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おお来たか
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何となく、店に貼られた求人を見た。カウンター席からは求人の内容がよく見えた。相変わらず最低賃金が書かれた粗末な紙だった。求人には、撮影用の笑顔を振りまいている店員の写真が真ん中に配置されている。失礼にならない程度に働く店員の顔を観察してみる。誰も笑っていない。目先の業務に手一杯だという顔をしていた。あんまりなギャップに少し吹き出しそうになる。至るところに嘘はあるのだな、と思った。
平日のドーナツ屋のカウンター席に座る中年オヤジは他者からどう映るのであろうか。しかも、片手にはイチゴチョコが塗りたくられたドーナツを持っているのだ。ろくな男じゃないのだろうと、容易に想像できるのではないだろうか。
つまらない考え事をしていると、スマートフォンから着信音が聞こえた。会社用の端末からではないようなので、相手を確認せず応答する。
『暇か。暇だろうな。今日、宅飲みを開催するんだ。来い』と、相手は自分の名前を言いもせず、ぶっきらぼうに言い放った。このようなイタ電じみたことをするのは一人しかいなかった。同期のクワタである。
「まあ暇なのは間違いない。ノルマは充分こなせたし、いいよ。今日は飲もう」
『暇なのを認めるのはどうかと思うが、あい分かった。今日の二十三時にアパート集合だ』
そう言うと、クワタは『じゃあ、また後で』と付け加え、電話を切った。
今日の二十三時に予定が入ってしまったことに少しげんなりし、ドーナツを頬張った。宅飲みが嫌というわけではないのだが、少し面倒くさいと思ってしまうのである。一人の時間を確保しないとストレスを抱えてしまう人種なので、こういった矛盾が発生するのはよくあることだった。ソフトドリンクのコーラを飲み切り、店を出た。時間いっぱいまで営業した振りをして、後は退社するだけである。なるべく遅い足取りで会社に向かうことにした。
***
今日中に終わらせなければいけない業務を片付け、クワタが住むアパートへと向かう。賑わう路地を少し離れたところにアパートがある。最近、再び塗装されたのか、真っ青な屋根がやけに目立っている。まるで私を手招きするように存在をアピールしていた。そこへ、ビニール袋を両手に持ったクワタが通りかかった。クワタが帰宅する時間帯と被ったのは全くの偶然で、間を開けて声を掛けてみる。
「クワタ、約束通り来たぞ」
「おお、来たか」とクワタは短く返答する。
クワタは器用にドアの鍵を開け、部屋に入っていった。おや、来客だというのに歓迎されないのはどういう了見であろうか。クワタはこういった気遣いに鈍感なところがある男だった。
私はクワタが開けたドアを引き、クワタの部屋に入った。相変わらず、性格の割に綺麗な部屋である。無駄なものが無いことが秘訣なのだろうか。クワタの玄関には革靴とスニーカーの二足しか用意されていなかった。
私を一瞥してクワタは「おお、来たか」と言った。
「宅飲みを開催したということは上等な酒を用意してるんだろうな」と、私は冗談を言った。
「おお」
「そうか、では少し期待しよう」と私は靴を脱いでリビングに腰を下ろす。時計を見ると、予定時刻より十分が過ぎていた。他の同期は遅刻しているようである。クワタは気にしていないようで、ビニール袋から酒を取り出し、グラスに酒を注いだ。
酒はやけに青かった。見た目はまさしくカクテルそのもので、炭酸がシュワシュワと音を立てている。しかし、一升瓶から酒は注がれており、どう見てもカクテルではない。新しくできた日本酒だろうか。一度も見たことがない酒だった。
酒が入ったグラスをクワタは私の目の前に置く。飲んでくれと言いたげに。
「クワタ。まだ集まって居ないのに飲み始めるのは盛り上がらんだろう」と私は指摘した。
すると、クワタはもう一つのグラスに、同じように酒を注いだ。
クワタはそれを一気に飲み干す。酒はさほど強くないはずのクワタはやけに平気そうだった。そしてこちらをチラリと見る。酒を飲んでみろということなのだろうか。
流石に、クワタの様子がおかしいことに気が付く。いつものジョークの類いだとも思えなかった。
そして、私はある違和感に気づいた。
私の位置から見えるゴミ箱に一つもゴミが入っていない――。今日はゴミ出しの日だったのだろうか。だとしてもゴミが全くないというのは珍しい。人間、一つが気になりだすと色々なものに目を向けてしまう。
もしやと思い、席を立ち、クワタの部屋にある冷蔵庫を開けた。
なにも、入っていない――。冷蔵庫の中は綺麗さっぱり空だった。
瞬間、身体中に悪寒が走る。何かがおかしい。先程から危険信号が鳴りっぱなしだった。
振り返ろうとした矢先、スマートフォンから着信音が鳴る。恐る恐る画面を確認する。そこには一番見たくなかった名前が書かれていた。クワタだ…。
『もしもし、お前どこにいるんだ? みんなお前を待ってるんだぞ』
「なに言ってるんだ。俺はお前の部屋にいるぞ…」
『はぁ?』
――ブチッ。通話が突然切れた。
もう後ろを振り返りたくなかった。恐ろしいことが待ち受けている気がしてならないのだ。
「おお、来たか」とクワタの声そっくりのナニカが言った。
それを皮切りに、私はリビングの方向を見た。クワタの顔を改めて確認する。今ならはっきりと分かる。明らかにクワタの顔ではない。猿だ。猿の顔だ。しわくちゃの皺が不気味に蠕動していた。
「お前、誰だ」
「おお、おお、来たか。来たか来たか来たか」
私は玄関目掛けて走った。ドアを開けようとしたが鍵が開かない。ガチャガチャと無駄に音を立てるだけだった。そうしている間にも、ナニカが近づいて来る。
「おお来たおおおお来た来たおおおお来たか」
「開け、開け、開け!」と私は必至にドアノブを回した。死に物狂いとは正にこのことであろう。奇跡的にドアは嫌な音を立て開き、私は外に放り出されるように前へと転がった。
***
それからのことはよく覚えていない。運よく、巡回をしていた警官に保護され、一命を取り留めたらしい。かなりの錯乱状態だったらしく、事情聴取にかなりの時間を要した。私は起きたことを全て正直に話そうか悩んだが、薬物中毒者だと疑われるのがオチだろうと、営業で培ったでまかせで凌いだ。
私が警官に発見されたのは深夜の二時半だったらしく、あの部屋に入ってから三時間以上の時間が経っていたことになる。あの空間は時間さえ正常ではなかったようだ。あの青い酒を飲んでいたらどうなっていたのだろうか。考えただけでも恐ろしかった。
私はクワタに謝罪の電話をし、日常生活に無事戻った。時々、ナニカの顔がフラッシュバックするが、忘れるのも時間の問題だろう。
私は行きつけのドーナツ屋に行き、いつもと同じようにドーナツを食べる。ふと、前見た求人が目についた。
なるほど。世界は嘘だらけだ。
平日のドーナツ屋のカウンター席に座る中年オヤジは他者からどう映るのであろうか。しかも、片手にはイチゴチョコが塗りたくられたドーナツを持っているのだ。ろくな男じゃないのだろうと、容易に想像できるのではないだろうか。
つまらない考え事をしていると、スマートフォンから着信音が聞こえた。会社用の端末からではないようなので、相手を確認せず応答する。
『暇か。暇だろうな。今日、宅飲みを開催するんだ。来い』と、相手は自分の名前を言いもせず、ぶっきらぼうに言い放った。このようなイタ電じみたことをするのは一人しかいなかった。同期のクワタである。
「まあ暇なのは間違いない。ノルマは充分こなせたし、いいよ。今日は飲もう」
『暇なのを認めるのはどうかと思うが、あい分かった。今日の二十三時にアパート集合だ』
そう言うと、クワタは『じゃあ、また後で』と付け加え、電話を切った。
今日の二十三時に予定が入ってしまったことに少しげんなりし、ドーナツを頬張った。宅飲みが嫌というわけではないのだが、少し面倒くさいと思ってしまうのである。一人の時間を確保しないとストレスを抱えてしまう人種なので、こういった矛盾が発生するのはよくあることだった。ソフトドリンクのコーラを飲み切り、店を出た。時間いっぱいまで営業した振りをして、後は退社するだけである。なるべく遅い足取りで会社に向かうことにした。
***
今日中に終わらせなければいけない業務を片付け、クワタが住むアパートへと向かう。賑わう路地を少し離れたところにアパートがある。最近、再び塗装されたのか、真っ青な屋根がやけに目立っている。まるで私を手招きするように存在をアピールしていた。そこへ、ビニール袋を両手に持ったクワタが通りかかった。クワタが帰宅する時間帯と被ったのは全くの偶然で、間を開けて声を掛けてみる。
「クワタ、約束通り来たぞ」
「おお、来たか」とクワタは短く返答する。
クワタは器用にドアの鍵を開け、部屋に入っていった。おや、来客だというのに歓迎されないのはどういう了見であろうか。クワタはこういった気遣いに鈍感なところがある男だった。
私はクワタが開けたドアを引き、クワタの部屋に入った。相変わらず、性格の割に綺麗な部屋である。無駄なものが無いことが秘訣なのだろうか。クワタの玄関には革靴とスニーカーの二足しか用意されていなかった。
私を一瞥してクワタは「おお、来たか」と言った。
「宅飲みを開催したということは上等な酒を用意してるんだろうな」と、私は冗談を言った。
「おお」
「そうか、では少し期待しよう」と私は靴を脱いでリビングに腰を下ろす。時計を見ると、予定時刻より十分が過ぎていた。他の同期は遅刻しているようである。クワタは気にしていないようで、ビニール袋から酒を取り出し、グラスに酒を注いだ。
酒はやけに青かった。見た目はまさしくカクテルそのもので、炭酸がシュワシュワと音を立てている。しかし、一升瓶から酒は注がれており、どう見てもカクテルではない。新しくできた日本酒だろうか。一度も見たことがない酒だった。
酒が入ったグラスをクワタは私の目の前に置く。飲んでくれと言いたげに。
「クワタ。まだ集まって居ないのに飲み始めるのは盛り上がらんだろう」と私は指摘した。
すると、クワタはもう一つのグラスに、同じように酒を注いだ。
クワタはそれを一気に飲み干す。酒はさほど強くないはずのクワタはやけに平気そうだった。そしてこちらをチラリと見る。酒を飲んでみろということなのだろうか。
流石に、クワタの様子がおかしいことに気が付く。いつものジョークの類いだとも思えなかった。
そして、私はある違和感に気づいた。
私の位置から見えるゴミ箱に一つもゴミが入っていない――。今日はゴミ出しの日だったのだろうか。だとしてもゴミが全くないというのは珍しい。人間、一つが気になりだすと色々なものに目を向けてしまう。
もしやと思い、席を立ち、クワタの部屋にある冷蔵庫を開けた。
なにも、入っていない――。冷蔵庫の中は綺麗さっぱり空だった。
瞬間、身体中に悪寒が走る。何かがおかしい。先程から危険信号が鳴りっぱなしだった。
振り返ろうとした矢先、スマートフォンから着信音が鳴る。恐る恐る画面を確認する。そこには一番見たくなかった名前が書かれていた。クワタだ…。
『もしもし、お前どこにいるんだ? みんなお前を待ってるんだぞ』
「なに言ってるんだ。俺はお前の部屋にいるぞ…」
『はぁ?』
――ブチッ。通話が突然切れた。
もう後ろを振り返りたくなかった。恐ろしいことが待ち受けている気がしてならないのだ。
「おお、来たか」とクワタの声そっくりのナニカが言った。
それを皮切りに、私はリビングの方向を見た。クワタの顔を改めて確認する。今ならはっきりと分かる。明らかにクワタの顔ではない。猿だ。猿の顔だ。しわくちゃの皺が不気味に蠕動していた。
「お前、誰だ」
「おお、おお、来たか。来たか来たか来たか」
私は玄関目掛けて走った。ドアを開けようとしたが鍵が開かない。ガチャガチャと無駄に音を立てるだけだった。そうしている間にも、ナニカが近づいて来る。
「おお来たおおおお来た来たおおおお来たか」
「開け、開け、開け!」と私は必至にドアノブを回した。死に物狂いとは正にこのことであろう。奇跡的にドアは嫌な音を立て開き、私は外に放り出されるように前へと転がった。
***
それからのことはよく覚えていない。運よく、巡回をしていた警官に保護され、一命を取り留めたらしい。かなりの錯乱状態だったらしく、事情聴取にかなりの時間を要した。私は起きたことを全て正直に話そうか悩んだが、薬物中毒者だと疑われるのがオチだろうと、営業で培ったでまかせで凌いだ。
私が警官に発見されたのは深夜の二時半だったらしく、あの部屋に入ってから三時間以上の時間が経っていたことになる。あの空間は時間さえ正常ではなかったようだ。あの青い酒を飲んでいたらどうなっていたのだろうか。考えただけでも恐ろしかった。
私はクワタに謝罪の電話をし、日常生活に無事戻った。時々、ナニカの顔がフラッシュバックするが、忘れるのも時間の問題だろう。
私は行きつけのドーナツ屋に行き、いつもと同じようにドーナツを食べる。ふと、前見た求人が目についた。
なるほど。世界は嘘だらけだ。
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