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【4】雨の宿 その1

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 万病に効くという温泉は、鄙びた山奥にあった。こんな場所によくぞ建てたとばかりに木造の宿が崖にへばりつくようにある。一件宿だ。
 崖下から鰺組みを組んで建てられた建物は、街道側から見ればごく普通の三階建てだが、その反対側。はるか崖下に見える渓流の眺めは絶景だった。高い所が苦手な人間ならば、窓辺に近寄りたくもないだろうが。

「なかなか止まないな」

 出窓に腰掛けて、ウーサーが水で煙る外を見てつぶやく。景色が見えないほど土砂降りではないが、さあさあと空から降る細い雨の膜は渓流の山々の緑の風景を煙らせる。

「この季節はだいだい雨だそうだ。細い街道の悪路に湯治にやってくる物好きもいないと」

 アルマティはこの地方の陶器独特の色である赤茶の小さな丸いポットで茶を煎れる。同じ色の小さな持ち手のないカップに注いだ。この赤茶色はべんがら色というそうだ。
 ふわりと鼻をくすくずるのは茉莉花を混ぜた茶葉の香り。二つのカップのうち片方をウーサーに渡す。

「だから私達が放り込まれたんだろうが」
「いえてる」

 ウーサーがカップをうけとってくびりと呑む。まったく酒ではあるまいし、茶は香りを楽しむものだぞと思いながら、アルマティは一口含む。口中に茉莉花の淡い香りと、茶の甘みが広がる。
 傷口が塞がったとはいえ、流れた血は多くいまだ本調子ではないというのに、ウーサーは寝台から起き上がって動き回りたがった。「寝ている暇なんかあるか!」と執務をしようとし、あげく兵達に交じって鍛錬さえしようとする。
 それにぶち切れたガレスが「十日は出しませんからね!」と放り込まれたのが、この山奥の温泉だった。
 雨期で客がまったくない宿は、出入りの商人の紹介のこの“借りきり”に快く応じてくれた。もっとも名を伏せようとも、アルマティの隠そうとも隠しようもないエルフの容姿に、さらにウーサーだって目立つ。こちらの正体など丸分かりだろうが。
 とはいえ忍びであるとガレスが話を通してくれたのだろう。宿の人々は、ウーサーにもアルマティにも“ただの客”として接してくれた。さきほど部屋に案内してくれた女将もまた、茶器と茶菓子を置き「ご自由にお使いください」と去っていった。必要以上にかまうことはない心得た節度は、休息を必要としている身には心地よかった。
 旅館の三階はアルマティとウーサーが使い、二階には客を装った護衛の騎士達が泊まっていた。

「……まったくガレスの奴。こんななにもないところで十日過ごせなど」
「なにもないからいいんだろが。お前がすることは温泉に入り、この土地の地味あふれる料理を食べて、寝ることぐらいだ」

 「いいことといえば、あなたが一緒のことぐらいだな」とウーサーが、雨に閉じこめられたような景色を眺めてつぶやく。
 まあ、だからアルマティも一緒に放り込まれたのだ。ガレスにはくれぐれも……と言われている。

「あなたが一緒ならば、兄上もあなたの言葉だけは訊いて“大人しく”しているでしょうから」

 と。

「さて、名物の露天風呂にでもはいるか」
「風呂に入るしかないといっても、あなたと一緒に入れるというなら役得だな」
「千歳近くのエルフの爺と混浴で、なにが“役得”だ。とはいえ、ここは本当に病気療養専門の鄙びた湯治場だ。湯女ゆななんていないぞ」
「……そんなものはいらない。あなたと二人きりがいい」
「…………」

 湯女とは男性客の入浴の手伝いをするとは表向きの話。ようするに身体を売る娼婦のことだ。賑やかな街には、その手の女達はどこにでもいる。太古からの一番最初の職業などといわれている、いわば社会の必要悪だ。
 ウーサーの軍の規律はしっかりしていたが、休日の兵士達がそのような“悪所”に通うことをとがめることはなかった。決まり事といえば「酒に酔っての乱闘は禁止。賭け事には手を出すな」ぐらいか。
 二日酔いを抱えて戻ってきた兵士には、酒抜きとして隊列を組んでの半刻の行軍の罰がある。これは休み明けの名物ではある。
 当のウーサー本人に関しては、アルマティは関与していない。十五ですでに成人しているのだ。自分がもはや口を出すことはではないだろうと。ただし魔族の女が化けた素性の知れない相手には気をつけろとは警告したが。

「いくらお前が竜人族の末で無尽蔵の体力を持とうともだ。からからにしぼりとられて、ミイラになりたくなければな」
「搾り取られるなら、アルマティがいいな」
「馬鹿者。私はエルフだ。夢魔ではないぞ」

 そんな軽口をたたきあったが、この件に関してはアルマティはウーサーを信頼はしていた。他の大胆さと大ざっぱさといい加減さからくる、危なっかしさはともかく。
 幼い頃からアルマティに優雅な所作にダンス、騎士道たるものをたたき込まれたウーサーは、女性受けは大変よかった。亡国の王子とはいえ、いまや一軍を率いる王国再生の希望。
 くわえていうならば十八にしてすでにアルマティを頭半分追い越した長身に、若駒のように張りのあるしっかりとした体躯。燃える様な赤毛に、竜人族の末をあらわす金色の瞳には強い意思が宿り、顔立ちもすっかり青年の精悍なものとなった。
 これで貴婦人方が夢中にならないわけがない。領主の館にて催される夜会などでは、彼の周りには常にご婦人の輪が出来ていた。
 しかし、ウーサーはこれをうまくいなして、誰か一人に心を惹かれたそぶりなど、欠片も見せたことはなかった。騎士の中の騎士として貴婦人達にはうやうやしい態度を崩すことなく、誰もに平等に接する。

「いや、絶景だな。こうみると雨に煙る渓流も幻想的な景色だし。広い湯船は最高だし」

 渓流に面した露天風呂。岩を組んだ湯船は何人も手足を広げて入れる十分な広さだ。雨の多い地域であることを考慮してか、屋根付きの風呂は快適である。その向こうに広がる渓流と山野の景色は、さあさあと降る雨のベールの薄布をかけられて、たしかにどこか夢のような光景に見える。

「お前の口から幻想的なんて言葉を聞けるとはな」
「そのうえに、アルマティの雪のように白い肌とくれば、絶景かな、絶景かな」
「…………」

 十分に広い風呂だというのに、ウーサーはわざわざこらちに身を寄せてきて、さらには片手をアルマティの背後の岩について囲い込むようにする。
 膝立ちでこちらを見るウーサーの金目と自然、アルマティの湖水の瞳を見つめ合う形になる。
 まったく図体ばかり本当にでかくなった。十八という若さゆえに、いまだどことなくは脆弱さは残るがそれでも、肩幅も太い腕もすっかり大人の男のものだ。これまたますます厚くなるだろう胸板に割れた腹。膝立ちの姿勢で筋肉のたくましい隆起がうかびあがっている両の太もも。長く形のよいすね。
 自分が半分育てたようなものだが、体格というものは持って生まれたものだ。この場合は竜人族の先祖返りゆえの身体というべきか。
 さて、そのたくましい太ももの間の男の印も、ご立派というべきか? こちらはさらにアルマティの預かり知らぬところだ。成人してからはとくに、彼が夜、誰かとすごしているのか? など詮索したことはない。

「……やっぱりあなたは美しいな。俺が見たなかで一番綺麗なものは、あなただ」
「…………」

 湯に浸かっているアルマティの銀の髪をひと房とり、ウーサーがうやうやしく口づける。まったく己の周りに集う貴婦人達の、手の甲にふれるかふれないかの礼儀の口づけはすれど、このようなことはしないクセに。
 ウーサーがこんな戯れを仕掛けるのは、幼い頃から育てた自分だから……とアルマティは思いこもうとしていた。
 青年の目に宿る、己のへの熱を見ないフリして。
 見つめ合っていた視線を落とせば、胸に赤い傷が目にはいった。そこにそっと白い指をはわせれば、青年のくっきりと割れた腹筋がひくりとへこんだ。

「王となるものが、一兵卒をかばってこのような傷を負うなど……」
「それでも俺は兵の生け垣の奥に守られる王などにはなりたくない。国と自分のために命を捧げてくれる兵の先頭に立ちたい」
「いっても無駄なことはわかっているさ。この猪が」

 猪騎士を育てるつもりはないと、出会った最初に言ったのをアルマティは思い出し苦笑する。
 まったく、人の子を育てるなんて千年生きて初めての経験だったが、思い通りにいかないことばかりだった。もっとも言いなりになるような“人形”ならば、彼はこれほどまでに兵士達や民の心をつかめたかわからない。




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