指先に口付けした。びっくりして飛び上がってしまった。

「なっ、なんで⁉︎」
「君がどきどきしてくれると嬉しいから」

 指先を甘く噛まれて、マチルダは目を丸くした。もしかしたらまだ自分は夫のことをよく知らないのかもしれないと思ったけれど、新しい顔を知ってもきっとまた恋に落ちるだけなので、あまり心配しないことにした。

 でも一つ、訂正しておかなければならない。呪われていてもそうでなくても、マチルダは毎日カイルにどきどきしている。それが伝わっていないということは、マチルダも自分の気持ちを伝えきれていないということだ。これからもっと好きだと伝えなくては、と決意したのだった。
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