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歌姫来たる
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ぼくは朝から気が重かった。その日は黒猫が目の前の道をよぎった……ような気がしたし、ぼくは意図せずに梯子の下をくぐった……ような気もした。とにかく、目が覚めてから学校に来るまで、目の前に現れるものすべてがこれ凶兆に見えたのだ。
凶兆はさらに続いた。数学の授業では、イヤらしい問題を出した教師の罠に見事に引っかかって教室中の生徒の前で大恥をかいてしまったし、書道では墨をひっくり返して、ズボンにでっかいシミを作ってしまった。
そしてなんとも嫌なことに、それらは『凶兆』でしかなかった。ぼくにとって最大の凶事は、一人の生徒の姿をとってあらわれることとなる。
それはもちろん、『歌姫』が、生徒会室に現れたことだ。
ぼくは生徒会室で弁当を食べ終えた後、疲れきって机でぐたっとしていた。
「まだ昼休みだよ。そんなふうに倒れてたら、午後の授業に差し支えるよ」
ジョニィがマンガ雑誌を読みながら笑った。
「ジョニィ、お前にはわからないんだ。ぼくを襲おうとしている恐怖は、今まさに形を取ろうとしているかもしれないんだぞ」
「こんないい天気の日に、凶事も何もないと思うんだけどねえ」
生徒会室のドアが、乱暴にがんがんと叩かれた。
「はーい」
ジョニィが答えると、引き戸ががらがらと開けられた。
「こんちゃー。学園祭実行委員見習い希望っすー。委員長いる?」
「伊藤さんですね。学園祭実行委員長はこいつですよ。おい、起きろ」
可能ならばぼくは寝たふりを続けたかったのだが、ジョニィは許してはくれなかった。
目の焦点を合わせる。
腰まである長い黒髪、化粧っけはほとんどゼロのナチュラルメイクなのに「ケバい」としか表現できない顔。アーミールックを基調としたラフな格好。
それが『歌姫』だった。『歌姫』は眉をひそめた。
「ん……なんか、ついてる?」
ついてないよ。でも、どこから見ても、外人部隊の傭兵のお姐さんだ。
ぼくは気を取り直して『歌姫』に向き合った。
「はい。ぼくが学園祭実行委員長の染野です。伊藤さんですね? 話は聞いてます」
「堅っ苦しいのは嫌いだぜ。そう、伊藤っす。実行委員見習いっす」
「まあ、見習いだね。たしかに。本選は来年度だからね。実行委員会だけど……役職はいろいろあるよ」
ぼくは腹を据えていった。
「渉外、広報、会計……その他いろいろね。いちおう、ぼくが実行委員長候補ということになっているけど、新学期までは、ただの一会計係さ」
で。
「伊藤さんは、何を希望するの? 広報?」
広報で済むわけがない。絶対、企画を選ぶはずだ。企画とは、校内の教室で行われるクラスや部活の出しもののすべてを統括し管理する責任者だ。
「いや」
『歌姫』は首を振った。
「集いをやりたい」
集い……そういえば、開会宣言の後、体育館に集まった全校生徒が討論会をやるあれか。労多くして益少ないので、誰もやりたがらないやつだな。
「ああ……いいよ」
「ほんとだな!」
表情を一変させ、『歌姫』はぼくに指を突きつけた。それまでが傭兵のお姐さんだったら、今はアサルトライフルの銃口を突きつけてきた傭兵のお姐さんだった。素手の人間がライフルの弾丸に勝てるわけがない。ぼくはたじたじとなった。
「武士に二言はないな! あたしにやらせるといったな! 学園祭実行委員長として誓ったな!」
『歌姫』はポケットから小型のICレコーダーを取り出した。
「今の言葉はきちんと録音したぞ!」
ものすごいテンションだ。
ジョニィが眼鏡の位置を直して立ち上がった。
「まあ、そう興奮することでもないよ。学園祭はまだ先だよ。伊藤さん、集いに対して相当意欲があるようだけど、なにかビジョンがあるの?」
「『歌姫』と呼びな」
『歌姫』は胸を張った。
「あたしが実行委員になったからには、集いは今までのケチな集いじゃなくなるぜ」
では、どういう……。
ぼくは、あっ、といった。『歌姫』と軽音部の狙いが読めたからだ。
「『歌姫』、あんた……」
ぼくは震える声でいった。
「集いを、一大ライブ大会に変えてしまう気だな! 体育館で、ロックコンサートをやろうっていうんだろう!」
冗談じゃない。
「いいか、ぼくは断固として……」
「いいじゃない!」
あ?
「なあ、委員長、いいアイデアじゃないか。試してみる価値はあるよ」
「ジョニィ、落ち着いて聞いてくれ。わが校の言論の場が脅かされて」
「脅かされるもなにも、集いの時間は、参加者のエスケープが前から問題になっていたじゃないか」
「だがな、ひとつの部活のために生徒全員が拘束されるというのは問題があると」
「ひとつの部活の発表会という形をとらなきゃいいじゃないか」
いかん。ジョニィの目が輝き出している。
仲裁者はいないのか。
生徒会室の扉が開いた。
「あ、伊藤さん、ここにいたのか。探してたんだ」
会長と生徒会顧問教師の、化学の榎戸先生が入ってきた。願ってもない援軍だ。
「会長、先生、突然ですが、実はいま、こんなことが」
かくかくしかじか。
簡潔な説明を終えたぼくは、二人を見た。
「こんなことが、許されてしかるべきでしょうか」
「先生」
「うむ」
ぼくはほっとしてふたりの目を見た。
あれ? キラキラと輝いているような。
「伊藤さん」
生徒会長はスタッカートな声でいいながら、片手を突き出した。
「あなたは天才だ」
え?
「握手してください。それと、ぜひそのアイデアを使わせてください」
ええ?
「生徒会は全力で応援します」
えええ?
がっしりと握手をする生徒会長と歌姫の姿を見ながら、榎戸先生は白いものが混じった髪を揺らし、度の強い眼鏡を外してハンカチで拭った。
「教職員の方にも、わたしから話をしておこう。最近の若者は覇気がないと思っていたが、君のような冒険心のある学生がわが校にも育っていたとは……」
ええええ?
呆然としているぼくの肩に、ジョニィがポンと手を置いた。
「決まりみたいだよ」
「このことについては、非公式に話し合いたい。『やまや』で飯を食いながらわれわれだけで大まかなところを決めておこう」
生徒会長がいった。
「そういや、最近行ってないよね、『やまや』」
ジョニィの答えに、『歌姫』が首を傾げた。
「『やまや』って?」
今度はジョニィが胸を張った。
「ぼくの憧れの人がやっている店さ」
やめてくれ。こんなやつを『やまや』に連れていくのか。こういうやつからは、『やまや』は隔離しておくべきじゃないのか。
ぼくはそう思ったが、とてもそんな意見が通る場には思えなかった。
「じゃあ、時間ができたら、『やまや』で。お前はいつものカルビクッパでいいんだろ?」
悪夢だ。ぼくは悪夢を見ているんだ。
どうか夢なら覚めてくれ、と思ったが、熱っぽく語り合う会長と『歌姫』とジョニィを見ているうちにどうでもよくなってきた。
ぼくは生徒会室に転がっていたマンガ雑誌を取り上げると適当なページを開いて読み始めた。
壁にかかっている鏡を見ると、ぼくの顔はまるでなにもかも諦めきった、敗残の明智光秀みたいな表情になっていた。
ぼくは朝から気が重かった。その日は黒猫が目の前の道をよぎった……ような気がしたし、ぼくは意図せずに梯子の下をくぐった……ような気もした。とにかく、目が覚めてから学校に来るまで、目の前に現れるものすべてがこれ凶兆に見えたのだ。
凶兆はさらに続いた。数学の授業では、イヤらしい問題を出した教師の罠に見事に引っかかって教室中の生徒の前で大恥をかいてしまったし、書道では墨をひっくり返して、ズボンにでっかいシミを作ってしまった。
そしてなんとも嫌なことに、それらは『凶兆』でしかなかった。ぼくにとって最大の凶事は、一人の生徒の姿をとってあらわれることとなる。
それはもちろん、『歌姫』が、生徒会室に現れたことだ。
ぼくは生徒会室で弁当を食べ終えた後、疲れきって机でぐたっとしていた。
「まだ昼休みだよ。そんなふうに倒れてたら、午後の授業に差し支えるよ」
ジョニィがマンガ雑誌を読みながら笑った。
「ジョニィ、お前にはわからないんだ。ぼくを襲おうとしている恐怖は、今まさに形を取ろうとしているかもしれないんだぞ」
「こんないい天気の日に、凶事も何もないと思うんだけどねえ」
生徒会室のドアが、乱暴にがんがんと叩かれた。
「はーい」
ジョニィが答えると、引き戸ががらがらと開けられた。
「こんちゃー。学園祭実行委員見習い希望っすー。委員長いる?」
「伊藤さんですね。学園祭実行委員長はこいつですよ。おい、起きろ」
可能ならばぼくは寝たふりを続けたかったのだが、ジョニィは許してはくれなかった。
目の焦点を合わせる。
腰まである長い黒髪、化粧っけはほとんどゼロのナチュラルメイクなのに「ケバい」としか表現できない顔。アーミールックを基調としたラフな格好。
それが『歌姫』だった。『歌姫』は眉をひそめた。
「ん……なんか、ついてる?」
ついてないよ。でも、どこから見ても、外人部隊の傭兵のお姐さんだ。
ぼくは気を取り直して『歌姫』に向き合った。
「はい。ぼくが学園祭実行委員長の染野です。伊藤さんですね? 話は聞いてます」
「堅っ苦しいのは嫌いだぜ。そう、伊藤っす。実行委員見習いっす」
「まあ、見習いだね。たしかに。本選は来年度だからね。実行委員会だけど……役職はいろいろあるよ」
ぼくは腹を据えていった。
「渉外、広報、会計……その他いろいろね。いちおう、ぼくが実行委員長候補ということになっているけど、新学期までは、ただの一会計係さ」
で。
「伊藤さんは、何を希望するの? 広報?」
広報で済むわけがない。絶対、企画を選ぶはずだ。企画とは、校内の教室で行われるクラスや部活の出しもののすべてを統括し管理する責任者だ。
「いや」
『歌姫』は首を振った。
「集いをやりたい」
集い……そういえば、開会宣言の後、体育館に集まった全校生徒が討論会をやるあれか。労多くして益少ないので、誰もやりたがらないやつだな。
「ああ……いいよ」
「ほんとだな!」
表情を一変させ、『歌姫』はぼくに指を突きつけた。それまでが傭兵のお姐さんだったら、今はアサルトライフルの銃口を突きつけてきた傭兵のお姐さんだった。素手の人間がライフルの弾丸に勝てるわけがない。ぼくはたじたじとなった。
「武士に二言はないな! あたしにやらせるといったな! 学園祭実行委員長として誓ったな!」
『歌姫』はポケットから小型のICレコーダーを取り出した。
「今の言葉はきちんと録音したぞ!」
ものすごいテンションだ。
ジョニィが眼鏡の位置を直して立ち上がった。
「まあ、そう興奮することでもないよ。学園祭はまだ先だよ。伊藤さん、集いに対して相当意欲があるようだけど、なにかビジョンがあるの?」
「『歌姫』と呼びな」
『歌姫』は胸を張った。
「あたしが実行委員になったからには、集いは今までのケチな集いじゃなくなるぜ」
では、どういう……。
ぼくは、あっ、といった。『歌姫』と軽音部の狙いが読めたからだ。
「『歌姫』、あんた……」
ぼくは震える声でいった。
「集いを、一大ライブ大会に変えてしまう気だな! 体育館で、ロックコンサートをやろうっていうんだろう!」
冗談じゃない。
「いいか、ぼくは断固として……」
「いいじゃない!」
あ?
「なあ、委員長、いいアイデアじゃないか。試してみる価値はあるよ」
「ジョニィ、落ち着いて聞いてくれ。わが校の言論の場が脅かされて」
「脅かされるもなにも、集いの時間は、参加者のエスケープが前から問題になっていたじゃないか」
「だがな、ひとつの部活のために生徒全員が拘束されるというのは問題があると」
「ひとつの部活の発表会という形をとらなきゃいいじゃないか」
いかん。ジョニィの目が輝き出している。
仲裁者はいないのか。
生徒会室の扉が開いた。
「あ、伊藤さん、ここにいたのか。探してたんだ」
会長と生徒会顧問教師の、化学の榎戸先生が入ってきた。願ってもない援軍だ。
「会長、先生、突然ですが、実はいま、こんなことが」
かくかくしかじか。
簡潔な説明を終えたぼくは、二人を見た。
「こんなことが、許されてしかるべきでしょうか」
「先生」
「うむ」
ぼくはほっとしてふたりの目を見た。
あれ? キラキラと輝いているような。
「伊藤さん」
生徒会長はスタッカートな声でいいながら、片手を突き出した。
「あなたは天才だ」
え?
「握手してください。それと、ぜひそのアイデアを使わせてください」
ええ?
「生徒会は全力で応援します」
えええ?
がっしりと握手をする生徒会長と歌姫の姿を見ながら、榎戸先生は白いものが混じった髪を揺らし、度の強い眼鏡を外してハンカチで拭った。
「教職員の方にも、わたしから話をしておこう。最近の若者は覇気がないと思っていたが、君のような冒険心のある学生がわが校にも育っていたとは……」
ええええ?
呆然としているぼくの肩に、ジョニィがポンと手を置いた。
「決まりみたいだよ」
「このことについては、非公式に話し合いたい。『やまや』で飯を食いながらわれわれだけで大まかなところを決めておこう」
生徒会長がいった。
「そういや、最近行ってないよね、『やまや』」
ジョニィの答えに、『歌姫』が首を傾げた。
「『やまや』って?」
今度はジョニィが胸を張った。
「ぼくの憧れの人がやっている店さ」
やめてくれ。こんなやつを『やまや』に連れていくのか。こういうやつからは、『やまや』は隔離しておくべきじゃないのか。
ぼくはそう思ったが、とてもそんな意見が通る場には思えなかった。
「じゃあ、時間ができたら、『やまや』で。お前はいつものカルビクッパでいいんだろ?」
悪夢だ。ぼくは悪夢を見ているんだ。
どうか夢なら覚めてくれ、と思ったが、熱っぽく語り合う会長と『歌姫』とジョニィを見ているうちにどうでもよくなってきた。
ぼくは生徒会室に転がっていたマンガ雑誌を取り上げると適当なページを開いて読み始めた。
壁にかかっている鏡を見ると、ぼくの顔はまるでなにもかも諦めきった、敗残の明智光秀みたいな表情になっていた。
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