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9-4 鉄血山を覆うて(3)

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 「大警視・川路利良。陸軍少将及び旅団司令長官を命ずる」
 明治十年二月末、利良は大阪にいた。
 背中や腕に刻まれた無数の傷も大分癒え、余計なことはあまり考えないように職務に邁進する。
 しかし、ふとした拍子に。
 指先はざらついた、仄かに温かな猪口の感触を思い出させた。穏やかだったあの日の出来事を、時代という流れの大波が、あっという間に利良をのみこんでしまう。
 晋祐と交わした盃や、他愛もない会話。
 様々な記憶が鮮明に蘇るが、随分と昔の事に思えた。
 晋祐やキヨの事が、心配で堪らないものの。手紙をしたためる筆が、何故か止まってしまう。
〝少し……一人にして、くいやはんどかい〟
 まさか。あの時に発した突き放した言葉が、晋祐への最後になるとは思わなかった。
 会って謝りたい。
 感謝を述べたい。
 素直に気持ちは湧き上がるのに、どうしようもない後悔が筆を握る手を押しとどめてしまうのだ。
「川路大警視。東京から電信文書が、届いております」
「あぁ……あいがとさげもす(※ ありがとうございます)」
 鋭い眼光を放つ邏卒らそつに、突然話しかけられ。利良が手にしていた筆から、真っ白な紙に墨が丸く落ちる。
 うやむやな気持ちを反映するかのような丸い滲みが、利良に深いため息をつかせてしまった。
 電信文書の内容など、読まなくてもわかる。
 戦場となる九州への輸送・基地になっていた大阪で、利良は東奔西走していた。様々な雑務に追われ、横になることすら許されない日々。大阪や神戸に到着した若き警察部隊を見送る利良の心に、一つの念が湧き始めた。
おいも、行かんな行かん……! 絶対に!!)
 その思いが、利良を戦地に。鹿児島へとけさせたのだ。
 この頃の征討軍と薩軍は、一進一退を極めていた。
 銃撃戦を中心とした戦いは、より一層激しさを増し、両軍の武器・弾薬を枯渇させる事態にまで陥る。大久保利通も利良も、ある程度戦闘が長引けば征討軍が優勢になり、戦況を支配できると踏んでいた。
 しかし、利良等の予想に反し、薩軍の抵抗は凄まじかったのだ。
 熊本鎮台が守護する熊本城を攻撃・包囲していた薩軍は、軍の一部を小倉(現・福岡県北九州市小倉)に北上させる。未だ戦力の補給が間に合わなかった政府率いる征討軍は、植木(現・熊本県鹿本郡植木町)で大敗を期してしまった。
 勢いづいた薩軍は、さらに熊本城へ猛攻するとともに、南下する官軍の進軍を片っ端らから食い止める。
 双方の激闘は結果として、征討軍、薩軍ともに約六千七百人の犠牲を出してしまうことになる。
 長期戦など、悠長な事を言っている場合ではない。
 一刻も早い戦闘の終結が、政府の喫緊の課題となったのである。
「大警視も行かれるのでしょうか?」
 電信文書を利良に渡した眼光鋭い邏卒は、利良に言った。話しかけられると思っていなかった利良は、ハッとして顔を上げた。
「あ、あぁ。おいが行かんこてな。鹿児島んこつぁ鹿児島んで治めんなら」
「ならば、私を。大警視の近くで働かせてはいただけないでしょうか」
貴殿おはんな、名はなんち言うとな」
 真っ直ぐに臆する事なく利良を見据える邏卒。体も大きく自信に満ちたその態度に、利良は興味をそそられた。
「藤田五郎、警部補であります」
 名前を聞いた利良は、納得したように笑いだす。
「藤田殿どん……あぁ、そいなら。剣の腕に間違いなかなぁ」
 なるほど。それなら、以ての外。 
 警視庁に入庁する際、全ての邏卒の身辺は必ずと言っていいほど調べ上げていた。今、藤田と名乗ったこの男もしかり。彼こそ新撰組三番隊組長・斎藤一、その人だ。
 利良は「藤田殿がいてくいやったら、心強えどなぁ。是非、頼もんで」と笑って返事をした。
 藤田が部屋を出るのを見計らい。利良は机の引き出しから、一枚の紙を取り出す。
『別働旅団』--と、記された白い紙。
 利良は筆を取ると、躊躇なく藤田の名前を書き記した。川路利良が警視庁の邏卒で編成した小隊。これが征討軍劣勢の流れを変える切り札となった『抜刀隊』である。

 ✳︎       ✳︎       ✳︎

「何を言われても答えは同じだ! 俺はもう、関係ない!」
 庭先に咲く山桜の花が、ぽとりと落ちてしまうほどの怒号。
 往来の誰もが驚き、首を左右に辺りを見渡している。
 同時に、たらいの中の水がひっくり返ったような激しい水飛沫の音がした。
「有馬先生ェ、そこをなんとか! お願いできんどかい」
 春が近づき、大分暖かくなってきたとはいえ。井戸水は氷のように冷たい。
 かつての穏やかな晋祐とは裏腹の凄まじい剣幕と水の冷たさに、頭から水を被った若二才は思わず身震いをした。
 怒り冷めやらぬ晋祐は、若二才を一瞥する。
 そして縁側から家に上がると、無言のままピシャリと襖をしめた。
(今更、なんだ! 俺の言う事など、聞く耳も持たなかったくせに!)
 怒気を含んだため息をつき、晋祐は床の間の隅に畳まれた傷んだ着物に視線を落とす。
 未だ答えが見つからない、釈然としない胸中に語りかけるように。晋祐はポツリと呟いた。
「利良殿……。俺達が描いた黎明は、これだったのだろうか」
 晋祐の胸中に呼応するかのように。花器に飾られた一枝の臥龍梅の花弁はなびらが、はらりと一つ落ちる。
 私学校を去った晋祐は、新屋敷の有馬邸とキヨの生家である比志島を行き来する生活を送っていた。
 かつては、笑い声が響き賑やかだった比志島の家も、もう利良の母しか住んでおらず。
 僅かな米と野菜を育てるのみとなっている。
 週に二、三度、晋祐とキヨは比志島へ行き、母の様子見を兼ねて猫の額ほどになった田畑の手入れをしていた。
 キヨと二人。何事にも左右されず、悠々自適に暮らす。そう決めた矢先のこと。
 明らかに薩軍の伝令らしき若二才が、頻繁に晋祐の元を訪れる。
 それだけならまだいい。
 いつも違う若二才であるにも拘らず、彼等は開口一番に決まって同じ言葉を放つのだ。
「西郷軍に力を貸してくいやはんどかい! 南洲翁が切望されちょいす!」
 今日も新屋敷にある有馬邸の庭先に、一人の若二才が立っていた。
 脇差を携えた彼の着衣は乱れ、見るからに敗走してきた武士そのものという出立ち。
 いつも聞き飽きたあの言葉を喚くどころか、泥だらけの顔は表情も暗く、晋祐と視線を交わそうとしなかった。いつもなら無視を決め込む晋祐だが、そういう訳にもいかない。そんな気がして若二才に声をかけた。
「……どうしたんだ? 何かあったのか?」
「篠原隊長が……」
 ようやく口を開いた若二才の声は掠れ、力がない。
 耳にかなり注力していないと、聞こえないほど弱々しかった。
「篠原殿が、どうしたのか?」
「……敵弾に倒れっしもて」
 若二才の次の言葉を聞くまでもなく、晋祐の胸がざわざわと音を立てた。厭な予感しかない。
「お亡くなりに……ないもした」
「篠原殿が……亡くなった?」
 恰幅の良い巨男。
 剛健たる容姿とは打って変わって、その人柄は無口で穏やかであったと、晋祐の記憶している。篠原国幹しのはらくにもとは言辞整然、論旨明徹。
 器量人(※ 大きな物事をなしとげる能力をそなえた人)の器を兼ね備えた篠原の思わぬ訃報に、晋祐は言葉を失った。
 若二才は、掠れた声を振り絞り続ける。
「熊本ん吉次峠で、亡くなり申した」
「……」
「田原坂・吉次峠で征討軍と薩軍は、一進一退の攻防を繰り広げちょっ。じゃどんから(※ ですが)、人数や武器が圧倒的に足らんち。篠原隊長は申しておいやった。篠原隊長だけじゃね! 村田隊長も、皆足らんち嘆いちょっごわっ!!」
 若二才は、初めて晋祐と視線を交わした。
 絶望とも悲哀ともつかぬ大きな目に、涙を宿す。
 唇を噛みしめる若者は、自分だけの力ではどうすることもできない大きな力の前に、己が無力を悟っていた。
「有馬先生、後方支援を……我が薩軍の後方支援をしぃくいやはんどかい!!」
「……」
「このままでは、薩軍は志半こころざしなかばで全滅してしもっ!」
 溜め込んでいた感情が一気に吹き出し、若二才の目から、一つまた一つと涙が溢れ落ちる。
「有馬先生は勘定方として、手腕を発揮されきもした!! その手腕を薩軍に使つこてくいやはんどかい!!」
 いつもの晋祐なら「できない! 帰れ!」と一喝するところなのだが。目の前で必死に訴える若二才を突き放すことができないでいた。
おとっあんにょも……皆、けしんでしもた。 俺おいももう、どげんせぇば 良とか分からん 事ごちなっきもした!」
 一度は袂を分かった身。
 黎明など関係ないと、世を捨てた。
 それなのに、同郷の者が敵味方に分かれぶつかり合う様を、つぶさに想像してしまう。
 その中には、利良の姿あった。
 利良にもう二度と会えないのでは、と晋祐は思わず拳を握り締める。
 一刻も早く、この戦を終わらさなければ!! 
 ならば、己がすべきことは--なんだ!!
 春も近いとはいえ、この年の春は依然として厳しい寒さが支配した。
 晋祐は裸足のまま、冷たい沓脱石の上に降りる。
 若二才の手を取ることに、躊躇していないはずはない。迷いを孕んでいながらも、目の前で薩摩を、鹿児島を憂う若者を放っておくことができなかった。
 咽び泣く若二才の、冷たくなった手を。
 晋祐は、力を込めて握り締めた。
「分かった。分かったから……もう泣くな」
 若二才の姿が、一瞬、若き日の利良に見える。
 晋祐は稚児を慰めるように、穏やかな口調で言った。
「俺が後方支援をする。もう大丈夫だから、泣くな」

「ここまで長引くと、もう持たないぞ……」
 旧藩邸・鶴丸城二の丸の武器庫を見渡し、晋祐は狼狽した。
 征討軍に破壊された弾薬製作所や砲台に紛れて、唯一残っていた小さな武器庫。
 そこには、辛うじて僅かばかりのスナイドル銃や弾薬が残されていた。
 私学校を占拠する征討軍に見つからぬよう。
 薄暮時に紛れ、晋祐は城山方面の山手から数人の若二才と武器庫に侵入する。無駄のない動きで、弾薬や銃を手分けして抱えると、頰被りをした若二才等が次々と乱立する木々に紛れて走りだした。
 晋祐が後方支援隊長を命ぜられた明治十年三月末までは、武器庫の中に砲弾や銃が半分ほど備蓄されていた。
 決着するどころか、九州各地で交戦し、次々と戦地に武器を放出せざるを得ない状況下。圧倒的に弾薬が不足しているのは、両軍同じこと。
 銃はあっても、打てないのだ。
 それから四ヶ月余り。
 薩軍が北上する中、征討軍は海上から鹿児島へ上陸する。住民の反感を買いながらも、そのまま私学校を占拠し、鹿児島を支配下に置いていた。
 晋祐等、薩軍後方支援部隊は私学校での活動を断念。
 かつて鶴丸城二の丸があった城山の麓にある荒屋あばらやに隊を構えた。
 しかし、大っぴらに活動などできるはずもない。
 ひっそりと後方支援する晋祐等薩軍に、地域住民も協力を惜しまなかったのだ。西郷の人徳が、深く住民に心に根付いていたのである。
 西郷への圧倒的な信頼と尊敬。
 ところがそれも、次第に限界を迎えつつあった。
 一向に決着のつかない薩軍と征討軍の争いは、衰える事なく悪化の一途を辿る。激しい戦火は次第に南下し、きな臭い話も鹿児島の中心地にも広まり始めた。薩軍の動向は、住民の不安を掻き立てる十分な要素となっていたのである。
 軍隊等を総動員した征討軍が、ここまで苦戦したのは、やはり草牟田の武器庫から大半のスナイドル銃と弾薬を奪われたことが尾を引いている。
 征討軍は、装備の補充を重点に置き、スナイドル銃の配備ができなくなると、旧式銃等を装備させる等して数を補った。
 それは薩軍も同様だ。
 銃を捨て、一撃必殺で突進する抜刀隊へと変化させていく。両軍ともそうせざるを得ない、切羽詰まった状まできていたのだ。
 保管されていた武器を倉庫から全て出し終えた晋祐は、異様に広く感じる倉庫の中を見渡した。そして、漠然と。薩摩には、鹿児島には、自らが思い描く新世界や黎明はこない。そう思っていた。
「有馬先生! 宮崎ん方面の隊が次々と退却しぃちょっいもす! 辺見殿へんみどんが隊の、大口(現・鹿児島県伊佐市大口)が陥落してからこっち、征討軍の勢いは龍が水を得るが如しごわんそ!」
 武器を運搬し、命からがら帰還した若二才が、興奮冷めやらぬ口調で捲し立てる。
 薩摩の英傑をもってしても、征討軍の勢いは止められない。一歩引いて状況を把握しているからこそ、薩軍の末路が輝かしいものではないと想像は難くない。
 晋祐は大きく息を吸った。
(生きていれば……生きていさえすれば! 必ず好転する!! 大丈夫、必ずだ!)
 自分自身に放った言葉を噛み締め、晋祐は腰に重量の残す脇差しに手を添える。
 吸った息を大きく吐き。不安気に固唾かたずを飲む若二才等を前に、力強く叫んだ。
「武器を運搬したついででいい! 各隊に自ら見た事聞いた事を正解に伝えろ! 生きる事を最優先に!! 必ず生きて帰るように伝えるんだ!!」
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