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【35】光さす庭
しおりを挟む母様は自分を生んですぐに亡くなり、父様は御政務が忙しくて会ってくれないけど、乳母のマーサがずっとそばにいてくれたから、カイは寂しくなかった。
いや、嘘だ……。
ずっと寂しかったのだ。
父様はどうして自分に月に一度、決められた短い時間しか会ってくれないのだろう?
そのときも笑いかけてくれることもなく、マーサの養育の報告というのを、ただ聞いて「そうか」とうなずくだけで、自分に声をかけるどころか見てもくれない。
「父様は僕が嫌いなの?」とマーサに問えば彼女は困ったような顔で「陛下はお忙しい方なのです」という。そして。
「殿下の今着られている服に、お食事においしいお菓子はすべて陛下が殿下の養育に不自由がないようにと、十分にお手当を下さっているものです。お嫌いならばなにもお与えにならないでしょう?」
「でも、みんなは父様は僕なんてどうでもいいんだって……」
カイの言葉にマーサは眉を寄せて「こんな小さな子どもの耳に入ることにも気をつけずに、噂話に花を咲かせるなんて、若いメイドは……」とつぶやき。
「陛下が本当に殿下に関心がおありでなかったら、月に一度、私に殿下を連れて養育の報告に来るようにと……そんなことは申しつけになりません」
「陛下は十分に殿下をお気をつけになられていますよ」とのマーサの言葉はわからなかったけれど、うなずいた。
そのあとに大好きなリンゴのケーキを大きく切ってくれた。いつも夕ご飯が食べられなくなるからと、たくさんはくれないのに、これも大好きなアイスクリームも添えて。
その日の夕ご飯は案の定あまり食べられなかったけれど、いつも優しいマーサは、その日はとくに優しくて、もっと小さな頃のようにカイが眠りにつくまでベッドのそばにいてくれた。
父様には常に会えないけれど、優しいマーサがそばにいてくれて、美味しい食事に美味しいお菓子に……。
やはりちょっと寂しいけれど、カイの小さな世界はそれでも穏やかで温かなものであったのだ。
それが突然、真っ黒な悪夢に変わる。
優しいマーサがある日突然いなくなって、新しい乳母のカテリーナは若くて綺麗なのかもしれないけど、なんだか怖かった。
初めは優しい声で「カイ殿下」と呼びかけてきたけれど、甘いお菓子は頭が悪くなるからと出されなくなった。
その代わりに与えられたのはカイには読むのがやっとの難しい本。父と同じ名前の初代皇帝ヴォルドワンの偉業を長い詩にしたものだった。それをすべて暗記するようにと彼女は言った。皇帝の唯一の御子ならば、それを覚えていて当たり前だと。
それから何時間も何時間も、初めは本を読まされ、暗記をさせられて、暗唱させられた。彼女が決めた今日のところまで覚えていないと、それが言えるまで、どんなにお腹が空いていても食事とならなかった。
それでも「父君である皇帝陛下の前で、殿下がその詩をそらんじられたら、お喜びになるでしょう」とのカテリーナの言葉に淡い期待を抱いていたのは確かだ。
いつも自分に声をかけてくれない父が「よくやった」と言ってくるところを想像して。カテリーナの「以前の殿下に御甘いだけの乳母と違って、わたくしの優秀さと聡明さも褒めてくださるはず」とそんな言葉は聞いてなかった。
そして、カテリーナが乳母となって初めて父に会う日。
新しい乳母に言われるままに、詩の冒頭をそらんじたカイに、ヴォルドワンはギロリと視線をむけて「それ以上は必要ない」と言った。「その詩ならば帝国史の序文を一読すれば誰もが知っていることだ」と。
「それよりカイ、それはお前が望んで覚えたことか?」
そう問われてカイは「いいえ」と正直に答えた。「カテリーナが覚えろといいました」と。
「子供にオウム宜しく余へのおべっかを教え込むことが、優秀な乳母の仕事か?」
ヴォルドワンに冷ややかな視線をむけられてカテリーナは青い顔になって唇を噛みしめていた。「乳母たるそなたに求めてるのは、子供の健やかな成長のみだ。この子が望まぬ押しつけなどやめてもらおう」と。
さらには「ご自慢の若さと美貌にいらぬ期待など抱かぬことだ」とヴォルドワンは言った。その意味をカイはわからなかったけれど。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
「どうしてご自分で望まれたことだと陛下に言わなかったのです!」
カテリーナに甘いおやつはとりあげられたけど、今日は特別だった。
月に一度の父との対面のあとは、その皇帝の名のもとに美味しい菓子が届けられるからだ。
皇帝たる父からの菓子を、さすがのカテリーナもカイに与えないわけにはいかず、メイドの手によって皿に乗ったそれが私室に運ばれてきた。
カイが彼女の前でそのたっぷりのクリームにチョコレートがかけられた特別なケーキを口にしようとした。そのとたん彼女は癇癪を起こして怒鳴り。
「殿下のおかけでわたくしは恥をかきました!」
そしてカイの目の前からケーキの載った皿をはたき落とした。卓からそれは滑り落ちて、皿の割れる音とともに床にぺしゃりとケーキはつぶれて無残な姿となった。
騒ぎを聞きつけてやってきたメイドに「殿下が粗相をなされて、陛下からの御下賜のケーキを台無しにしてしまいました。片付けなさい」カテリーナはそう冷ややかに告げるとドレスの長い裾を翻して、部屋を出て行った。
カイはうつむき唇を噛みしめ、声もあげずに泣くしかなかった。
それから程なくして、父が別宮に将来の皇妃となる方を迎えたという話を聞いたのは、カテリーナの口からだった。
彼女の語ったのは恐ろしいことだった。新しく父の妻となる方は男だけど、カイを邪魔に思っていてその人が皇妃になれば、自分などすぐに殺されてしまうだろう……と。
さらにカテリーナはますます意味もなく憤るようになって、理由もなくカイをムチで打擲するようになった。
それも他の者達に気付かれないように、袖をめくった腕や、服の下の腹や背に……。「一人でお着替えぐらいなされるでしょう?」とカテリーナは、カイに朝の仕度で自分でシャツと半ズボンまでを身に付けるように命じたから、メイド達も気付かないようだった。
いや、彼女達もまた見て見ないふりをしていた。皇帝陛下は殿下に関心などない。この宮殿の片隅で見捨てられておかわいそうに……などと噂話をしていたのは彼女達だった。
カイは部屋に閉じこもるようになった。カテリーナと顔を合わせれば、まったく理由なく彼女に罵られ、ムチで打たれるからだ。
だから、この真っ黒い部屋の中に閉じこもっていれば、酷い言葉を耳にすることなく、ムチで打たれることもない。
一人は寂しいけど、マーサもいなくなって、父様も自分を見捨てたのだ。
だからここにいる。
ここにいれば誰も自分を傷つけない。
膝を抱えてうずくまるカイ……。
その前にぽうっと光が差した。
目を固く閉じていた彼だが、思わずその目を開いた。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
男でありながら皇妃の地位を陛下に強請った恥知らずだとカテリーナは、口汚く別宮に暮らす人を罵った。
カイにも、あんなものが皇妃になればあなたなど、たちまち始末されるでしょう!とも。
だけどカイは本当にそうかな?と思った。カテリーナは恐ろしいけれど、彼女は大嘘つきだ。自分が癇癪を起こして物を壊しても、それを全部カイの粗相やイタズラのせいに最近されていた。
ちょっとのぞくだけなら……と好奇心にかられて薔薇の生け垣からのぞいた光景は……。
光さす庭にその美しい人はいた。男の人の服を着ているのだから、男の人なのだろう。だけどカイがいままで見たなかで一番綺麗な人だった。
蜂蜜色の髪に、生け垣に隠れているのに、自分をじっと見つめる空色の瞳。
その人は笑顔になって「小さなお客様」と自分を呼んで、甘いお菓子をくれた。またこの庭に来ていいと。
カテリーナの顔色をうかがい怯えて暮らしていたカイにとって、それはマーサと一緒にいるように温かで、そしてキラキラとした時間となった。
だけど、たちまちカテリーナにバレて、彼女は今まで一番甲高く恐ろしい声をあげて、自分を酷い言葉で罵ってムチをふりあげた。
だけど、そのムチは振り下ろされることはなかった。
白い手が自分を抱きしめ、頭を撫でて、そして恐ろしいカテリーナを遠ざけてくれた。
誰もカイを助けてくれなかったのに、リシェリードが助けてくれた。
それからの時間は夢のようだった。リシェリードとともに父と一緒の朝食の時間。彼と言い争う父の姿に目を丸くした。執務机の向こうでいつも厳しい顔をした父しか、カイは知らなかったから。
自分にも話しかけてくれて、リシェリードがちゃんと毎食食べたのか、報告するようにと命じられた。父から初めて与えられた役割にカイが張り切ったことはいうまでもない。そして、その報告が親子の会話となった。
それから帝宮の外に出たことのないカイが、初めて帝都の街を見た。それも大好きなリシェリードと父ヴォルドワンとの三人で。
買ってもらったおもちゃの兵隊はカイの宝物になった。枕元に飾られたそれを毎夜眺めると、初めての街歩きの楽しい思い出が蘇った。屋台でリシェリードと一緒に食べたアイスクリームの味も。
「ヴォーは……陛下は不器用な方なのですよ。カイ殿下となんておしゃべりしたらいいかわからないのです」
「そう考えるとかかわいいでしょう?」と笑うリシェリードに、あの父様がかわいいとは思えないけれど、カイも一緒に笑ったのだった。
マーサのただ父は忙しいという言葉より、なにかぽかぽかとわかる様な気がした。
そんなキラキラと光る美しい庭に、突然「夢だ!」という女の声が響く。それはあのカテリーナの恐ろしい声にも聞こえたし、もっともっと怖い違う声にも聞こえた。
お前はひとりぽっちだと声は言った。母も亡く、父も自分を見捨てて、優しい乳母も去ったと。
優しく笑うその魔法使いとて、お前のことは父とのあいだの邪魔者と思っている。
だから殺されないように暗い部屋に籠もっていろと……。
違う……とカイは思った。
あの光輝く庭であったリシェリードはそんなことは言わないと。
その彼の横で穏やかに微笑んでいる父もまた、自分のことを見てくれていた。
リシェリードの言うとおりに不器用なのだろう。やっぱりかわいいとは思わないけど。
夢だ!夢だ!夢だ!それはもはや女の声ではなく、嵐のようにカイの周りを飛び交った。なにかに憤り焦っているかのように。
こんなものはお前の見ている都合のよい夢だ。すぐに消してやる!と。
輝く庭の光景を黒く塗り潰そうとしたが、その光は闇をはねのけた。そして同時にカイは憤った。
自分の中にある絶対消せない光。
それに触れることなんて許さない。
「僕のなかから出て行け!」
意味もわからず叫んでいた。
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